2.御旅屋綾乃
正午、千葉県市川市。
とあるレディースマンション、五〇四号室。
「ふぁ〜あ。おはよう、アタシ」
御旅屋綾乃、23歳女性、起床。
眠い目をこすりながら洗面所へ。ぬるま湯で洗顔を済ませ、寝癖を直す。今日は髪の機嫌が良い、八十五点。悪いと吉宗ばりに暴れ散らかすこともある。次は昼食。レーズンブレッド二切れ、インスタントの野菜スープ、適当なドライフルーツ。以上を豆乳で流し込む。歯に挟まった何かしらを舌でこそぎ落としつつ、玄関で新聞を二部引っ張り出す。経済紙と全国紙。
「県知事の公職選挙法違反、年金改革、沖縄の領海侵犯、ふんふん……あ、MVIDIAの株価また落ちてんじゃん。理由は『CEOが大統領と会談、密接な関係』? 何でそれで下がんの? 大統領の評判良くないから?」
側頭部を掻く。
「よ〜分かんないわ株の辺りは。アタシの客層じゃあそこまでだからいいんだけど」
経済紙をさっさと読了して、全国紙をかいつまんで読んでいく。読みながら食器を食洗機に突っ込み、着替えに移る。寝室に戻り、クローゼットに片手だけ差し入れて黒のジャージを引っ張り出す。
「よし、新聞OK!」
用済みになった新聞をほっぽり出して素早くジャージを着る。着替えまで済むとようやく目が冴えてくる。直に迎えが来る、支度を急がねば。そのまま部屋を出る――
刹那、足元に目が留まる。自分の膝の高さほどに積み上がった洗濯物の山々。ジャージ、下着、靴下、ハンカチ、仕事着、新聞……
「……明日にしよ」
山の開拓からは目を背けた。
午後二時。
チャイムが鳴る。玄関からの呼び出し。
「菖蒲さん、お迎えにあがりました」
「は〜い〜今行く〜」
いつもの仕事鞄を小脇に家を出る。エレベーターを渡って玄関へ。紺の着物を纏った男に恭しくお辞儀される。
「おはようございます」
「よろしく〜」
黒塗りの車、後部座席にざぶんと腰を下ろす。男が音もなく運転席に乗り込み、静かに発進。車内のモニターにはニュースが映し出されている。
「ねぇ慧弥」
「はい」
「不倫ってどこからが不倫なの?」
「何です藪から棒に」
「ニュース見てよ。この司会者さん、一般人女性と不倫したとか言われてるけどさぁ、どこのラインまで行ったかは分かんなくない?」
「不倫と言えば肉体関係でしょう」
「でもこれだけ有名人だったら一緒に食事しただけでそう言われない?」
「確かに、そうかもしれませんね」
「ね。不倫だけじゃないけど、人によってその言葉の意味って変わっちゃうよね。アタシも『菖蒲』って名前を貰ったけど、どんな意味を持たせてあげられるんだろう」
車窓から外が見える。曇り空、小雨が窓を叩く。人影が忙しなく通り過ぎていく。この人は今から何をするのだろう。あの人は何を思って生きていくのだろう。ついそんなことを考えてしまう。視界の端にはあの壁が映っていた。
「菖蒲さん、見た目に合わず思慮深いですね」
「そうよ。変?」
「いえいえ、それくらいでないと部屋持ちなど務まりませんから」
「褒めてるのよね?」
「勿論です。それと、菖蒲さん……」
「ん?」
「私等の名前は呼ばないでくださいと何度も申しました。癖になられては困ります」
男の言葉に顔を顰める。
「何よ、呼んであげてるのに」
「目録の罰則ですよ。閣内でそう呼んでご覧なさい、皆大目玉です。部屋持ちの名にも傷がつくでしょうね」
諭す様な声色でそう言われる。それが余計に癪に障る。
「男衆を番号で呼ぶの、いけ好かないのよ。皆名前があるのに」
「それでいいんです。『菖蒲』だって本名でないでしょう。仙繚閣に属するのを決めた時から、私も貴方もその一部なのです。よくご存知でしょう」
「そうだけど」
「私は二十四番です。ご承知おきください」
ハンドルを滑らかに動かす男の胸元には『二十四』と書かれた名札。
「あっそ」
もう一度窓の外を見る。雨足が強まった。もう人影は見えない。一方壁は目の前まで迫っている。不倫のニュースはとうに終わっていた。
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