第29話 エンジェル・タッチ

 野田の計らいで、蓮の手術室入室に星来は付き添うことになった。

 もちろん蓮は星来が執刀することは知らない。

 星来の苦手なシャンプーキャップ風の帽子をかぶせられ、手術台に横たわるように指示されている。

 流石に表情が硬い。

 点滴を確保され、麻酔科医にマスクの酸素を吸うように指示された。

 麻酔科医がふと顔を上げる。


「眞杉先生、ちょっと」


 呼ばれて頭もとに顔を寄せた。

 半分眠そうな蓮がぼそぼそと喋る。


「星来ねーちゃん、ごめん。俺、ほんとはすごく怖いんだ」

「蓮くん……大丈夫だよ」

 星来は蓮の手を握った。

「……天使が、きっと病気を治してくれるから」

「天使……」

 一言呟くと、蓮は深い眠りに落ちた。


 麻酔科医はそれを見届けると、気管内挿管の準備を始めた。

 手際よく喉頭展開され、空気のチューブが喉に挿入される。


 そこまでを見届け、星来はスタッフに一礼すると、第三手術室を出た。

 第四手術室に入り、サージョンコクピットに座る。


「古市先生、お願いします」

「システム起動。スクリーン・ヘッドセット確認。コンソール、オールグリーン」

「セイラちゃん、機械は準備完了だよ」

「ありがとう、ハッパさん」


 インカムを耳に着け、モニタの画像を確認する。


「タイムアウト開始します。患者氏名、手術部位をお願いします」

「神場蓮、腰部」

「執刀医の先生から順に役割と名前をお願いします」

「執刀医、鳥栖」

「第一助手、野田」

「第二助手、……」


 間接介助看護師のアナウンスで、タイムアウトが始まった。


「第四手術室、聞こえるか?」

「はい、聞こえます。内視鏡手術支援システム、サイコム・オペレーション担当。眞杉星来です」

「予定手術時間、七時間。予想出血量、三リットル。五百ミリリットル以上の出血リスクあり」

「麻酔科から問題点は」

「大量出血リスクあり、人工心肺、輸血準備あり」


 物々しい雰囲気が流れる。

 他の診療科の手術ともまた違う、軍隊のような統制のコールだが、それだけではない。前代未聞の大規模手術の緊張感だった。


「お願いします」

 手術が始まった。

 まずは伏臥位—―うつぶせにした状態で、背中側からできる処置をすることになっている。

 星来は固唾を飲んでモニタを見守った。

 大型の放射線透視装置イメージが蓮の上に設置された。

 皮膚の上にマーキングされ、脊椎骨に設置する螺子スクリューの位置が決められる。小さな切開を加え、イメージで確認しながら刺入が始まった。

 鳥栖教授は手慣れた様子で、大きな螺子—―椎弓根スクリューという――を打ち込んでいく。一本二万円以上という特殊な螺子で、頭の部分にフレームを締結するための部品がついている。


「セイラちゃん、今のうちに食事をしておいた方がいいんじゃないか?」

「うん、もう少ししたら行きます」


 肉腫に侵された椎体の、後方半分の切除が始まる。脊椎は脊髄の入った硬膜管を囲んで、ドーナツのような短い筒が連なった構造になっている。正確に言うと、数字の8の形をした筒だ。8の小さいほうの円の中を脊髄神経が通っているのだ。中心の神経を損傷することなく、この「8」を摘出するためには左右2か所の輪を切らなければならない。

 ここで登場するのがダイヤモンド・T・ソーである。

 輪にひも状の糸鋸を通し、腕を上下に動かす。

 チーズを針金で切るように、内側から骨が切断されていくのだ。

 鳥栖が腕を大きく動かし、骨を切っていくのが見えた。何だかジムトレーニングみたいな動きである。

 途中でブツンとワイヤーが切れた。


「怪力……」


 また新しいワイヤーを出し、骨を切っている。

 やっぱり整形外科って大工さんみたいだ、と思う。


「よし、硬膜が露出した。これでいったん閉鎖するので良いか? あと一時間ほどでそちらの出番になるが。万が一の場合……こちらから再操作になる。眞杉、それで良いな?」

「はい」


 インカムの鳥栖の声に答え、星来は一旦休憩室に戻る事にした。

 多分執刀を始めれば、ほとんどノンストップになる。

 ロッカーを開け、作っておいたおにぎりを食べた。

 胃は痛くならない。

 軽くお腹に溜まるくらいがいい。

 ミネラルウォーターを軽く口に含み、彗からもらったチョコレートの箱を開けた。

 赤いリボンがかかった箱に、愛らしいプラリネが六つ入っている。

 一つだけ食べた。

 とろりとしたクリームが溶け、ヘーゼルナッツの香りが口の中に広がる。


 ――これは、私に元気をくれる。


 小さく頷く。

 目を瞑ってもう一度手順を確認する。


 再び手術室に戻ると、おおむね整形外科の操作は終了していた。

 一旦傷口をフィルムで覆い、体をひっくり返している。左の半側臥位—―斜め横向きになった。

 医用工学士がロボットを押して運んでいる。


「アーム展開開始。アクセスポイントに移動」

「エンドスコープポートにレーザーラインを動かして下さい」

「ペイシャントカート、ドッキング完了」


 泌尿器科と腹部外科のスタッフが相談してロボットのアームが入る場所を設定している。切除した腫瘍を体外に運び出す穴が必要だ。なるべくその穴から人工材料の受け渡しをすることになっている。


「ターゲティング完了。第四手術室、ロボットのアーム及びポート設置完了です。手術開始してください」


 更衣室から廊下を歩くために被った帽子を星来は脱いだ。

 帽子はかぶらない。顔に余計なものが当たると、手の感覚が鈍るからだ。

 靴は履かない。足の裏の感覚を研ぎ澄ませてフットスイッチを踏むためだ。

 そして、一回目をつむる。

 口の中に、甘いチョコレートの余韻が残っている。


「了解。眞杉星来、行きます」


 結果は神に――大いなる自然に委ねる。

 ――あとは優しい手を振るうだけだ。

 かつて彗が失った、天使の手を振るうのだ。

 人の行いには限界がある。けれど、その限界の限界を超えるために。

 天使の手でこぼれる命をすくう。


 アームを伸ばして線維を外していった。腸管が入っている腹腔と、腎臓や膵臓、大血管が入っている後腹膜腔を分離する。

 手術の作業をするための空間を確保するのである。


「後腹膜を剥離。尿管を確認しました」

「もうか?」


 鳥栖の驚く声がする。


「我々が若いころ、胸腰椎の前方固定術は完全な拡大展開で手術を行っていたものだ。腹部外科と協力しながらやっていたが、慣れぬ展開に苦戦したのだが……」

「交感神経節は最大限温存します。腸腰筋は一部犠牲にします」


 星来は手先と目に集中していた。


「流れる様だ。これを、あの研修医—―眞杉君がやっているというのか?」


 本来、公には星来は腹部外科の研修中だ。腹部外科のスタッフからも驚きの声が上がる。

 星来はすでに下行大静脈を確認していた。脊椎の前にぶるんと太い血管が鎮座している。確かに血管の周りには醜い――そう表現するしかない――醜悪な形態の不気味な塊が増殖している。血管の壁に食い込んでいるのが分かった。


「……あれが肉腫」


 見るからに悪そうな形をしている。表面には微細な血管が発達している。


「ラスボスっぽい見た目だけど、まずは最初のボスね」


 最初の関門だ。肉腫ごと血管を除去し、人工血管に取り換える。ただし肉腫の中に切り込んではならない。悪性腫瘍の細胞が飛び散ってしまう。カプセルの様に正常組織で包んで切除するのだ。


「今から人工心肺を作動させます」第五手術室の医用工学士の声がする。下半身の血管の流れが遮断されるため、一時的に体外をバイパスして血液を流すのだ。


「了解しました」星来も答えた。「助手の先生、ブルドック鉗子を下さい。下行大静脈を腫瘍の上下でいったん遮断します。阻血時間は……三十分頂きます」


 腫瘍に侵された血管の上下でクリップし、腫瘍ごと血管を切断した。漏れ出た血液を素早く吸引する。


「人工血管をください。助手ポータル、確認しました。糸、プロリンもらいます。」


 あっという間に切れた血管を人工血管に繋ぎ変える。星来の手技の真骨頂だった。正確な縫合は、まるでミシンで縫ったように美しい。


「おい、これは、前より早くなってるんじゃないか? 眞杉、あいつ、どうなってるんだ」


 心臓血管外科の応援スタッフとして参加していた甲斐が目を剝く。

 星来は集中していた。

 シミュレーション通り、太い血管が横切っている。大動脈から直接分岐した動脈枝だ。心が晴れないままでのシミュレーションの時には何回か切断して大出血させてしまった。


「分節動脈はベッセルシーラーで止血。……不十分でした。結紮します」


 電気凝固で十分止血しきれなかった。細い噴水のように様に血が噴き出したが、慌てない。確実に今度は糸で結紮する。

 彗が話してくれた、外科医パレの話を思い出した。


「優しい外科医の、古典的結紮法……」


 だが、手ごわい。MRIやCTで見た以上に血管が増生している。

 動脈はメデューサの蛇の髪の毛のように渦巻き、密集していた。

 着実にやるしかない。

 どこをどう止血して切除するか、迷う。


「……どこを切っていけばいいんだろう……」


 シミュレーションはもう役に立たない。

 さんざん練習した状態とはすっかり違ってしまっているのだ。


「おい、大丈夫か? 動きが止まったぞ」


 心配そうな甲斐の声が聞こえる。


「無理はしないでいい、眞杉先生」


 腹部外科の医師の声もする。


「こんな時は……」


 鉗子を一度、指揮者のタクトのように振った。


「いったん、全部捨てる!」


 内視鏡の角度を切り替え、裏側の一部に血管が二股に分かれた場所を見つけた。


「ここなら最短で近づける!」


 骨を包む骨膜と、椎体の前を走る正常な前縦靭帯の継ぎ目を発見した。


「……境界が分からなかったら、正常な場所を探せ!」 


 彗先生の教えだ!

 再びリズミカルに鉗子が躍動し、見る見るうちに正常な組織と異常な組織が分離し始める。

 インカムの向こうでため息とも感心ともつかない声が聞こえたが、気にしていられない。

 蓮の体の負担を減らすために、少しでも早く手術を終わらせなければ。

 そして確実に、体に巣食った病変を取りきるのだ。


「ふう……やっと出た……椎間板を露出しました」


 背骨の継ぎ目にある軟骨の板—―椎間板がよく見えるようになった。

 明らかに質感が違う。白っぽくって、つつくと硬い消しゴムのような弾力が触れた。

 肉腫を挟んで二つ分の脊椎を摘出しなければならない。

 潜在的に骨の中に肉腫の細胞が充満していると考える。

 肉腫を完全に内部に封じ込めて取り出すのだ。


「切除縁を確保してくれ。隅角を損傷しないように頼む」


 鉗子の先をモノポーラ――電気メスに切り替え、椎間板を切断していく。

 椎間板は水分を含んでいるせいか、グズグズと音を立てた。

 骨そのものを壊さないように注意する。

 椎間板は背側一枚を残し、裏にある後縦靭帯を残した。これ以上切り込むと、脊髄神経を傷つける恐れがあるからだ。


「むう……上手い。だが、硬膜管に穴を開けないようにしろ!」


 鳥栖の声が聞こえる。普通に喋っているのかもしれないが、怒鳴っているように聞こえる。


「注意します」


 硬膜管は、脊髄と脊髄液を入れている管だ。

 鳥栖の声が聞こえたが、星来はそうは思わない。

 穴が開いても、縫ってふさげばいい。だが、細心の注意をする。そうすれば結果が返ってくる。

 滑らかにナイフと鋏を使い、椎間板の線維輪と靭帯を切り取った。横に脊髄から分岐した神経が見える。

 脚を動かす神経だ。鉗子の先端が触れないように細心の注意を払う。


「……腫瘍切除、完了しました。これから腫瘍の入った椎体を引き出します。受け取ってください」

「了解」


 視野から骨と血だらけの肉の塊が消えていく。

 何とか腫瘍の摘出が終わった。

 だが、手術はまだ半分だ。

 連の失った背骨を金属の材料で再建する仕事が残っている。

 しばらく息を止めて作業をしていた星来は、大きな息を吐きだした。

 体からどっと冷たい汗が噴き出した。










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