なんでもない日
尾暮朔弥
ある老人の場合
馴染みの花屋で桜の枝を買い、電車に乗る。
すっかり悪くなってしまった足を杖で支え電車に揺られていると、青年が席を譲ってくれた。お礼を言うと、青年は少しはにかみながら「いえ」と言った。
このことを妻に話そう。とても親切な青年に会ったのだ、と。
目的の駅で降り、ゆっくりと歩みを進める。急がなくても妻は待ってくれている。いつものように静かに、優しく微笑みながら。
長い坂を上っていく。昔ならこれくらいの坂なら軽い足取りだったが、老体の今には堪える。しかし、この先にある景色は何度でも素晴らしいので、辞めてしまおうとは思わない。
やっとの思いで登りきると目的地に到着した。綺麗に整えられた生垣の間に伸びる石畳を進んでいくと、そこに妻がいる。
「やあ、しばらくぶりだね」
額に少し浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、話しかける。
『遠野家之墓』と書かれた墓石の下に妻はいる。
二年前に遠い所へと旅立った妻。私の足では到底いくことのできないほど遠くだ。
以前来た時に飾っていった百合を取り、花挿しを洗いにいく。
本堂前の階段の下でここの寺のご住職が箒で地面を掃いていた。ご住職はこちらに気がつくと、ニコリと微笑みを浮かべ会釈をしてきたので、こちらも帽子を少し浮かせて挨拶した。
花挿しを洗い、バケツに水を汲んでいると後ろから砂利を踏む音が聞こえたので振り返ると、ご住職がいた。
「遠野さん、何かお手伝いできますか?」
水が満たされたバケツを見る。短距離であっても、杖をつきながら重いバケツを運ぶのは骨が折れる。私はご住職の御言葉に甘えて、バケツを運んでもらうことにした。
「段々と暖かくなってきましたね」
「ええ、寺のソメイヨシノも咲き始めましたよ。今年は少し遅かったですね」
「ニュースで言ってましたね。それを見たので、今日来ようと思ったんです」
「そうだったのですね。では是非とも奥様と一緒に花見をしていってください」
ご住職はバケツを妻の墓の前に降ろしてくれた。ご住職にお礼を言うと「また何かあれば遠慮なくおっしゃってください」と言って去っていった。
杖の支えを借りながら、妻の墓に──後の私たちの墓に頭からゆっくりと水をかける。心ばかりに布巾で磨く。まだ寒さが残っているため、手が少し悴んでしまった。歳を取ってから季節の変化を肌で感じることに鈍くなってしまったために、この寒さと小春日和が少しくすぐったく感じる。
妻は季節の機微な変化も逃さない人だった。肌で感じて、目で楽しみ、耳を澄ます。季節の菓子を嬉しそうに口に運ぶ。そんな妻の姿を見ている時間はとても心穏やかだった。
『君は本当に美味しそうに食べるね』
『そうですか?』
『うん』
『そう見えるのでしたら、きっと今がいい季節なんでしょうね』
『どういうことだい?』
妻は顔の前に桜餅を掲げてニコリと笑った。
『美味しい季節のお菓子は、その季節からの贈り物なんです。肌で感じた、目で見た、香りにくすぐられた人が、味で表現する。いい季節からはいろんなものを得られる。その中の一つが美味しいお菓子なんですよ』
そこまで言うと、また嬉しそうに口の中へ桜餅を運んだ。私は湯呑を口へ寄せる。妻は季節によって茶葉を変えているらしい。
その時のお茶は桜餅に合うものだった気がする。
『完璧に理解は出来ていないが、なんか、分かる気がするよ』
『完璧に理解しなくていいんですよ。季節は頭で分かるものではないですからね』
『そういうものか』
『そういうものです』
妻はふふふと笑うと外へ目を向けた。ちらりと横目で見るその横顔がとても美しく感じられて、こんなにも四季を愛している妻が神に攫われてしまうのではないかと不安になった。
その時はそう思ったことが少し気恥しくて黙っていたが、現実になるとは思わなかった。妻は私を置いて…いや、きっと連れていかれたのだ。四季を愛でる時の妻は一等美しかったから。今頃、神々と一緒に桜餅を食べ、お茶飲んで寒暖しているだろう。
想像の範疇を出ないが、妻ならそうしているだろうと不思議な、確信のようなものがあった。その姿を思い浮かべて、口角がきゅっと上がる心地がした。
「今日ここに来るとき、青年が席を譲ってくれたんだ。とても可愛らしい子だったよ」
世間話をしながらゆっくりと磨いているうちに、妻の墓は太陽の光を反射するくらい輝いていた。陽光がよく入り、ソメイヨシノがすぐそばに見えるこの場所は、さながら特等席だ。きっと妻も喜んでいることだろう。
花挿しに蕾だらけの桜の枝を挿す。桜が咲いている様子を一番近くで見てほしい。季節を愛した妻なら、その一瞬一瞬を大切に思ってくれるだろう。それを共有できないのは悲しいが。
菩隻の前のちょっとした段差に腰かける。
「風が心地いいね」
縁側で二人並んで様々な季節を享受していた時のことを思い出す。会話こそ沢山したわけではないが、穏やかな日々だった。
妻が亡くなってからも、なるべく縁側で過ごす時間を作った。物覚えが悪くなってきた脳に、妻との日々を覚え込ませるように。しかし、悲しいかな、日に日に妻との記憶が朧げになっていく。もう声を思い出せない。憶えているのは、妻と交わした会話の内容と四季を慈しむ妻の横顔。
「きっと君のことを見つけるから、それまで神様たちとお茶でもしててくれ」
天に向かい独り言ちると、突風が吹いた。帽子が飛ばされないように手で押さえ、身体を縮こませる。
風が収まると、桜の花びらがひらひらと膝の上に舞い込んできた。そっと指の腹で摘まむ。
『きっとですよ』
忘れていた妻の声が一瞬聞こえた気がした。春の神様がこの花弁と共に運んでくれたのだろうか。思わず口角が上がった。
ポケットから取り出したティッシュに桜の花びらをそっと包む。
帰ったら、酒にこの花びらを浮かべよう。
久しぶりに君と花見酒ができそうだ。
杖を支えにして立ち上がり、墓石の正面に立つ。
「じゃあ、また後で」
寺の門扉をくぐる時、振り返る。
ソメイヨシノがそよそよと風に揺られ、さながらこちらに手を振っているようだった。
「いい風だね」
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