第27話 最悪の一手

 刺すか刺されるか、という切迫した空気が崖の切っ先を覆っていた。


 雨は相変わらず、容赦なく体を叩きつけてくる。


 恵が持つ包丁がいつまた振り上げられてもおかしくない……そんな極限の緊張状態の中で、オレは大きく息を吸う。


「分かったよ。恵。オレは……お前だけを選ぶ」


 その言葉を聞いた途端、他の四人の動きがピタリと止まった。


 奈々海や莉音、しおり、エリナが一斉に「え……?」という顔でオレを見つめる。


 豪雨のせいだけじゃなく……急激に、その場の温度が下がったような気がした。


 一方、恵は驚いたように目を見開く。


 雨に濡れた頬を紅潮させながらも、その瞳にかすかな光を宿して小さく震えている。


「ゆ、悠人君……本当に、わたしだけを……?」


 か細い声で問いかけてくる恵に、オレは意を決したように頷く。


「ああ……みんなのことを好きだって気持ちは、嘘じゃない。でもこのままじゃ、誰かが取り返しのつかないことをするかもしれない。オレはもう……これ以上、みんなが傷つくのを見たくないんだ」


 そう言いながら、恵の手元へと視線を移す。


 包丁の刃はまだ鈍く光を放っている。恵がその手を離してくれないと、安全なんてどこにもないのは分かっていた。


「だから、包丁なんか捨ててくれ。オレは……お前を選ぶから」


 恵はかすかに唇を震わせ、包丁を握る手を見下ろす。それからそっと視線を戻し、濡れそぼった髪の隙間から瞳をこちらへ向けた。


「……わたしだけ……本当に……?」


「ああ。だから、もうみんなを、そして自分を傷つけなくていい」


 恵が、そっと包丁を下ろし始める。


 雨だれが刃をつたって零れ落ちるのがやけにスローに見え、オレはほんの少しだけ安堵しかける。


 だが──


 ──その後ろで立ち尽くしていた奈々海たちは別だった。


 彼女たちの表情は凍り付いたようになっている。


「……嘘……でしょ?」


 低い声が聞こえたのは、奈々海からだった。


 目を伏せて雨に打たれながら、肩をわなわな震わせている。


「ちょっと待ってよ……悠人……わたしだって、ずっと悠人が好きだったんだよ? 恵だけを選ぶなんて……許せない……絶対、許さないよ……!」


 奈々海がぎらついた目を上げる。感情を抑えきれないような震えがこもっていて、普段のお姉さんキャラからは想像もつかない殺気立った気配を放っていた。


 さらに「お兄ちゃん……」と、莉音が絞り出すように声を漏らす。


「お兄ちゃん……わたしを……嫌いになっちゃったの……? ずっと、お兄ちゃんを想ってきたのに……こんなの嘘だよね……?」


 肩を落として泣きそうに震える莉音の姿は痛々しい。


 けど……オレが返す言葉を探す前に、しおりがぼそりと口を開く。


「分かってます……どうせわたしなんか、ドジで使えないし……蒐集癖のある変態で……気持ち悪いですよね……捨てられるのが当然……ふふ……ははは……!」


 うつろな目をしたしおりが、狂ったように笑い始める。その姿にオレは背中がざわつく。あんなネガティブなしおりを見るのは、初めてかもしれない。いつもはオドオドしていても、どこか愛嬌があったのに……


 そしてエリナは、唇を噛み締めながら声を絞り出す。


「何よそれ……ふざけんな……わたしがどれだけあんたを想ってると思ってんのよ……恵だけなんて……いい加減にしてよ!」


 怒りで顔は真っ赤だった。雨を浴びてさらに髪が乱れ、痛々しいほど苛立ちが伝わってくる。


(しまった……)


 オレは思わず奥歯を噛んだ。


 そうだ、彼女たちだって本気でオレを愛してくれている。


 恵の包丁を捨てさせるため、この場で「お前だけを選ぶ」と言ってしまったが……それも間違いだった。


 だがもはや、後の祭りか……


「すまない……いま言った通り、嫌いになったわけじゃない。みんなを想ってる気持ちは変わらない。ただ……これ以上、狂わせたくないんだよ。誰かが本当に取り返しのつかないことをする前に……」


 苦し紛れにそう言い訳しても、四人が納得するはずもない。むしろ逆効果だったようで、奈々海の瞳がいっそう鋭さを増す。


「だったら、なんで恵だけなの!? わたしだって悠人のためなら、もっと……もっともっとなんでも出来るのに……! ずっとそばにいて支えてきたのは、他の子じゃなくて、わたしなのに!」


 ぞっとするほどの剣幕。


 毎朝、笑顔でオレを見てくれた奈々海とはまるで別人のようだ。


 莉音も涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、「お兄ちゃんはわたしの唯一の人なのに……そんなの、絶対に認めない……」と嗚咽まじりに吐き捨てる。


 しおりはぼそぼそと笑いが止まらず、「……いっそわたしが、包丁を持ってればよかった……」と危険すぎる台詞を口走る。


 エリナに至っては握り拳を震わせ、「今すぐ殴り飛ばしてやろうか」みたいな殺気を剥き出しにしていた。


「ほら、悠人君。いいんですか?」


 いつの間にか、恵がオレの横にいた。


 オレの腕に触れ、肩を寄せてくる。包丁は、まだ握られたままだ。


「そんな優しいことばかり言っているから、皆さんが勘違いして、狂っちゃうんですよ。はっきり言ってあげましょうよ。わたし以外、もういらないって。お前達は嫌いだって」


 恵のそんな台詞に、全員がより一層の怒気を放つ……!


「ま、待ってくれみんな……けどごめん……本当に、こうするしかないじゃんか……!」


 しかし誰一人として、引き下がろうとはしない……!


 雨は容赦なく降り続き、辺りの視界が白んでくる。崖沿いでこんな危うい衝突をしていることが、ある意味もう狂気じみている。


 何より、あいつらの瞳から立ちのぼる殺気が……


 今度は、し始めてしまったのは、もはや明らかだった!


 先頭を切ったのは奈々海だ。


「納得いかない──じゃあ、わたし達だってやり方を選ばないわよ」


 唇をわずかに歪ませて、オレを真っ直ぐ睨む。


「恵みたいに包丁振り回せば、悠人はわたし達のものになってくれるのかな……?」


 後ろで莉音が「お兄ちゃん……絶対に離さないから……」と睫毛を濡らしながら呟く。


 しおりはうつろな目のまま、謎の独り言をこぼしている。ネットで調べてたあのクスリ……あれを使えば、わたしだけのお人形にできるかな……ふふ……」


 エリナは苛立ちのあまり呼吸が荒く「この際だから全部ぶっ壊せばいいんじゃない? 悠人も、他の女も……誰もあんたを奪えないようにしてやるわよ……!」と噛みつくような口調だ。


「お、おい待て……!」


 包丁をまだ捨てていない恵には腕を絡め取られ、そして前面には理性を失った四人の幼馴染み。


 逃げ道がどこにもない。いや、逃げたら今度こそ全員が一斉に狂気を爆発させそうだ……!


(オレはもしかして、最悪の一手を打ってしまったのか……!?)


 そんな絶望にも近い感情が押し寄せてくる中、恵だけが満足げにオレの腕にすがりついた。


 まさに四人に見せつけるかのように!


 このままじゃ、下手したらオレを取り合って乱闘になったあげく……怪我だけでは済まなくなるぞ!?


 オレはいったい、どうすればいいんだ……!?


 と、そのとき。


 雷が海に降り注いで──


 ──オレの頭の中も、激しくスパークした!

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