8月編5話 私のダイアリー ①

▶︎▶︎  自宅 自室


 私はお気に入りの曲を口ずさみながら窓辺の椅子の上に立ち、カーテンを新しいレースのものに付け替えていた。


 机の上の一輪挿しには、帰りにふと思いついて買ってみた小さな向日葵ひまわり。 太陽のように鮮やかなその黄色が、最低限のものしかない殺風景な部屋を明るく照らし出す。


「うん、最高じゃないか…♪」


 そう呟くと、向日葵の花が応援するように微笑んでくれた気がする。


 その時、充電中の携帯電話のアンテナが3色に点滅した。


「!アニからだ……」


 私は椅子から飛び降りて携帯電話を手に取る。心なしか胸がドキドキと高鳴っていた。


──この間話した観音崎かんのんざきの教会行きのことだけど。今月の満月の日が、じいちゃんの言っていた約束の日みたいだ。朝早く出発すれば、暗くなる前には帰れると思う。その日を空けておいて欲しい。あと、今日の約束は15時で──


 私は赤いペンで卓上カレンダーに大きく丸をすると、メールにOKの返事を送った。


 ふと、卓上カレンダーの挿し絵が目に入る。夏空を背景にした色鮮やかなクリームソーダに、純喫茶「ルナ」で過ごした、あの気恥ずかしいアニとの時間を思い出す。



▶︎▶︎ 回想:乃寿美のすみ町 純喫茶「ルナ」


「ハードボイルドなアニの原点……その場所に、行こうよ」


 アニのハードボイルドの原点は、彼の祖父が戦友といつか行こうと約束を交わした、黄色いステンドグラスの女神の伝説だった。


 最初はただ、ポラリスで嶋咲くんに言われた【ひと夏の旅行】という言葉に、単純に胸が躍った。


 けれどあの時「ルナ」で聞いたあの話──アニの祖父と戦友、祖父からアニへ、そしてアニから私へと、遠く時を超えて繋がった約束の物語が、私の心の何かを熱く揺さぶった。


──人生の中の一瞬でも縁があって出会った人は、たとえ後々名前は忘れても、お互いの人生に何かを残すもんだ。それが出会いの価値だよ──


 松田まつだ先生の言葉だ……私はあの時、一期一会いちごいちえの価値をアニの中に感じたのだ。


 アニの瞳は相変わらず、小学生みたいにキラキラ輝いていたっけ……


 ひと夏の思い出に残る旅。いや、それだけじゃない。


 これは、これからの私が私らしくいられるための価値がある旅。


 そして何より、頼れる探偵のボス、アニとの旅……


 私の口から自然に言葉が溢れ出た。


「そう、その約束の場所……観音崎に一緒に行くんだ……アニと一緒に」


 窓から入る夏の風が、付け替えたばかりのカーテンをふわりと揺らし、部屋に優しい光を届けた。



▶︎▶︎  及寿美町 青春アオハル書店


 「観音崎かんのんざき……書いてあるかな?」


 私は、書店の旅行ガイドブックのコーナーにいた。アニとの待ち合わせまではまだ少し時間がある。


 書棚を眺めながら歩くと、横須賀よこすかという文字が目に飛び込んできた。


 アニの顔が頭をよぎる。観音崎についての情報を得られたら、もっと具体的に旅の計画を立てられるかもしれない。


「観音崎、観音崎……載ってるかなぁ」


 その観光ガイドを手に取りパラパラとページをめくる。あった……!真ん中に、観音崎周辺のマップが収納されていた。


 ふむ、これは使えるかもしれない。心に呟きながら、次のページの目次を見る。


  「昔懐かしいクリームソーダの店特集」の文字に、トクリ…と再び心臓が鳴った。ほんのりとした甘酸っぱい感情が心を満たす。


 気がつけば、私はガイドブックを手にレジに立っていた。レジのお姉さんが優しく微笑む。


「1000円になります。ありがとうございます」


 私は財布から夏目漱石なつめそうせきが描かれたお札を1枚取り出す。


 ふと、レジ横の写真週刊誌に目が止まった。週刊誌の表紙には──気になる文字が。


「あ……あの、これもお願いします」


 私は咄嗟に、その週刊誌も差し出した。


「───ありがとうございました」


 ずっしりとした紙袋を小脇に抱え、私はアニと待ち合わせたファストフード店へ足を運んだ。



▶︎▶︎  及寿美町 ファストフード店内


「この人って……」


 私はアイスティーの容器にストローを差しながら、深く思いを巡らせていた。


 店内は学生や親子連れで賑わっている。夏の日差しが照りつける外とはうってかわって、ここはひんやりしたエアコンの風が心地よい。


 私は赤いフレームの眼鏡を掛け直し、テーブルに広げた週刊誌のページをじっと眺める。


【神奈川県内で、謎の白衣集団と地元住民とのトラブル続発!】という見出し。


 その下には、白衣を着た一人の若い男性が写っていた。いかにも迷惑そうに、手のひらをカメラに向けて突き出している。


「この人って……どう見てもあの時の人だよね……」 


 あの花火大会の日、母の研究ラボに連れて行かれた時に会った、浴衣を着た男性。彼の高圧的で嫌らしい態度や表情が、記憶に焼きついている。


 週刊誌によると、この白衣集団が関わる事件が、日本各地で多発しているらしい。その中には、この男性が関与している傷害事件も含まれているという。


「お母さん……本当にもう、信じられないよ……」


 あの夜、母は私に浴衣ゆかたを着ていくようにと命じた。どう見ても母とあらかじめ打ち合わせがあったのだろう、この男は、白衣だらけのあの会場で1人浴衣姿で現れ、慣れなれしく私に迫ってきたのだ。


 その男が、傷害事件を起こすような人間だったとは……


 私は大きくため息をつき、震える指で週刊誌のページをめくった。すると、とあるページが目に飛び込んできた。


「白衣集団と地元住民とのトラブルマップ……?」


 さらに私の目が、その中の一ヶ所に釘付けになる。


「え?ここは……」


 神奈川県の右下の半島に矢印が付され、詳細が書かれている。


「横須賀だ──観音崎?……じゃなくて…えっと、走水はしりみず??」


 私たちの旅の目的地である、黄色いステンドグラスの女神の教会がある観音崎。


 そのすぐ近く、走水という場所にこの白衣集団の施設があり、そこでこの浴衣の男による傷害事件が起こったと書かれている。


──キミのお母さんの素晴らしい功績で、この研究は絶対に実を結ぶはずだ。まだ時期は未定だが、次の僕の父のラボに移れば、さらに設備が整うからね──


 あの浴衣の男が得意げに私に話していた内容だ。


「私の次の引越しの場所は……この、走水だったんだ……!」


 店内の喧騒が遠ざかる。私は自分の置かれたこの状況についてしばらくじっと考え込んでいた。


 アイスティーの氷がカランと音を立てて溶けていく。その音だけが、時の流れを教えてくれるようだった。


「──アニの大切な思い出の場所と、よりによって白衣集団の施設が、すぐ近くだったなんて……」


 ただの偶然だと思いながらも、何だか胸騒ぎがする。今回のアニとの旅は、母のラボとは全くの無関係なんだからと、何度も自分に言い聞かせた。


 その時。


「あ、いたいた!おーい」


 ざわめきの中でもすぐわかるその声。振り向くと、トレイを持ったアニが満面の笑みで手を振っていた。


 私は急いで週刊誌をバッグにしまい、笑顔で手を振り返す。


「悪い、途中で自転車がパンクして……一回帰って置いてきたらちょっと遅くなっちゃってさ」


 アニは向かいの席に座り、カラフルな広告とメニューがベタベタ貼られたテーブルの上にトレイを置いてから、私に向かって手を合わせる。


 考えてみたら、初めて会った時から、彼が約束の時間にちゃんと来たことがあっただろうか……?


 けれど顔を赤らめて必死に謝罪のポーズをとる姿が何だか可愛くて、ほんの少し意地悪をしたくなる。


「ご心配なく、アニとの待ち合わせ時間には、いつもプラス15分くらい多く見積もっているから」


 すまして言うと、アニは泣き笑いのような顔になる。


「プラス15分って……まぁ、これでも食べて機嫌直して」


 アニはトレイの上の紙袋を開け、カリカリと揚がったフライドポテトを紙ナプキンに盛り付ける。


「お構いなく、怒ってないし。それに私、こういうお店では飲み物しか飲まないことにしてるから」


「え?美味しいのに…」


「美味しいかもしれないけど、そういう食べ物は避けてるの」


「美味しいと思ってるのに食べないって、意味わかんないよ」


「だって、こういうお店のポテトって、酸化した油を……」


 健康への配慮を説明しようとした私の口元に、アニがフライドポテトを一本、スッと差し出す。


 私は口を開けたまま何度か瞬きをした。


 アニは目の前でニコリと笑い、ポテトをそのままポンと私の口へ……


「ちょっ!アニ!何をし……」


 私は抗議しようとしたが、すでに口の中には熱々の香ばしい物体が。吐き出すわけにもいかず、私は無言でそれをモグモグと咀嚼する。


 顔に血が上るのを感じる。今、私の顔はゆでダコみたいになっているだろう……


 アニは私の顔を見ながら楽しそうに呟く。


「な?美味しいだろ?」


 私は両手で熱い頬を押さえながら、無言でコクン……と頷いた。

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