8月編3話 俺のダイアリー ①
▶︎▶︎
「この店で良いかな?とにかく屋内に避難しないとな……」
炎天下のポラリスのベランダから、町の裏路地に入った5軒目にある喫茶店へと、俺たちは逃げ込んだ。
「わぁ、素敵……」
深い緑の木の扉と、
──ここは、先日の写真屋「
アイツには内緒だが、何を隠そう人生で初めての喫茶店。ちょっとばかり緊張でドキドキする。
「いらっしゃい……」
渋い低音ボイスに迎えられ、店内に一歩足を踏み入れると、そこには別世界が広がっていた。
暖かな照明に照らし出された店内は、アンティークな雰囲気に満たされている。お客はほんの数人。
カウンターの中にいた銀髪のマスターは、俺たちを認めると薄く微笑んだ。そして黙って人差し指を立て、窓際のボックス席を指差した。
「──良いねぇ、なかなかハードボイルドな雰囲気だよな」
居心地の良い椅子に腰を落ち着けると、俺は余裕を見せて、テーブルに置いてあった卒業アルバムのような分厚いメニューをアイツに手渡す。
「私、実はこういうお店初めてなんだ…ドキドキしちゃうね。でも、ちょっとだけ大人になった気分かも……」
テーブルの向かいに座ったアイツは、赤いフレームの眼鏡を掛け直し、物珍しそうに店内を見回す。
そうか、彼女も喫茶店は初めてなのか……緊張した様子に、俺は密かに少しホッとする。
しかしそれならば、少しでもリードして安心させてあげなくては。
彼女は手元の分厚いメニューをそっと開き、俺にも見えるように置き直す。
「わぁ、メニューたくさんあるね。でも、うーん、そんなに高いものはちょっと無理かなぁ。ハーブティーも高いし…」
「え?うんうん、まぁ、ポラリスの缶コーヒーとは違うよな?」
俺もさりげなくメニューを覗く。値段を見ると、ダンディコーヒーの5倍近くもすることに目の玉が飛び出そうになる。高校生が気軽に来られる金額ではなさそうだ。
先日の花火大会の特別席で、ほぼ全財産を使い果たした俺にとって──これは予想外の事態だった。
それでも俺は動揺を押し隠し、めいっぱい気取って肘掛けに肘をかけ、椅子に深く座り直す。
──さて、どうするか……
とそこへ、マスターが静かに水のグラスを持ってきた。
彼自体がアンティークのように、ただそこに立っているだけで重厚な存在感がある。その彫りの深い眼差しは、まるで俺たちの内心を見透かしているかのようだ。
不意に、マスターがニヤリと口角を上げる。俺は、咄嗟にダンディな笑みを返そうとするが、心の中はパニックだ。まさか、水だけで良いですとは言えない。
するとマスターはゆっくりと、とあるメニューの写真を指さして一言。
「これなら、2人で飲めるよ……」
あたふたしている俺たちは、その写真をろくに見もせず素直にコクコクと頷く。
「あ……じゃ、これください!」
マスターは黙って頷き、カウンターに戻って行った。 カッコ良すぎる……彼はまさしく、俺の目指すダンディーなハードボイルドではないか……!
気分の乗った俺は足を組み、向かいの席で赤い顔をしているアイツに囁いた。
「なかなか粋なチョイスをしてくれるよな。良い店をみつけたよなぁ」
「マスターもちょっと怖そうで緊張しちゃって……ごめんね、何を頼んだのか見てなかったけど……」
「あはは、本物の喫茶店に出会うと、最初は誰でも緊張するもんだ。しょうがないさ」
ハードボイルドを気取って偉そうに答えたものの、そういえば俺も何を頼んだのか覚えていない。
「まぁ、来てからのお楽しみさ……」
俺はいかにも意味ありげな風に呟いて見せた。
BGMの軽快なジャズピアノに身を任せながらマスターチョイスの注文の何かを待つうち、すっかりこの場に馴染みくつろいだ様子のアイツが口を開いた。
「アニ……」
「ん?なに?」
「アニがハードボイルドを目指すきっかけって……何だったの?」
彼女は片手で頬杖をついて俺を見る。
「ハードボイルドを目指す、きっかけ……」
「そう、高校生でハードボイルドなんて、よほど何かないと興味持たないでしょ?」
「そうかな?」
「そうだよ、ミステリーの映画とか?小説に感動したとか?」
アイツは興味津々の様子で目を輝かせている。
──俺は、コイツと初めて出会った日を思い出す。5月の半ばだったっけ…
あの時、無表情で冷めた目をしていたアイツは、氷の女王の娘そのもので、いま目の前にいる彼女とはまるっきり別人だった。
あの花火大会が終わった夜……アイツはきっと、ずっと抱えてきた自分の中の真実をほぼ全て話してくれたと思う。
──アニ、頼みがあるの。聞いてくれるかな?
花火大会が始まる前でも、後でも良いの。
もう時間がないかもしれない。
ただ、頼れるのはアニだけなんだ──
俺しか頼れる人はいないと言っていたアイツ。今だって実は、彼女の現状は変わっているわけではない。いつ別れが来てもおかしくはないのだ。
そんな状況で、俺がアイツにしてあげられること。それは一体、何だろう?
──真の男になること、そいつは自分自身の心に正直に生き、正義と勇気を持って真実を見極めるヤツのことだ──
俺の中に、祖父の言葉がよみがえる。
「俺のハードボイルドの原点は……実は、俺のじいちゃんなんだ……」
アイツが目を見張る。
俺はアイツに、ぽつりぽつりと俺の真実を語り始めた。
▶︎▶︎ 1989年
「──じいちゃん、もう足が痛いよ……どこまで登るの?」
急な階段が続く山道。大好きな祖父に遅れないように必死に上っていた俺は、ついに音を上げた。
道の両側には見たことのないような草木が生い茂り、まるで異世界に紛れこんだようだ。
「もう少しで目的地だ、もし歩けないようならここで待っていろ。暗くなる前に戻ってくるから」
祖父は振り向きもせず、背中を見せたまま言った。
今思えば、大人の足では大したことのない山だったのだろう。しかし、まだ小学生になったばかりの俺には、巨大なマッターホルン同然だった。
俺は辺りを見回した。まだ太陽は高いはずなのに、ここは木々に覆われて薄暗く、四方から何かがジッとこちらを見ている気がする。
「やだよ……じいちゃん、一緒に行くから待って!!」
背筋に冷たいものを感じ、俺は足の痛みも忘れて祖父の背中を追いかけた。
先の戦争で多くの武勇伝を持つ祖父は、その当時俺の憧れでありヒーローであった。
▶︎▶︎ 横須賀市 観音崎 教会跡前
「ふぅ、まだ大丈夫そうだ……変わっていないな」
緑深い山道を歩くこと、数十分。道中、大砲やトーチカ跡などを横目に見ながら、祖父の後をついていった先に、突然視界が開けた。
「わぁ……」
そこには青い海を背景に、古い教会が神々しくそびえ立っていた。
祖父は息切れ一つせず、辺りを見回した。
「ここが、じいちゃんのいつも言ってた約束の場所だよ。戦争で南の島に行っていた頃に戦友から聞いてな……」
息を整えながら俺は尋ねた。
「戦争が終わった後、一度は来たんでしょ?」
「あぁ、そうだ。だが、終戦直後で混乱していた時期だったからな。数年に一度、という約束の日には来られなかった」
「ここに、じいちゃんの言ってたアレがあるんだね」
祖父は、今日初めて優しい瞳をして俺を見ると、静かに頷いた。
「そう、ここがいつも言っていた、黄色いステンドグラスの女神がある教会だ」
俺は目を細めて、その教会を見上げた。今はもう使われていないようで、建物全体が
祖父も俺の隣に並び、建物を見上げて呟く。
「今日、約束の日にやっと来られた……これで戦友との約束を果たせる──」
祖父は多くを語らないが、どうやら南方のジャングルでの銃撃戦で、戦友に命を助けられたようだ。そして、代わりにその戦友が命を落としたのだと言う。
──その死に際に、祖父は彼と一つの約束をした。
「真の男になって、黄色いステンドグラスの女神の祝福を受け、願いをかなえる。だったよね?じいちゃんならぜったい大丈夫だよ」
俺の言葉に、祖父は黙って俺の頭に大きな温かい手を乗せた。
「さあ、中に入るぞ。教会の中は色んなものが落ちている。十分気をつけて怪我のないようにな」
「うん!」
──俺は、憧れの祖父が女神に真の男として受け入れられることを、心の底から信じて疑わなかった。
何故なら、俺にとって祖父は、間違いなく真の男でありヒーローだったから……
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