6月編9話 俺と私のダイアリー ①
「もう良いよ、そろそろ門限だし……」
濡れた髪を後ろに縛り虚ろな目をしたアイツは、傘を持ち替えて腕時計を見る。
「いや、門限ってさ……あのカメラはお父さんの形見なんだろ?結構重いカメラだから、流されないでこの辺の底に沈んでいるかもしれないし」
あの後何とか自力で田んぼから這い上がった俺は、
「うん、でも大丈夫。時間だから……帰らないと」
「え?大丈夫って、おい……」
アイツは背を向け、元来た道を力なくふらふらと歩き出す。
「うん……本当に大丈夫。アニも帰った方がいいよ。何か警報も鳴ってる」
その言葉に辺りを見回し耳を澄ませると、警報がどこか遠くから響いている。どこかの地区で川が氾濫したのだろうか?消防車のサイレンも聞こえる。
「おい、ほんとに大丈夫なのか?」
彼女は立ち止まり、一瞬振り向きかけたが、そのまま走って行ってしまった。
俺はアイツの振り向きかけた頬に、雨とは違う
「見つけたらメールするからな!……って、聞こえないか」
遠ざかっていくアイツの後ろ姿を見つめ、ため息をつくと思わず呟いた。
「大丈夫じゃないだろう……父さんとの唯一の繋がりだろ……」
あたりには、勢いを増した用水路の水音、田んぼの水面に弾ける雨粒の音、そしてアマガエルの鳴き声が一際大きく響いていた。
青々とした草の生い茂る田んぼのあぜ道には、濡れた土の匂いが立ち込めている。
俺はさしていた傘を投げ捨てると、降りしきる雨を仰ぎ目を細める。
「女1人の笑顔を守れないで、何がハードボイルドだ……」
そう呟くと全身泥だらけの自分の姿を見下ろし、少しフレームの曲がった眼鏡をかけ直す。
「って、決まらないよな……おわっっ!!」
俺は用水路に落ちそうになった傘を慌てて拾う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「──着替えはここに置いておきますね」
ずぶ濡れの制服で帰宅した私をじろりと見た母は、しかし珍しく小言を言わずシャワーを浴びろと指示を出した。
長いこと頭から熱いお湯に打たれた私は、シャワーを止めバスルームを出ると、母の用意してくれたタオルで身体と髪を拭く。
洗面所の鏡は湯気で曇っている。私はフェイスタオルでそれをなぞり、鏡を見つめた。水滴と涙でぼやけた私の顔が映っている。
──ひどい顔だ……
今日の出来事がフラッシュバックのようによみがえる。
正直どうやって帰って来たのか記憶にない。田んぼに落ちたアニを自分の傘で引き上げようとした所までは覚えている。
アニの手が滑り、私は後ろに激しく尻もちをついた。手にしていたカメラ入りのビニールバッグが用水路へと転がり落ちたあの瞬間が、スローモーションで脳裏によみがえる。
もしかしたらカメラは救えたかもしれなかった……すぐに手を伸ばしさえすれば。
しかし……あの時。
母からのメールの着信音に、身体が完全に凍りついてしまった。
あの時私の心の中では、母の存在と、父の形見であるカメラとの間で、壮絶な戦いが繰り広げられていた。そして結局、カメラは用水路の中へと消えていった。
なぜ?なぜあの時、手を伸ばせなかったの……?私はきつく唇を噛み、鏡の中の顔と自分の胸の内をじっと見つめる。
──何かが起こるかもしれない。今まで諦めていた、奇跡が起こるかもしれない──あのカメラは、今まで閉ざされていた世界から抜け出せる私の希望の象徴だったのだ。
それなのに……
父の笑顔を思い浮かべてみる。そこにふっとアニの笑顔が重なる。胸の中にポッと明かりが灯ったように、心が温かくなる。
鏡の中の泣き顔が柔らかく笑み崩れようとした──その時、
「早く出なさい、ご飯の時間よ」
ドア越しにピシャリと母の声がかけられる。
「──は、はい……」
ハッとして返事を返し、再び鏡に目をやる。その顔のどこにも、もう微笑みはなかった。
「この人は……一体誰??」
鏡の中の誰かの顔が再びくしゃくしゃに歪み、やがてぼやけて見えなくなる。
──私は……
ただ、母の笑顔が見たかったはずなのに……
タオルで顔を覆い、鏡に額を押し付けて肩を震わせた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「──真実をぉぉ、見極める!」
用水路の杭に絡まったビニールのヒモを傘で勢いよく引き上げ、また違ったと俺は大きくため息をつく。
アイツの背中を見送った後、俺は辺りが暗くなる前にカメラを見つけ出すという使命感に燃えていた。
アイツには引き続きカメラを探すとメールを送っているが返事はない。
「アイツの家って怖そうだもんな……」
相変わらずの土砂降りだが、おかげで身体についた田んぼの泥は少し洗い流されて、我ながら見栄えは幾分マシになった。
「?」
ふと視線を感じて振り向くと、そこにいたのは一体のカカシだった。
いかにもイラストで描いたような「へのへのもへじ」が冷ややかに俺を見ている。雨と寒さと焦燥感でハイ状態の俺は、カカシに語りかける。
「おい、この辺りにカメラが流れて来なかったか?」
カカシは雨に打たれながらクールに俺を見つめているだけだ。
「お前もクールで無表情かよ!探偵を舐めるなよ。クールは嫌いじゃないが、もっとさ、こう熱くだな……」
無情なカカシはへの字口のままにこりともしない。
「だから、そのへの字口からを止めろって……」
気のせいか、余計にへの字の角度が厳しくなった気がする。
「ちょっと、待ってろ!!」
俺は泥だらけのカバンから黒と赤の油性マジックを取り出すと、カカシのへの字を無理矢理に下半月で囲み、塗り潰す。口のへの字が漫画のような笑顔に変わる。
「おぅ!この笑顔、完璧じゃないか……」
しばらくカカシをジッと見る。
一瞬、父の形見のカメラを持って写真を撮るアイツの笑顔が浮かんだ。
「……」
おもむろに赤いマジックでカカシに眼鏡を描き入れる。
「ふぅ……」
カメラマンが構図を決めるように、俺は伸ばした両親指と人差し指でカカシを囲み、一人満足げにニヤリと笑う。
「いいね、実にいいよ……ウン」
──暫くの沈黙。
容赦なく俺の身体に叩きつける雨音だけが聞こえる。
「って、俺は何やってるんだ……」
その時、再び警報が辺りに鳴り響く。かなり近くだ。俺は辺りを見回した──
「アイツは……何してるんだろう……」
陰鬱でグレイッシュな空を見上げると俺は思わずそう呟いた。
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