6月編8話 私のダイアリー ②
▶︎▶︎
──光るカカシ事件。それはその名の通り、ボォッと青白く光るカカシが、夜な夜な田んぼの周りをふわふわ浮かびながら徘徊するという及寿美町の噂話だ。
最近目撃情報が絶えず、一昨日は、田んぼの脇を走っていた車のドライバーがその光るカカシを目撃、運転を誤り見事に田んぼに落っこちたとのこと。
アニと私はその調査をするために、及寿美高校から車が落ちた田んぼのあぜ道までやって来た。あぜ道を挟んだ反対側の用水路には、濁った水がかさを増し、勢い良く流れている。
アニは相変わらず灰色の空から降り続く雨粒を仰ぎ見て声を上げる。
「しかし、相変わらずの雨でウンザリだな……」
「本当だね。今晩は少し止むらしいけど、明日はまた雨みたいだよ」
「そうなんだ……うーん、もうすぐ7月だって言うのにな。世界が滅亡するって話も本当かもしれない……」
「──滅亡?アニ、梅雨の長雨だけでは世界は滅亡しないと思うよ」
足元のぬかるみに注意しながら、私はアニの少し前を歩く。泥の跳ねを避けようと気をつけているけれど、靴の縁はすでに汚れ始めていた。
アニは雨粒が付いたらしい眼鏡を外し、レンズを拭きながら歩く。
「そうじゃなくてさ……ほら、テレビとか雑誌とかで今騒がれているだろ?ノストラダムスってさ」
「ノストラ……?何それ?知らない……」
「お前知らないの?恐怖の大王が降って来るんだよ、来月に」
「来月って、7月?」
「そうだよ、恐怖の大王がどんなだか知らないけど、降って来るんだってさ」
「降って来ると滅亡するの?」
「らしいぞ、怖いだろ?考えてみたら、俺らの周りだけでも最近変な事ばかり。消えたダビデ像やら叫ぶ人体模型やら、そして今回は光るカカシだろ?これも恐怖の大王の影響なんじゃないかと俺は思うんだよ」
アニは両腕を大げさに広げて顔をしかめたり、指を空に向けたりしながら話していた。
雨で濡れた長めの前髪が額に張り付き、その下の瞳は真剣そのもので、その姿に思わず笑いが込み上げるのをぐっとこらえる。あの寝癖は今は鳴りを潜めている。
空気は湿って重く、濁った用水路の水音が、会話の合間をぬうように響いていた。
うん、確かに……恐怖の大王については何だか知らないけど、最近学校内で立て続けに経験したダビデ像や人体模型事件は、誰かのイタズラではとても片付けられない。
特に先日解決した人体模型事件……アニの話だと、あの模型は自ら動き、喋ったと言う。
門限さえなければ、私もアニと一緒にその現場が見られたかもしれないのに……ホントに門限さえなければ──
「って、さ……聞いてる?」
ハッと顔を上げると、アニが少し身を屈め、私の顔を覗き込んでいた。
「あ、うん。ちゃんと聞いているよ。恐怖の大王だよね」
「どの教室でもみんな騒いでるだろ、何でオマエは知らないんだ?」
私は一瞬だけ言葉に詰まり、小さく肩をすくめる。教室の話題には、基本的にほぼ混ざらない。なるべく存在感は消しているのだ。
だけど、それをアニに言うのも、なんだか違う気がする──
「え?……あ……でもでも、恐怖の大王って名前、ちょっと漫画か子供が考えそうな感じじゃない?」
「うーん、ハードボイルドに生きようとしてるのに、漫画みたいな名前の恐怖の大王にだけはやられたくないよな……って、わぁ!!」
え?!
──ドボン!
眼鏡を拭きながら歩いていたアニがあぜ道から足を滑らせ、田んぼに飛び込んだ……マンガのように頭から見事に。
「ちょっと…アニ!大丈夫?!」
思わず手で口を覆い、そちらへ駆け寄る。泥がはねてふくらはぎを汚し、雨のしずくが頬を伝うのも忘れて、ぬかるんだ田んぼの中のアニへ叫ぶ。
アニは泥の中で何とか手をついて起き上がり、泥を吐き出しながら苦しげに言った。
「うぇ、ぺっぺっ。大丈夫だけど……カバンから靴の中まで泥だらけだぁ……」
田んぼの水面には雨のしずくが小さな波紋を作りながら打ち付け、彼の姿がどんどんぬかるんでいく。
「アニ、登って来られる?!」
田んぼからの脱出を試みるアニだが、泥に足を取られ、上手く上がれない。私は焦って辺りを見渡すが、彼を引き上げる手段が見当たらない。
その時、私の目に自分の手に握られた赤い傘が飛び込んできた。そうだ!私は急いでくるくると傘を閉じ、ボタンを留める。
「アニ、これ掴んで!」
精一杯手を伸ばし、傘をアニに差し出す。
「おぅ、ありがとう。でもお前が大丈夫か?」
「大丈夫!」
アニは力を込めて傘を掴む。私は足を踏ん張って全力で傘を握りしめ、彼は必死に田んぼからの脱出を試みた。そう、その調子、あと少し……!
その時、アニの手が泥で滑り、彼は再び田んぼに投げ出される。
「わぁ!」
「きゃ!」
後ろに体重をかけていた私はその拍子に思い切り尻もちをつき、そして──
──ポチャン。
後ろで小さな音がした。
「え?」
私は急いで起き上がり、後ろを振り向く。
飛ばされた透明なビニールバッグとその中のカメラが、無情にも用水路に流れる水に飲み込まれていった。
「──そんな……カメラが……!!」
心臓が凍る音がした。数秒前までの優しい世界が、墨で塗りつぶされたように色を失っていく。私は手を伸ばした。でも──届かない。
雨に打たれながら私は呆然と立ち尽くした。
「お父さんのカメラ……」
梅雨の空が重く低く垂れ込め、雨の匂いと混ざった土の香りが鼻をつく。 水面に揺れるカメラの影が、私の心の一部をもぎ取って流れていった。
──その時。
母からのメール着信音が鋭く辺りに鳴り響いた。
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