第21話 影に沈む無限回廊⑤~弧月の庭~

 その夜、クロノスの影の拠点にある『孤月の庭』は静まり返っていた。

ヘルマフロディトスがオルフェの為に作らせた特別な居住場所で、此処から天井を見上げると淡い銀光をまとった球体がぼんやりと浮かんでいた。それはまるで月のようだが、夜のようで夜ではない歪んだ空間に漠然と存在してい人工月である。


 黒鉄の柵に囲まれ紫の薔薇が咲き乱れるその場所に、一人の男が佇んでいた。


 ——その青年の名はオルフェ。仮面の下から覗く冷たい眼差しは、庭の奥で咲いているオレンジアッシュの薔薇に注がれていた。


「ミラ・・・」

 名前を口にした瞬間、胸の奥がじりじりうずき記憶が蘇る。


 ——まだ少年だったあの頃。彼とミラは鉱山の麓の町で暮らしていた。毎日どこかで音楽が奏でられていて、小さくはあるが心豊かに生活が出来る町。オルフェが竪琴を奏でるとその横でミラは歌いながら屈託のない笑顔で踊っていた。


「お兄ちゃん!今のお歌、私が考えたの!」

 そのキラキラと輝く瞳は、まるで世界のすべてを照らす太陽のようだった。


 ——彼の中で鮮やかで幸せな光景は突如として暗闇と恐怖に染まり、耳には激しい物音と怒号が響き渡る。大切なものが次々と破壊され、子供たちの怯えた泣き声と、そこに広がる絶望感。これまでの穏やかな生活が幻であったかのように・・・。


 ——町が・・・そしてこの世界が黒い影に包まれ、すべてが崩れ落ちたあの日。オルフェは選ばれた“影の勢力”の訓練生として強制的に引き抜かれていく。


「力を望むか?ならば過去を捨てよ」


 ——その言葉に従ったのは自分の意思だった。いつか必ず権力を手に入れ家族を、そしてこの世界を救いたいという一心で。いや本当にそうだったのか・・・ただ死の恐怖に勝てなかっただけではないのか・・・今でも答えは出ない。私が影の勢力になれば家族は守れると信じていたが、その希望も無残に砕け散っていく。


「ミラ・・・お前がいるから私は生きている。ミラが私にとって最後の砦。でもお前は変わっていなかったよ・・・あの時のまま人を信じ希望の歌を口ずさむ」


 弧月の庭に珍しく風が吹き抜ける。仮面の下の髪が揺れ、胸元で銀のペンダントトップがかすかに震えた。それはミラが幼い頃、母に教わりながら一生懸命手作りしてくれた音符のチャームだった。


「これはお守り。どこにいても心はずっと一緒だよって意味だからね」

 少し甘えるような愛らしい笑顔でオルフェの手の平にそっと乗せる。


 オルフェはそれを今も肌身離さず持っていた。ただのお守りみたいなものと言い聞かせるが・・・外すことは一度もなかった。


「こんな姿の今、二度とミラの前に姿を見せる事はないだろう。だが、今もミラの歌声は耳から離れない・・・」


 胸を締め付けられるような想い。それを断ち切るように側にある剣を振る。


「もう・・・戻れない。私はクロノスの影の幹部であり総裁の側近。そして情夫として仮面にすべてを隠して生きる者だ」


 すると、背後からふわりと声が聞こえてきた。


「まだ間に合うわよ、オルフェ」

 突然姿を現したのはエマという本の精霊。ミントグリーンのウェーブヘアーは透明感があり顔を囲む細い髪束は若葉のように繊細な感じである。


「精霊の分際で、私に助言か?」


「そんなに敵視しないで。ただの本好きの精霊よ。でも見えるの・・・あなた心の中にある“後悔のページ”がまだ閉じていないこと」


 オルフェは何も答えず背を向けた。だが、エマは静かに話し続けた。


「ミラは記憶を消された今でも心の奥底であなたを信じ、恋しがっているわ。だから目を逸らさないで」


(ミラ・・・私があの日から止めてしまった時間を動かすことが可能なのか?)


 オルフェは仮面の奥から流れ落ちる一筋の涙を誰にも見せないように背を向け、しばらく動くことが出来なかった。

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