第15話 勝者と秘密
十日目――。
すでに葉桜が深くなっている。
風にあおられ、桜吹雪が舞っている。
おびただしい桜の花びらが穏やかな川の流れに乗り、その花びらが陽光に照らされて水面できらきら光る。
その、流した絨毯のような花びらの中を、一艘の屋形船がゆるゆると登ってきた。屋根のない供の船が周りに何艘も取り着いている。
土手の上は、最盛期を超えたとはいえ、まだ人出も多くにぎわっている。酒を飲んで浮かれる町人の歌声が響き、今までと変わらない花見の風景が広がっていた。
金次郎は紋付き袴を着用して、河原石の上にゴザもひかずに着座している。その横に小春が座り、三方に乗せたあん入り団子を用意して控える。
金次郎の横に控えるのは、本来であれば与田屋の主人、久平であるべきなのだが、あん入り団子を開発したのは小春ということを金次郎も知っているし、与田屋の小さな店は小春なしでは回らなくなっていることも知っていて、ごく自然に金次郎は自分の横に小春を控えさせた。それに、すでに小春は天野久扶と対面をすませているから、久平がここに居たら、
「あの娘はどうした」
と、屋形船の天野久扶が不審に思うかもしれない。
小春が向こう岸を見ると、白髪の醤油屋清兵衛らしい老人がかしこまって川原石の上に着座して控えていて、その横に借り物らしい少し大きめの紋付きを着た文司も控えていた。向こうもこちらと同様の様子で、団子を三方の上に乗せて大名船が着岸することを待っている。
「いいか、確認するぞ」
金次郎は緊張した様子で言った。
「もうすぐここに御用船がお着きになる。わしがこの団子を献上して、天野様からお前にお言葉がある。おもてを上げるように言われるが、決して天野様のお顔を見てはならんぞ」
「はい」
何度も聞いていた。
室町から続く礼儀作法で、
「おもてを上げよ」
と言われても、肩を震わし動揺を示し、決しておもてを上げてはならない。それが貴人に対する礼なのだ。もう一度同じことを言われて、はじめてわずかに顔を持ち上げる。このときも貴人の顔を見てはならない。
船がするする上がってくる気配がして、小春が緊張していると、
「あっ!」
と、金次郎の声が響いた。
「お、おい、見ろ!」
金次郎の太い手が伸びてきた。小春は肩をがしがし揺すられた。しかし、顔を上げていいのかわからない。
「肩の動揺はいらん。しっかり顔を上げろ。お船が! お船が!」
まさか、船が沈没でもしたのかと顔を上げると、船は遠くにあり、向こう岸に着けようとしていた。聞いていた話とちがう……。船はこちらに来るはずではなかったのか。
小春は内心で首を傾げた。十日目の今日も、人出はこちら側が多い。それなのに船はこちら側には来ない。
屋形船の障子が開いている。
その中の様子が小春にも見えた。あのとき会った天野久扶が居る。
天野久扶は裃を着て、いかにも儀式ばった格好をしているが、その表情が柔らかい。傍らには奥方らしい夫人も居る。夫人は、空よりも青い色鮮やかな着物を着て、その隣に朱色の着物を着た侍女らしい女が二人居た。天野久扶が笑顔で夫人に何かを話している様子が見えた。
小春はその華やかな様子に見とれた。
水野久扶とその奥方、それに侍女たちが目に痛いほどの綺麗な着物を着ていて天女のように美しい。船上は澄んだ青空の下、水面から反射した日光を船内に受け、輝くような鮮やかな空間だった。まるでそこだけが竜宮城のようだ。
そのまま、屋形船は向こうに着岸した。
「なんということだ!」
金次郎が起き上がって地団太を踏んでいる。
向こうの岸では、皴の深い顔を、さらにくしゃくしゃにして醤油屋清兵衛が喜んでいる。
芝居の一場面のように小春には見えた。日に照らされるその人たちの振る舞いが、対岸で見ていたこともあり、劇的で華やかだ。小春は、文司が実は役者になりたかったと勝手に思っている。文司の舞台を見ているような錯覚があった。大名の天野久扶に声をかけられ、笑顔でなにごとかを返答する文司が見えた。
(顔を上げたらだめなのに)
その様子を、なぜか微笑ましく小春は見つめた。
「は、話がちがう!」
金次郎は狼狽して何度もそう言うが、こういうことが土壇場で起こるのが人の世というものだ。幼い頃から裕福ではなかった小春の方が、実感を持ってそういうことを知っていた。しあわせは、手に入らないから欲しくなるのだ。
「お猿さんですね」
「そ、そりゃあ言い過ぎだ」
金次郎は、
「恐れ多いことを言うな」
と、小春を叱った。
くるくると、あっちを見てこっちを見て、気まぐれにあちら側に行ってしまった天野久扶のことを、小春が猿に例えたものと思ったのだろう。
「まあだがな、そのように思えば、お武家に振り回された自分の滑稽さが多少は救われるがな」
「ち、ちがいます」
小春は慌てた。
「あそこの奥方様や、お船の女の方たちが、お猿さんの芸を見てはしゃいでいます」
「猿まわしに負けたのか……」
おそらく、船上から向こう岸の猿まわしの芸を見て、気まぐれに予定を変えて向こう岸に着けたのではないか。
しばらくして、船が東のこちら側にもやってきた。
ここからは聞いていた通りのことが小春の前で起こった。三方の団子を金次郎が献上して、小春は天野久扶から言葉をいただいた。
「小春、前は名前を間違えて悪かったな。間違えた理由は前に言った通りだ。本当は、お前のことはよく知っていたよ」
「は、はいっ」
小春は平伏した姿勢のままで返事をした。天野久扶の正体は、あの団子百本の侍なのだ。ふと、なぜか小春の頭にお滝の不機嫌そうな顔が浮かんできた。「気を付けて、あんたも斬られちまうよ」と、そのお滝が言っている。
(まさか……)
そんなわけはない。「あんたも」とはおかしい。綾は労咳だった。樟蔭寺で亡くなったのだ。
「顔を見せてくれ」
天野久扶にそう声をかけられた。おもてを上げよ――。という言葉ではない。どうしていいかわからず、小春は頭を下げ続けた。
「さあ、顔を見せて」
金次郎の手が肩に伸びてきて小春を起こし、ようやく小春は顔を持ちあげた。
「ほら、もっと顔を上げて中を見てみなさい」
金次郎にそう言われて船の中を見ると、小春の団子を船上の奥方と侍女たちが一緒に食べていた。
「おいしい」
と、奥方が笑顔と共に言った。
(まさか……)
小春は白昼に幽霊を見た。奥方は綾の姿をしていたのだ。
「この、あんの入ったお団子を食べるのが楽しみだったの」
「はい……」
幽霊に声をかけられた。どう言葉を返していいかわからなくなって、小春の頭の中は真っ白になって固まった。
「小春、あなたがこの団子を考えたんでしょ。頑張ったわね」
(え……)
顔を上げてはいけないと言われていたが、すでに上がっている。懐かしい甲高い姉の声を聞いて、吊り上げられるようにさらに小春は顔を上げた。奥方と綾の顔が重なっている。
「姉さん?」
まぼろしかもしれない。しかし、まぼろしでもいいから、小春は姉と逢えたことを神様に感謝した。そして、失礼でも構わない。あとで斬られてしまってもいいから言葉を返した。
「姉さん、どうして死んじゃったの」
「しかたないでしょ」
「でも……」
「借金は、どうなったの」
幽霊になってもそれが心配なのか、綾は小春にそのことを尋ねてきた。幽霊は天野久扶の奥方の口を借りている。
「借金は、お団子が売れるようになったから、何とかなるから大丈夫」
「また困るようになったら、私が団子を買いに行ってあげるから」
「本当に?」
綾は死んでも借金が心配なのだ。
借金で困れば綾の幽霊に会うことができる。それならば、借金がたくさんあっても構わない。そう小春は思った。
「私、大坂にお役目で行くから、しばらくは帰ってこられない。それまで、頑張って団子を売らないとだめよ」
「は、はい」
「小春? もしかして、私のことを聞いてなかったの?」
もう、天野久扶の奥方に声をかけられているのか、綾と話しているのかがわからなくなって、小春の頭はくらくらしてきた。
(この人は幽霊ではない)
小春はようやくわかった。
綾は天野久扶の奥方となっていたのだ。
すべてのこんがらがった糸が溶解して、小春の中で再結合して真直ぐになった。
(おとっさんは知っていた……)
小春は思った。
久平だけはこれを知っていて隠していた。久平に感じていた違和感の正体はこれだった。綾が亡くなり、口では、
「悲しい」
と言ってはいたが、納得出来なそうにいるだけで、それほど久平は悲しそうではなかった。
だから、樟蔭寺に綾の看病に行くことを「移るから」という理由で小春に許さなかったのだ。そこに言っても綾はいない。樟蔭寺に行っても綾はいないから、長屋のお滝が行っても会えないはずだ。身分を超えて天野久扶の妻になるための偽装工作……。そういうことなら、隅田川の土手で団子百本の侍と綾が二人でいるところをお滝が二回見たらしいが、本当だったのだろう。天野久扶が与田屋に団子を求めに来ているうちに二人は親しくなった。
久平は二人のことを認めつつ、納得できない気持ちがあり、だから「納得できない」と口癖のように言っていたのではないか。綾が大坂に出向き、ほとぼりが冷めた頃、実は綾は生きている。そう教えてくれるつもりだったのかもしれない。
身分を越えた恋愛ということだが、
綾が風邪になる。
ということから偽装が始まっていたのだろう。綾が風邪を引いて寝込み、それが労咳というので樟蔭寺に移されて小春は急に会えなくなった。ただ、身分を越えた恋愛を成就させるためであれば、物語としてはあり得そうな話に思えた。綾は死んだことになり、そのあと綾はどこかの旗本の養女ということになり、そこの家から天野久扶に嫁ぐ形にした。
団子百本を毎日のように天野久扶が与田屋に買いに来たのは、そうやって経済的に与田屋を助けることが綾と約束した条件だったのではと小春は思った。でなければ、目の前の人がまぼろしで、幽霊ということになってしまう。
そのあと、天野久扶に声をかけられたが、何を言われても、
「……はい」
とだけ小春は言葉を返した。
それ以外、どういう言葉も小春には返せない。
三方に乗せてあったあん入り団子は、今朝、金次郎の屋敷の台所で小春自身が作ったものだ。船の中には三方に置かれたままの、向こうのみたらし団子がそのまま置かれていた。
「小春、この団子をまた食べさせておくれ」
天野久扶に優しい声音でそう言われ、
「はい――!」
と、小春は深々と頭を下げた。
しばらくして顔をあげると、船はもう小さく遠ざかったあとだった。
西側の岸は、勝った勝ったと大騒ぎになっている。
その様子を、対岸から小春と金次郎が見つめる。
「わたしたち、負けたんですか?」
小春には勝負がどうなったのかわからなかった。
「船が、先に着いた側が勝ちという取り決めになっている……」
苦しそうに金次郎は言った。
「なら、わたしたちの負け?」
「だが、本当は勝ちなんだぞ」
「……はい」
対岸ではお祭り騒ぎで、今更、本当はこちら側の勝ちなのだと言っても、悶着が起こって納まりがつかなくなるだろう。誰がどう見ても船が先に着岸したのは向こう側だ。
「心配するな」
と、金次郎が小春の顔を覗き込み、優しく背中を叩いた。
「お前たちの借金は三十一両だったな。そのうちの五両は新島の真月にしているもの。そうだったな」
「はい……」
「真月へは、わしが行って話を付けてきた。どういう借金なのか向こうで聞いたが、ああいう危ないことはもうやめることだ。証文はここにある」
金次郎は、その証文を懐から出して小春に渡した。小春が開いてみると、たしかにあの証文だ。金次郎が五両を払ってくれたようだ。
「文司のあずま庵にしている借金が十六両。それは、わしがあとで払いにゆく。ほかの借金が全部で十両。それも払ってやる。これで、お前たちは自由だ」
「ありがとうございます。なにからなにまで……。でも、私たちは負けたんですよね?」
「そうだな。だから、三十一両はわしが新たに貸すことにする」
「三十一両なんて、とても……」
「返済はいつになってもいい。金利も別に取らん」
また、金次郎は小春の苦労をねぎらうように優しく背中を叩いた。
「この勝負はおもしろかった。客が、口々にお前の団子を褒めていたぞ。別の大坂定番が、役職につくたびに八幡川で縁起かつぎの花見をする。そのときにまた、団子を売ってくれ。それだけが金を貸す条件だ」
「わたしが……?」
むしろ、頭を下げて売らせて欲しいくらいで、その条件が有り難くて小春は涙ぐんだ。涙を隠すために下を向く。
「なんだ、不満か」
「いいえ、嬉しくて……」
「ただ、今度は猿まわしの手配をしなければならん」
金次郎が笑い、小春も笑った。桜吹雪が舞い、新緑が生命感を乗せて新しい季節の到来を告げていた。
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