第2話「名前の無い出会い」

「……来てない?」

 僕が首を傾げるとみつは頷いた。

「うん、来てないな。俺、ずっと職員室ここに居たけど見てないし」


 入学式後ホームルームから帰ってきた教員はほとんどおらず、職員室は閑散としていた。

 中でも一年生担当班の席に座っていたのは三組の副担任・三井しょう、唯一人だった。


「つーか三組のホームルームってもう終わったの? 一年はどこもレクで盛り上がって、まだ帰りの会も始まってないらしいけど……」

 三井は自分が不在のホームルームを不安視していたが、その心配は間違っていない。


 三組のホームルームが早々に終結したのは別の意味で盛り上がったからだ。

 担任は盛り上げた張本人、名前の無い少女を職員室に連行したはず。

 しかし、よく考えると担任が彼女と話し合う場所は職員室とは限らない。

 事が事だけに生徒指導室や校長室のようなもっと密室感が高い場所の可能性もある。

 そうなるともう、お手上げだ。




 その後も校内を探し回ったが――名前の無い少女はおろか、担任すら見つける事ができなかった。

 校内から人間の気配が消え始めた頃、玄関の様子を確認する。

 一年三組の下駄箱には、僕の靴しか残っていなかった。


 ゲームオーバーだ。

 どうやら彼女は僕が気がつかない内に帰ってしまったらしい。


 自分以外の名前が無い人間に出会ったのは今日が初めてだった。

 前時代的なこの国で、名前を持たずに高校生まで生き延びているのは奇跡に等しい。

 だからこそ、話してみたかった。

 きっと名前が無い者同士でなければ、話せない事がたくさんあるから。


「また明日、か」

 僕は一つだけ残った靴を溜息と共に昇降口へ放り出し、家路に就いた。




 昼下がりの駅前を春風にくすぐられながら歩いて行く。

 高校からの最寄り、はしした駅は地方のローカル赤字路線を象徴するような駅だ。

 線路沿いの錆び付いたベンチには一人の老人が無機質な表情で座っている。それ以外に人間の気配は無い。


 待ち受け画面の時計を確認すると――クラス会に興じる学生が帰るにはまだまだ早過ぎる時刻だった。

 そんな時間帯、学生以外の利用客が絶滅しかけている駅に人影があるはずもない。


 ふと、蒼い空の手前――橋ノ下駅の一番線と二番線を跨ぐ鋼鉄の陸橋が目に入った。

 階段は急傾斜しており、橋自体も相応の高さがある。

 それでいて老朽化が醸し出すきょうきゃくの頼り無さは人間を遠ざけるようで、橋を渡る人は一人もいない。

 そう思っていた。



 陸橋の上、錆び付いたらんかんから足を下ろして座る名前の無い少女を見つけるまでは。



 彼女を見つけた瞬間、僕は思わず目を見開いた。

 二番線の空中で揺れるそくは裸足で、欄干への腰掛けも浅い。

 今にも空へ飛び出して行きそうな雰囲気があった。

 春風になびく黒髪が彼女の輪郭を静かになぞっている。


 驚いて立ち尽くす僕の背後から、車輪の音が聴こえた。

 僕は思わず振り返る。

 そこには、この駅へと向かう一編成の列車が走っていた。


 駅までかなり近づいていたが、ブレーキをかける音も気配も無い。

 快速列車だ、この駅には止まらない。

 少女は二番線のプラットホームをすり抜けるであろうその列車を、じっと見つめている。



 もし彼女が飛び降りたら――ちょうど二番線の上だ。



「……やばい!」

 僕は肩に掛けていたボストンバッグを線路脇に投げ出し、全速力で走り出した。

 快速列車の速度と接近距離が気がかりだったが、そんな事を気にしている余裕なんて無い。


 こんな時に限って、入学式用の慣れない革靴だ。

 陸橋のふもとまで来た時――数瞬、悩んだ末に革靴を放り投げた。

 サイズの合っていなかった革靴は、無理に履き続けるよりも脱ぎ捨てる方が向いている。

 靴下だけの僕の両足は、アスファルトで舗装された階段を上り始めた。


 列車の通過を告げるATOS放送が、真横のホームから響く。

 焦る気持ちが足取りを狂わせ、思わず転びかける。

 ギリギリのところで転倒を阻止したのは右手一本、その右手に力を込めて更に上の段を目指した。


 蹴り上げる右のあしもとで、劣化したアスファルトが弾け飛ぶ。

 足裏が何かで切れたり、突き刺さったりする感触があったが――痛みは無かった。

 僕の両眼は既に、階段の最上段を捉えていたからだ。


 水平のはしげた――最後の直線を駆け出した僕と、横を向いた名前の無い少女の視線が交錯する。



「え?」


 驚いた彼女の肩を抱きしめ、線路から引き剥がす。

 僕は彼女を抱きしめたまま欄干を蹴り飛ばし、橋桁の上に倒れ込んだ。



 真下を通過する快速列車の轟音が、橋桁に叩き付けられる二人の音を掻き消した。

 胸の奥が痛くなるような乱れた呼吸、見開いた視界の端に名前の無い少女の呆然とした様子が映り込む。

 彼女の唇が何らかの言葉をえがこうとしたので、僕はその言葉を掻き消すように叫んだ。



「僕にも名前が無い!!!!!」



 ちょうど快速列車が通り過ぎた後、僕の声ははっきりと蒼い空の下に響き渡る。

 もし誰かに聞かれたら、というおくびょうしんも消え去ってはいなかったが――それを上回る何かが僕の声帯を震わせた。

 言葉が独りでに続いていく。


「生まれた時からずっとそうだ……僕には名前が無い」

 彼女はもう言葉を紡ごうとはしない。

 代わりに微かな動揺が、地球色の瞳に浮かんでいた。


「あんたが飛びたくなる気持ちは分からなくも無いけど……ようやく見つけた名前の無いクラスメイトだ……だから、思うんだよ。一言くらい、僕に相談してから死んでも遅くないって」

 初対面の相手に何を言っているのだろうという理性を抑えつけ、僕はその全てを言い終える。


 だが、名前の無い少女から返ってきた言葉は意外なものだった。



「……あのさ」

「何?」

「誰が飛び込み自殺しようとしてたって?」

 名前の無い少女は不思議そうに首を捻り、そう言った。

「……え?」

 思考回路が静止する。




「私、電車好きなんだよね。特にこの路線、色んな車両走ってるから見てて飽きないし」

 彼女はスクールブレザーに絡み付いた砂を振り払い、起き上がった。

「……裸足だったのは?」

 今度は僕が呆然としたまま尋ねる。

「風が気持ちよかったから」

 

「……という事は」

 嫌な予感で溢れていたが、答え合わせの時間はやってくる。

「ここで……電車を見てただけ?」

「Yes」

 呆れ果てると同時に身体中のあらゆる力が逃げていった。

 駆け上がった階段と叫んだ声の分だけ、羞恥心が込み上げる。

 僕の方が飛び降りたい気分だった。


「……落ちたらどうするの」

 僕は恥ずかしさを紛らわすように呟いた。

「まあ……慣れてるから大丈夫だって」

「鉄道警察に通報されかねないよ」

「大丈夫、逃げ足速いから」

 そういう問題では無いような気がする。


 名前の無い少女は「足」という自分が発した言葉で何かに気がついたようで、僕に問いかけた。

「足、大丈夫……?」

「足?」

 何を言っているのか分からなかったが、ふと足を見ると学校指定の白靴下にいくつもの紅い模様が浮かび上がっていた。

 靴下を脱いでみると――足裏を中心に切り傷・刺し傷・えぐれ、多種多様な痛々しい傷が広がっている。


「ねえ、絆創膏持ってない?」

 ボストンバッグの中には救急セットが入っていない事を思い出した僕は名前の無い少女に尋ねた。

「絆創膏じゃ無理だよそれ……」

 名前の無い少女は僕の傷跡をじっくり見つめて呟いた。


「とりあえず移動しない?」

 名前の無い少女は僕に手を差し伸べる。

 少し遠回りしたけれど、当初の目的は叶ったようだ。

 こんな黒歴史一つ積み上げる事になるとは、思わなかったけれど。


 僕は差し出された手を握り、ゆっくりと立ち上がる。

 こうして僕は、名前の無い少女と出会った。

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