海に沈むジグラート 第70話【王立劇場の夕べ】

七海ポルカ

第1話 王立劇場の夕べ



 シャルタナ家から、アデライード・ラティヌーに以前約束していた王立劇場の招待状が送られてきた。

 砂漠の国の女王をモチーフに作られた【ネフェルタリ】という演目である。

 海の国であるヴェネトでは砂漠の国を舞台とした話は受けるため、数年ごとに実は【ネフェルタリ】はリバイバルされ、舞台に掛けられてきた。

 人気の演目であり、先だって初日が行われたのだ。

 評判も良く、シャルタナとの約束がなくても、行ってみたいねとはアデライードと話していたのだが、どうせならラファエルの帰還を待ってと思っていたところ、シャルタナからの招待状が先に届いたのだ。

 ラファエルに連絡を取りたかったが、報せを誰が見るか分からない可能性があったので、無駄にラファエルを心配させたくない、ということで知らせないまま観劇することにした。


 ネーリは最初から行く気だったのだが、ふとある時、王立劇場にシャルタナと観劇しに行って、もし王妃と鉢合わせたら非常に困るということに気づき、その時は「あっ!」と思わず声を出してしまった。絵を描いている途中だったので、側にいて、うとうとしていたらしいフェリックスが思わずひょこ、と顔を上げるくらいの声だった。

 慌てて帰って、アデライードに話すと、彼女は紫がかった瞳を瞬かせて、

「はい……あの……ネーリ様はその可能性も承知の上で仰ってるのかと……」

 ぶんぶん、と首を振ると、アデライードは小首を傾げる。

「王妃様とお会いになっても、……大丈夫なのですか?」

 ぶんぶん、とネーリは重ねて首を振る。


「あの人は僕の顔を知ってるから、まずい……」


 一対一なら、別にいいのだ。

 王妃が仮に、今話したいから来いとネーリを呼び出すなら、彼は話しに行った。

 だが有力貴族であるシャルタナが側にいるのはよくないし、王立劇場という場所もまずい。人目に付くし、もし万が一騒ぎになったら怪我人が出るかもしれない。

 それは避けたいのだ。

【シビュラの塔】の話にもなる。

 王妃と会うことは、今のネーリにとって恐れは無かったが、会わずに遠目から、シャルタナにネーリが接触を取っているなどと目撃されることは、得策では無いのだ。

 王立劇場はその可能性があった。

 だが。

 ムラーノ島へ外遊に行った王妃は随行者達を連れ、他の諸島も訪問しているようで、同行しているラファエルも、帰還が遅れている。

 幸い、ラファエルが戻って来てないということは、王妃もヴェネツィアに不在であることが分かるので、その点シャルタナと観劇中に王妃に目撃される可能性があるということはなくなった。


「王妃様以外で、ネーリ様をご存じの方は王宮にはいらっしゃらないのでしょうか?」

 アデライードが尋ねた。

「それが……その部分はちょっと複雑なんだ」

 ネーリは以前から、街の中で時折人に監視されていることを感じることがある、と話した。

「それは……王宮の方ですか……?」

「たぶんね」

 ネーリは頷く。


「でも確証はないし、何かぼくに危害を与えようとしてるわけじゃ無いことは、伝わって来るんだ。様子を伺ってる、って感じなんだよ。だから多分定期的に王妃が、どうやって過ごしているのか、探らせてるんじゃ無いかと思う。誰か一定の人と深く繋がりがあれば、相手がどうかによって、場合によっては手を打ってくるんだろうけど。僕が絵を、売ろうとした時のようにね。貴族なんかとは、きっと関わって欲しくないと思うはずだよ。親しくなって画家として僕が取り立てられたりしたら厄介だし……。

 教会に関わってることはだから把握してると思う。

 でも、僕は大きな所には出入りしてないから、相手に意図は伝わってるんだよ。

『宿として借りてるけど、この先教会と密に関わっていく気は無いよ』ってことがね。

 でも僕が一線を越えれば、それもまた妨害や忠告は行われると思う」


「ネーリ様はよくヴェネツィアの街を歩かれますわ。絵を描くために……」


「いつもそういう人がいるわけじゃないから。時折物陰から伺ってることが分かるんだ。でも放っておいてる。僕は王妃が、僕が何をすれば嫌がるのかよく分かってる。それをせずに生きていれば、泳がせてはくれるんだよ。

 本当はいっそ命を奪ってしまいたいんだろうけど……。彼女は彼女で何かを恐れているから、そうもいかないようなのも分かるからね。殺す気は今のところないみたいだから、放っておいてる。王妃は僕が住む場所を作らず、ずっと独りで孤独に生きてる限りは、安心出来るんだよ」


 ネーリは何でもないようにそう言ったが、辛くないのかとアデライードは思う。しかし問いかけようと思って、やめた。

(そんな生活が辛くないわけがない)

 聞かずとも分かることだ。


(それでもネーリ様はその不自由を受け入れても、ヴェネツィアを歩き、そこを描けることこそを幸せだと思われているのだ)


 それを失った時にネーリにとっての本当の不自由があり、本当の悲しみがある。

 自分が【扉を開く者】である可能性は、王妃は貴族達には決して気付かせたくないはずなので、貴族達の中に自分を監視している人間はいないだろうと、ネーリは言った。

「『あいつを尾行し監視してくれ』なんて言ったら、なんでだろう? って逆に思わせてしまうからね。かといって例えば、金で雇うような相手も同じ理由で彼女は信用しないと思う」

「とすると……」

「王妃の相当側近の中には、僕の顔を知ってる人間が数人いる可能性はある。王妃の側近となると、ラファエルなら街で見れば見分けが付くのかもしれない」

 スケッチを描きつつネーリが喋るのを、不思議な気持ちでアデライードは見ていた。

(ネーリ様は……こういう話をされている時、いつもと違う空気を出されるわ)

 いつも絵を描き、動物を可愛がり、大らかな性格を見せる彼とは違う。

 ラファエルは言ったことがある。


『ジィナイースほどの芸術家は滅多にいないけれど、

 彼は単なる芸術家でもないんだ。

 幼い頃から祖父の側で、政や人を学んできた。

 それに……彼には何かがある』


『……なにか?』


 ラファエルは居間に飾られた【エデンの園】の絵を見上げながら、唇でワインに触れた。

『歴代の偉大な王たちに共通する、何かだよ』

 優しい声で彼は言った。


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