風船症候群

 ある日突然体が逆さにひっくり返り、空中をぷかぷか浮き始める病が横行し始めた。

 G県で一斉に起こったにも拘わらず行方不明者を二名だけしか出さなかったのは、その浮かび上がるスピードが極めてゆっくりだったからだ。ある者は咄嗟に木の枝に捕まり、またある者はそばにいる他の人間の手を取り、空の彼方へと飛び立つ難を逃れた。

 風船症候群と名付けられたその病は、原因不明のまま一年が過ぎる。G県でしか起こらなかった事、そして発症した人間のほとんどが一ヵ月程度で自然治癒する事。この二つの要因から遅々として研究は進まなかったのだ。

 G県に生物学研究室を構える国立大学の田沼小春教授とその助手の小宮沢健吾助教授は、風船症候群をいち早く研究し始めた生物学者であるが、なかなかこの病気の解明が出来なかった。

「傾向はわかっているんだがなぁ~」

 二日も風呂に入らずに目の下にクマを作っている小春教授は、プリントアウトしたデータを電灯に透かすように見ながらぼやいた。

「取り敢えずシャワー浴びて来てくださいよ」

「いやぁ、いち早くこの難病を解決しないとだな」

「ただ風呂嫌いなだけでしょ。病気の子達を言い訳に使わないでください」

「あ~……何か糸口が掴めそうだ。今は集中しないと」

 健吾の小言が始まるや、小春は椅子に座り直してキーボードを叩き始める。

 健気な小宮沢健吾助教授は溜息を吐いた。

 ――まったく、困ったものである。

 小春は一度デスクに座ると、無理矢理引き剥がさない限りずっと動かないのだ。健吾は研究内容のサポートよりも、むしろこの困った教授の身の回りの世話をサポートする係に成り下がってしまっていた。

 彼はもう一度溜息を吐いて給湯室でコーヒーを淹れる。

 小春は一歳年上の先輩である。二人とも国立大学の学生でそのまま大学院のドクターを取り、そのまま教授と助教授になった案外珍しい関係だ。大抵は何処かのタイミングで別の大学へと別れることが多い。

 彼はそれを若干疎ましく思っていた。

 何故なら、小春の座をずっと狙っていたからだ。彼女が居なければ自分があの席に座っていたのに、とハンカチを噛んだ夜は数えきれない。寄りにもよって同じような研究テーマに興味を持ってしまうとは。

 彼女がいる限り自分がそこに座ることはない事はとっくにわかっていた。健吾が一週間掛けて死にそうになりながら解いた問題を、彼女は椅子に座ってくるくる回っているうちに解いてしまう。そんな事を何度もやられていては心なんかとっくに折れるどころか折れすぎて丸まってしまっていた。

 なのに彼女は席を譲らないどころか、物理的にもなかなか動かないと来た。ひじ掛けに体を預けながら、パソコン画面を睨んで唸る小春。コーヒーを置くと、「おお」と健吾に顔を向けた。

「ありがとう。君が居なかったら私はとっくに枯死しているな」

「いや、その前に自分で何か飲んでくださいよ」

 健吾の嫌そうな返事を無視してコーヒーを啜りながら、小春はスマホを取り出した。

「小宮沢君は風船症候群についてどう思う?」

「……そうですね。未知のウイルスかプリオンのような、全く新しい病原体があるのかと思っています」

「それは何故?」

「発症患者にどんな検査をしても異常が見られないから、ですね」

「ふむ。しかしどんな方法でもそれらしいものは見つかっていないね……。私は他に原因があるのではないかと考えているよ」

 ははぁ、と健吾は眉根を寄せた。

 それで一昨日辺りからデータを見る目が死んでいたのか。心此処にあらずというか、見ているデータとは違うデータを分析しているというか、とにかくここ最近彼女の集中力は明後日の方向へ飛んで行ってしまっていた。

「発症者の九割が中学、高校生というのがまず興味深い。二十代での発症も多いが三十代四十代ではほとんどいなくなる……。これは無視できない傾向だよね。私はここから――」

 メール通知が画面のディスプレイに表示される。差出人は著名な物理学者の名前になっていた。

「来た来た!」

 サンタクロースからもらったプレゼントを開ける子供のようにメールに添付されたデータを眺める小春。目の下の濃いクマ、ぼさぼさの髪、着崩した白衣。どれをとっても女性的魅力を捨てているくたびれた大人だ。しかし爛々と輝く瞳は無邪気な子供のようにキラキラとしている。

「おお……やっぱり、やっぱりそうだよ小宮沢君!」

 興奮を抑えきれない小春の震えた声音。健吾の白衣の袖を掴んで揺らす。

「わかったんですか?」

 その答えの代わりに、小春の手が健吾の手を包んだ。

「大発見だよ!」

 立ち上がった小春の顔が目の前に来る。今まで見たことも無かった満面の笑みがそこにあった。

 その瞬間、健吾の視界がぐるりと反転した。

「おわ!?」

「へ?」

 何が起きたかわからず辺りを見渡す。目に映るものすべてが反転して、つまり、自分が逆さまになっているらしいことに気付いた。遅れて、自分の足が天井に着くのを感じる。

 なんてタイミングで発症するのだろうか。

「風船症候群です」

「見ればわかるよ……はは」

 小春は気まずそうに健吾を見上げている。

「……これまでのデータ通り、特に体調に変化はないですね。……それでこれは、何が原因なんでしょう」

「……ん~? まぁそうだな。つまり、……そういう事だな」

 先ほどまでの笑顔は影を潜めて、もごもごと口の中で何かを言い始める教授。いつもの奔放で無神経な彼女とはかけ離れた態度に健吾は困惑した。

「……もしかして風船症候群って健康に悪いのですか……?」

「そういうわけじゃないよ。もっと言うと病気と言うより現象だ。かねてより人の思念が物理現象に影響する事は示唆されていた。……G県では、人の思念が他の地域よりも顕著に反映されるということで……」

 要領を得ない。自分の身体が逆さまになっていることも相まって、早く結論を聞きたかった。

「つまりどういうことですか!?」

「うん。初めて強烈に心が浮つく事によって、身体も浮き始める。そういう物理現象なんだ。初めて心が浮つくというのはつまり……初恋、ということで」

 健吾の視界にいる小春が、気まずそうに笑っていた。

 なるほど、若い男女に多いわけだ。

 さて、どうやって言い訳しようか。

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