にっこりあなたの鳩尾へ
家の近くを散歩していると、植木鉢に顔が描かれているのを見かけた。
にっこりとマジックで描かれたその顔は、何だか幸せそうで、思わずつられて笑ってしまった。
その夜、ゴトゴトと玄関の外で音がした。何だろうと開けてみると、昼に見かけた植木鉢がそこに居て、俺の鳩尾に飛び掛かって来た。
土がたっぷりと入った植木鉢はそこそこ重く、一瞬息が出来なかった。
植木鉢はそれで満足したのか、ゴトゴトとまた帰っていった。
狐につままれたような体験だった。
次の日冷静に思い出し、幻覚だったのでは? と自分を疑う。あまりにも荒唐無稽だ。マジックに顔が描かれた植木鉢に微笑み返したら夜にやって来るなんて馬鹿馬鹿しい。
そう思っていたが、今度は道端の石ころの一つに顔が描かれているのを見つけた。
友人との昼食へ行きがけだったこともあり、俺はギョッとしたがすぐに目を逸らしてそのまま通り過ぎた。
案の定、その夜に玄関がコンコンと音を立てる。観念してドアを開けると、石ころが俺の鳩尾に飛び込んで来た。幸い小さいので痛みはそれほどなかった。
それからも、事ある毎に顔が描かれた物に出会った。ケーキ屋のシュークリームに描かれていることもあったし、ニット帽に描かれている事もあった。千円札の透かし部分に描かれている時は、夜に捕まえて使ってやろうと思ったが、彼らは俺の鳩尾に飛び込むと、満足して何処かに行ってしまうのだ。何が目的なのかわからない。
俺と目が合うのが嬉しいのか? 少なくとも、辻褄が合うのはその予想だった。嬉しくて俺の胸に飛び込んでくるというわけだ。いい迷惑である。しかし本当の理由は聞いても答えてくれないし、回避しようも無い。俺は甘んじて鳩尾にめり込む多種多様な物を我慢するほかなかった。
しかしそんなある時、大学で密かに思いを寄せていた女の子のシャツににっこり顔が描かれているのが目に入った。
当然その夜、その子は俺の部屋に来ていきなり抱き着いて来る。
「ご、ごめんなさい……何でか体が勝手に……」
「大丈夫だよ」
大丈夫どころか大歓迎であったが、そんな風なのは億尾も出さずに、極めて紳士的に俺は言葉を返す。
彼女はハグが終わると首を傾げて帰ってしまった。しかしそれからというもの、にっこり顔は彼女の鞄やスマホにも現れ、その度に俺に抱き着く夜が来る。たまに持ち物だけが来てしまう事もあったが、何度もハグを繰り返しているうちに、次第に親密になり付き合う事になった。初めは厄介だと思ったが、今はにっこり笑顔に感謝したい。
相変わらず、にっこり顔は至る所に現れて、その度に俺は鳩尾を痛めたが、今や俺にはそれを耐えて然るべき幸せな生活がある。
「どうしてあなたの家に行ったりしたんだろう」
何度目かのデート帰り。彼女は不思議そうにそう呟いた。俺はもちろん答えを知っていたが、「何でだろうね」と返した。
「でもこうやって出会えたんだから、私に感謝しないとね!」
冗談めかして笑う彼女を小突きながらも、俺は立ち止まって、言う。
「感謝してるよ」
「なぁに、改まって」
もうすぐ日が沈む。
二人肩を並べて歩く。
「ねぇねぇ。見て見て。月が綺麗ですね、なんちゃって」
空を見上げていた彼女が、頭上を指差した。
「私死んでもいいわ、なんてな」
笑いながら空を見上げると、月に描かれた顔がにっこり笑っていた。
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