人生、全ベット
「こんにちは」
帰宅途中の電車で声を掛けられて、自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
何だこいつ。
「お疲れで? そんなに睨みつけても私は固りませんよ。残念ながら蛙ではないのです」
疲れちゃいないし、睨んでもいない。電車の中で見ず知らずの人間に急に声を掛けられたら誰だってしかめ面になるだろう。
それも終電間際でだ。人はまばらで座席など沢山空いているのに、わざわざ俺の隣に座ってにこやかに話しかけてくる金髪の優男に、笑顔で答えろと言われても無理な注文である。
「誰だお前は」
「私は悪魔でございます。はい」
「そうか。じゃあ別の車両に行ってくれ」
タチの悪い酔っ払いだったようだ。俺は一つ席を離れて目を瞑った。
シカトしていればそのうち何処かへ行くに違いない。
しかし男はその場から動こうとしなかった。そればかりか、俺が薄目で隣を覗いたのに目ざとく気づき、会釈を返してきたりする。
厄介な奴に絡まれたものだ。
駅に着いたら降りるふりをして車両を移ろうと思ったが、こういう居心地の悪い時間に限って電車は一向に止まる気配がない。むしろ加速しているように感じる。
何とも我慢出来なくなり、隣の車両に移動しようと席を立つと「ちょっとちょっと」と男が俺の袖を掴んできた。
「悪魔ですよ。悪魔。もう少し驚きになっても罰は当たりませんよ」
「五月蠅い。そんな突拍子の無い妄想をいちいち信じてたら、俺はとっくの昔に詐欺師に丸裸にされちまってるよ」
「そんな、丸裸にされるような貯金も無いでしょう。○○商事の開発部なんて、世間でいうところのブラックですよ」
驚いて振り向くと、笑顔の男はね? と首を傾けて来る。
――何故俺の職場を知っているのだ。
「会社だけではありませんよ。あなたが何処に住んでるか、休日何をしているか、趣味やら好物やら初恋の相手だって、全て知っています」
それらを本当にすらすらと口にし始めた男は、楽しげに人のプライバシーを並べ立てる。
にっこりと笑っているが、その目の奥にはのっぺりとした暗闇が広がっていた。
背筋につつ、と汗が流れる。
「あなたいつも言ってるじゃあないですか。俺はこんな仕事したくない。俺はもっと違う事が出来るはずだ。チャンスさえあれば……などなど」
ひ、ふ、み、と指折り数えながら「色々ありますね」と笑った。
「なんでそんな事まで……」
「悪魔ですからね。今日はそんなあなたにチャンスをプレゼントしようかと思いまして、わざわざこうしてやって来たわけでして」
悪魔はごそごそとポケットの中から手のひらサイズの四角い箱を取り出した。
真っ白の立方体の上部に赤くて丸いボタンが一つ付いているだけの、シンプルなものだ。
「賭け、しませんか」
「賭け……?」
悪魔との賭けなど、嫌な予感しかしない。大抵どの物語でも悪魔に関わった人間の末路なんて悲惨なものである。
「ああ、そんな警戒しないでください。説明を聞いてからでいいですよ」
よっぽど俺は変な顔をしていたのか、悪魔は首を振って笑う。
「簡単です。このボタンを押すか押さないか。それだけです」
「それだと賭けでもなんでもないと思うが……」
「確かに押すだけでしたらそうですね。でもこれを押すと五十パーセントの確率で死んじゃいます。魂はもちろん私がもらいます」
「そんなの誰もやるわけないだろ!」
「最後まで聞いてくださいよ。でも死ななかった場合、ですよ。死ななかった場合、あなたが賭けた命の分、何でも好きなものが手に入ります。大体相場だと寿命を二十年も賭ければ一生不自由なく暮らせるお金と気のいい伴侶が、五十年賭ければお金に加えて国を一時代操れるような名声と権力も手に入りますね」
思わず生唾を飲み込んだ。
確かにハイリスクだが、リターンが大きい。目が眩むほど大きすぎる。
テレビを見ながらいつも羨んでいる何者にでもなれるのだ。財布の中身を見ながらコンビニの幕の内弁当を諦めておにぎりで済ますことも無いのだ――。
「何か裏があるだろ? そんな上手い話聞いたこと無いぞ」
「それはそうでしょう。信じるか信じないかはあなた次第ですよ。私はこれが仕事なものでして」
悪魔は「でも」と続ける。
「今のあなたの人生酷いもんでしょう? ここらで一発当てといた方がいいですよ。このままず~っと会社の言いなりで安月給で働いて、毎日終電近くにお帰りになる。それが続くくらいでしたらいっそパーッと残りの人生使っちゃいましょうよ」
これから先の人生。
思い浮かべてから決断を下すまで、それほどの時間はいらなかった。
「よし、押すぞ」
「ありがとうございます。それではどうぞ。私としては外してくれると嬉しいですけれど」
そんなのごめんだ、と思いつつ、俺はボタンを押した。
カチリ、という音と共に、一瞬後悔が襲ってきたが、気づかないふりをした。
……十秒、二十秒。
何も起こらない時間の中、電車がレールを叩く音だけが響いていた。
「死んでませんね」
どれくらいの沈黙の後だろうか、悪魔がつまらなそうに溜息を吐いた。
死んでない……死んでない! 勝った! 俺は勝ったのだ!
喜びが爆発しそうになり、ここは電車の中のだと思い立って自分を必死に押さえ込む。それでも俺の右手はガッツポーズをひとりでに作っていた。
「魂はもらえません、か。残念です」
「はっは! 悪かったな、俺の運がよくてな! さあどうしよう。何を頼もうか……」
とりあえず金と土地をありったけ貰おう。そして権力……権力か。どっかの社長にでもしてもらうか。今まで俺をこき使ってきた上司を顎で使えるのは何かと快感だろう。それよりも先にまず素敵な恋人を貰おう。伴侶、などと悪魔は言っていたがとんでもない。素敵な恋愛から始めていいではないか。
あれこれと悩んでいると悪魔が俺の手に何かを押し付けてきた。
「ん?」
自分の手のひらを見ると、五百円玉が一枚乗っかっている。
「何だ、これは?」
「何って、あなた賭けに勝ったでしょう? だから、それ」
俺はもう一度自分の手のひらに乗っている五百円玉を見つめる。賭けに勝ったからこれ? どういう意味だ?
「……まさか、これが賞品だって言うんじゃないだろうな」
「ええ、それが賞品ですよ」
「冗談はよせ。賭けた寿命がそのまま賞品になるんだろ? 五百円なわけないだろう。それとも何か? 嘘を吐いたのか?」
「いいえ。悪魔は嘘を吐きませんよ。あなたの残りの人生賭けにすると、そんなものです」
「どういう意味――」
ガタン、と一際大きく電車が揺れた。
窓の外を見ると、景色は飛ぶように後ろへと流れて行っている。
……そういえば、駅に着くのが遅い。遅すぎる。
さっき悪魔を寝たふりでやり過ごそうと思った時にも感じたが、電車は本当に未だ加速を続けているのだった。
降りるはずの駅が、考えられないようなスピードで車窓の向こうを横切った。
「……騙したのか?」
「騙してませんよ。考えてもみてください。私は魂を集めるのが仕事ですよ? 賭けに負ける毎に寿命何十年分の配当を渡してたら大変じゃないですか」
だから、と悪魔は指差した。
「もし負けても最小限で済むような方にお声掛けしています」
鉄が擦れる音が響いた。
どうやら、車輪が外れたようだった。
「ちくしょう! この悪魔め!」
「はい、悪魔です」
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