第三十二話

◇◇◇ 数日後



「ぎゃっ……ぎぎぎっ……あ、あぁーーっ!」


 ベッドに仰向けで寝転んでロマンス小説を読んでいた午後のひと時。ページを捲るのが上手くいかず悪戦苦闘していると、突然明らかに普通じゃない叫び声が聞こえてきた。


「ハリエッタ? えっ? うわっ、何やってんのよ!」


 ハリエッタは自分の左目にナイフを突き立てていた。呆然と見ているうちに、全身を震わせながら突き立てたナイフを握っている。


「はぁはぁ……」

「ちょっと、ちょっと! やめて、死んじゃうって!」


 顔は真っ青で息も荒い。しかし右目は狂人のそれとは違って強い意志を感じる。それ故、誰か不審者でも忍び込んでいて、そいつに刺されたと思っていた。


「はぁはぁ……サーガ様。はぁはぁ、も、もう少しお待ちくださいね……」

「えっ、何言ってるの?」

「はぁはぁ……ぐぁあっ!」

「きゃぁ!」


 そのままナイフを捩ると潰れた肉の塊の一部が左目から飛び出てきた。思わず悲鳴をあげてしまう。ハリエッタはナイフを自らの左目に刺したまま膝から崩れ落ちた。

 青い顔をして痛みに震えている。


「や……やりましたわ……サーガ様……」

「ななな、何を?」


 左目から鮮血を流しながら微笑んでいる。


「わたし……この……何も見えないのような肉が嫌いだったんです。私の目を回復する時に作り上げられた凶々しい肉の塊……」

「ハリエッタ……」

「あの男達が作った醜い肉の塊……この目の中に入れておくなど、た……耐えられない」


 そのままナイフを捩りながら引き抜くと血まみれの肉がついている。一瞥してからナイフごと床に放り投げるとべチャリと不快な音を立てた。


「は……ハリエッタ! 大丈夫?」

「うぐぐっ……い、痛い……痛い……」


 膝から崩れ落ちるハリエッタ。読みかけの本を投げ捨てるとベッドから転がり落ちて這い寄った。無理矢理に背中をさすりながら数回問いかけても息が荒く答える余裕もない。


「ハリエッタ!」


 精一杯大声を出すと、やっとこちらに視線を向けてくれた。左目を両手で押さえているが、右目からは明らかに勝ち誇った雰囲気を感じる。


「サーガ様、また治していただけますか?」

「へっ?」


 何を言っているかわからない。何故に自分の瞳を突き刺して、また治せなどと言うのか。


「穢らわしい肉を取り除きました。だから、サーガ様に治して欲しくて……」


 ここで先程からのハリエッタの叫びも相まって、何をしたいのか理解ができた。自らの純潔を汚した男達が無理矢理に作った肉の塊、これにはどうしても我慢できなかったのだろう。


「ハリエッタ……」


 最近は鏡ばかり見ていたので、年頃の女の子らしくオシャレにでも目覚めたのかと思っていた。まさか、こんな激情を隠していたとは……。


「それにしても……無茶苦茶な……」

「サーガ様。これで治ったら、サーガ様の関節にもナイフを突き立ててから治せばいいんですよ。んふふ……」


 恐ろしいことを言い始めた。自分が治療に失敗続きだから、新しい治療法を提案しているとでも言いたいのか。


(いや、怖いって! 肘や肘をズタズタにしてから治してもらうの? 無理、無理よー!)


 暫し言葉を失っているとハリエッタの視線が覚束おぼつかなくなってきた。ひとまずこの機会を生かさねば!


「こ、この事についての言い訳は後で聞きます。ただ……あなたの覚悟は受け取りました!」


 ハリエッタの目の前でこちらも膝立ちになる……つもりだったが膝立ちのハリエッタに思いっきり抱きつく形になってしまった。


「うぐぐっ……痛い……」

「ご、ごめんなさい。膝立ちはバランスが難しくて……」


 左目を押さえている両手に思いっきりぶつかってしまったので呻いている。姿勢を立て直すのを諦めて、床に寝転ぶハリエッタに覆い被さるような姿勢でバランスを取った。


「よ、よし。では左目を見せなさい」

「はい……」


 そっと手を離すと、瞼は明らかに落ち窪んでいる。中にあったを引き抜いたからだろう。


「じゃあ、治療を始めます」


 自由にならない右手をなんとかハリエッタの左目の前に持ってくる。それから図鑑の精緻な絵図を思い浮かべながら魔力を流す。それだけを意識する。頭の中から出ている線……神気系脈と眼球を繋ぐ。瞳の真ん中には透明な水晶を置く。水晶を小さな筋肉で引っ張る。そして中をドロっとした体液で満たす。丁寧に繰り返し繰り返し思い浮かべながら魔力を流すことだけに集中する。


「うぐぐっ……目の中を掻き回されている感じ……」

「えっ? 大丈夫なの?」


 不安そうにハリエッタを見つめると、苦しそうだけど微笑んでくれた。


「痛い……けど……大丈夫……つ、続けて……」

「うん……」


 ここまできたら最後までやり切るしかない。何度も何度も繰り返し魔力を流すと、その内にハリエッタも落ち着いてきた。


「サーガ様。ありがとうございます。もう痛くありませんわ」

「そう……じゃあ……」


 右手を降ろすと出血はとまっていた。不気味に落ち窪んだ瞼も右目と同じくらいぷっくりと膨らんでいた。


(何かは左目の中にできた……ということよね)


 ここで悪い想像が頭をよぎる。目を開けても瞳は無く、どす黒い肉の塊が見えたら……もしかすると目を開けるとドロドロと流れ出してしまうとか……恐ろしい想像ばかり。


「……」

「サーガ様? 目を開けますよ」

「えっ! あっ、うん……」


 急にやれと言われて失敗しても、そんなの仕方ないじゃない、そう思えたがもはや祈ることしかできない。全力で治療の成功を祈った。


「では……」


 ハリエッタが瞼をゆっくりと開けていく。すると、右目とは色がだいぶ違うが美しい瞳が見えてきた。


「ハリエッタ! 綺麗な瞳よ。ねぇ、何か見える?」

「……あっ、瞳は綺麗なんですか……鏡、持ってきて良いですか?」

「も、もちろん!」


 片目を瞑ったまま私を優しく押し退けると、寝室に置いてあった手鏡を持ってきた。私の前でぺたんと座り込むと緊張した面持ちで手鏡を自分の顔に向けた。


「……」


 そっと瞼を開けて自らの左目の瞳をまじまじと見つめている。


「ど、どう? ヘテロクロミアって素敵だと思うけど……」


 左右の瞳の色が異なる人は偶に居る。生まれつきが多く、片方の視力が悪いことも多いと聞く。


「私の国ではオッドアイなんて呼ばれてました。ふふ、まさか自分の瞳がそんな大層なものになるとは想像もしてませんでした」

「そ、そうよね。で……見えるの?」


 ここで手鏡を下ろしてこちらの顔をじっと見つめてきた。


(それにしても不思議な色をした瞳。肉の塊が入っているよりは何倍もマシだけど……)


 ハリエッタは右目を瞑って左目だけで見たり、逆に右目だけで見たりと色々と試している。


「どう……?」


 部屋の反対や窓の外を眺めていたが、今はこちらの顔をじっと見つめている。


「ど……どう?」


 右目を瞑り左目だけで見つめてくる。なんというか、ずっと無言は気になりすぎるわ。


「ど――」

「――サーガ様!」

「はひぃ!」


 びっくりして変な声が出る。そんなことには笑いもせずに、少し起き上がった私の身体を無言で優しく床に寝させた。そのまま右目を瞑って片目で頭から手足の先までじっくり観察している。


「あの……」

「ちょっとお待ちください」


 それ以降ハリエッタは無言のまま。どちらかというと緊張しているようにも見える。


「一番近い……かな?」


 何をしているか分からないが右膝に決めたらしい。両手を当てて集中し始めた。その時、膝の中を掻き回されているような不快感と激痛が走った。


「ぐっ……きゃぁ! ハリエッタ……な、何を……」


 気を失いそうになるほどの痛み。ナイフで切り裂いて、一番敏感な箇所を摘んだりよじったりしているみたい。


「あっ! 痛っ、そういうことなの!」


 ハリエッタはとしているんだ。


「はい。サーガ様、もう暫くだけ我慢してください」

「そうなの……ね……でも痛い! 痛たた、ハリエッタ、優しくお願い――」

「――無理です。あと少しだけ……少しだけ我慢を!」


 余裕なく答えるハリエッタ。額には薄らと汗が噴き出ていた。


「はぁはぁ……いたたた痛い! は、早く……早く……はや……」


 意識を失いかけたその瞬間、右足がびくんと痙攣した。


「あぁっ!」


 あまりに久しぶりの感覚に頭の中には大量の火花が散った。刹那に右膝から下に鉛の錘をつけたような不自然なほどの重さを感じた。

 足の指先に力を込めてみると、真っ白に細く不健康な指先が微かに自らの指示に従って動いてくれた。


「……」

「サーガ様?」


 ふと気付くとハリエッタが不安そうに見つめていた。そりゃそうだ。いきなり自分の目を突き刺して治療しろ、と脅しておいてから、すぐさまこちら主人の治療を始めて魔力で膝の中を掻き回したのだから。

 思わず無言で見つめ返す形になった。


「ハリエッタ……」

「ははい……」


 ハリエッタからは何となく『やってしまった』という後悔を感じた。いつの間にか玉のような大粒の汗をかいている。身も心も疲れ切ったようにも見えた。


「見てて」

「はい」


 全力で右足に力を込める。それでも動くかどうか。


「ん……ふぬぬぅー」


 数秒力を入れ続けると、気合いで右足を指一本ほど上げることができた。そのまま親指を動かしてみる。その瞬間、右足は床に降りてしまった。体力の限界、元々無かった筋肉は殆ど何もなくなってしまったかのよう。既に右膝から下は痙攣して激痛が走っている。

 ここでハリエッタに視線を向けると両目から大粒の涙が溢れていた。色彩の異なる瞳から零れ落ちる涙はより一層綺麗に見えた。


「ぐすっ……本当に良かった……」

「はぁはぁ……痛たた。足攣った! あっ、あと三箇所よ。これからもよろしくね」

「はい!」

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