第三十話
◇◇◇
「それにしても、この図鑑群の価値に気づかないのか」
ベルナールが急に変なことを言い始めた。思わず二人して目の前の男を見詰める。
「どういうこと? ベルナール」
「先生と呼びなさい。私はモートンとは旧知の仲だ。年齢は離れていたが互いの学術的見地を尊敬していた」
「旧知……変人同士仲が良かったのね……」
「ぷっ!」
「ん、何か?」
「いえっ! なんでもないです」
急ながら横を見るとハリエッタが笑いを押し殺していた。手で口元を隠してボソボソと隣に耳打ち……はできないのでハリエッタに耳元を近づけてもらう。
「ねぇ、変人同士、仲が良かったんですって」
「んふふ、何かお似合いですね……あっ、サーガ様も仲睦まじいですもの」
「どういう意味よ! 辱めるなら許さな――」
「――うるさいぞ」
「「はい……」」
というわけで、幾つかの図鑑が机に置かれて説明を受けることになった。
「この精密なスケッチはどうだ。必ず将来の魔導回復術に役立つに違いない。どうかね? 分かるだろう」
「意味が分からないです……」
ベルナールがページを捲っているとハリエッタは泣き出しそうになっている。気味の悪いものが苦手らしい。精緻な図画は確かに価値はあるのかもしれない。
「それでも、これらにグロテスク趣味以外に役に立つことがあるとは思えません」
「ふむ……」
少し思案顔のベルナール。腕を解剖した図を開くと私の机の上に置いた。ハリエッタの机には頭の中を解剖した最も気持ち悪い図が開いてある。
「……イジメ……良くない」
「虐げているわけではない。少し実験をしよう」
「実験?」
既に気絶しそうなハリエッタを横目に少しだけ楽しそうになる私。なんでも新しいことに触れるのは幸せなことだ。
「そうだ。では生徒サーガ、右手を握り締めなさい」
「できないって」
「動かそうとしてみるんだ」
不貞腐れながら机の上の拳に力を入れる。しかし、何も起きるわけもない。
「これに何の意味が――」
「生徒ハリエッタ、右手を握り締めなさい」
ハリエッタがこちらに顔を向けた。右目が薄っすら開いているのが良く分かる。ここで大きく頷いてあげた。
「やってみて」
「はい!」
ハリエッタが右手を数回握り締めたり開けたりしてくれた。
「「……」」
「どうだ?」
「どうだって、何がよ!」
全く意味が分からない、と文句を言い始めたところで咳払いされて発言を阻止される。
「生徒ハリエッタの手は動き、生徒サーガの手は動かなかった。ここに何の違いがある?」
「えっ?」
もう一度、ハリエッタと目を見合わせる。
「生徒サーガ、お前は今、顔を横に向けた。何故、顔を横に向けることができるのだ?」
「……」
言いたいことが少しわかってきた。二人とも見かけは変わらない。私の手足は動かないだけでハリエッタのそれと見た目は変わらない。
「だって……サーガの手足は……壊れてるんでしょ?」
ハリエッタが続けてくれた。当たり前のことを改めて認識させられるのは辛い時もある。それを気にしてくれた気がした。
「……そうか……確かに手足は存在している。とすれば……何が違うっていうの……」
何かを掴めそうな気がした。刹那に気味の悪い腕の断面図の中の細い糸みたいなものが目に入った。
「糸……」
「ははは、生徒サーガは本当に優秀だ。我が友モートンは、その糸を『神気経脈』と名付けたよ」
「神気……経脈?」
ベルナールは自らの頭を指差すと、それを顔、首と通って肩、上腕、肘と指差していった。
「モートンは頭の中で『手を開け』と指示を飛ばすと、この神気経脈、略して『神経』を通って手足を動かすと考えていた」
「……」
そんなこと考えたこともない。唖然としてベルナールと自らの手と図鑑を見比べる。
「動かなくなる前、何処かを傷つけられなかったか?」
「……あっ! 肘や膝をズタズタにされた。その直後に全く動かなくなって、自らの腕の重さすら感じなくなって……」
大きく何度も頷くベルナール。
「そういうことだ。神経を切断されたが回復術では修復されず切れたままだったんだろう」
「神経……じゃあ、それを繋ぎ合わせれば!」
「恐らくな。可能性はある筈だ」
プルプル身体が震える。可能性という希望が突然現れた。嬉しさに震えている。
「ハリエッタ、喜びなさい!」
「へっ?」
何故私が喜んでいるのか分からないらしい。では説明してしんぜよう。
「貴女も回復術は効かなかったんでしょ?」
「そうよ。痛みは無くなったけど、目は見えるようにならなかったわ」
ガタッと立ち上がってハリエッタに横から抱きついた……気になっていたが床に転がっていた。
「痛た……」
「何をされてるんですか?」
床からハリエッタの顔を覗くと濁った瞳が見えた。
「そうか! ベルナール!」
「偶には先生と呼びたまえ……」
無視して転がったまま話を続けようとすると、ハリエッタが身体を起こそうと床にしゃがんでくれた。
「ハリエッタの目はどうなの? 同じで神経が原因なの?」
ピクリとハリエッタが動きを止めてベルナールの方に顔を向けた。ベルナールもハリエッタの瞳をじっと見詰める。
「恐らく……そうではないと思う」
「……そうですか」
肩を抱いてくれている少女から落胆の雰囲気を感じた。意味は分からなくても、何か希望が持てないかもしれない、ということは察知できたのだろう。申し訳なくなって慌てて言葉を続けるしかない。
「で……で、でも神経が原因――」
「――神経ではないと思うが、人の瞳の構造を学べば回復する可能性はサーガと同じ位はあると思う」
「えっ?」
ベルナールが近づいてきてしゃがみ込んだ。
「触るぞ」
ベルナールがハリエッタの顔に手を伸ばす。そのまま右目、左目と瞼を指で開けて瞳の中を観察している。
「左目は瞳の形を保てていない。しかし右目は瞳の真ん中が白く濁っているように見えるだけだ」
「……はい」
ベルナールの診察の邪魔にならないように、今は倒れたままでいることにした。
「ハリエッタ。あなた、右と左で見えなくなった原因が違うの?」
「サーガ様……はい。小さい時に高熱が数日続いたんです。その時に右目の真ん中が小さく白く濁ってしまいました。数年も経つと光を感じる位しかできなくなりました」
「そうだったんだ……って、左目は?」
「左目は……」
肩を抱くハリエッタが小さく震えたのが分かった。
「私は片目が不自由だったんで侍従として王宮で暮らし始めたんですが、すぐに貴族の若い男達に襲われたんです。その時に……幼い侍従に手を出したことがバレたくはなかったんでしょうね。私の左目をナイフで潰したんです」
「そう……なの……」
「その男達の親は行為自体を隠蔽する為に教会で回復させず、魔導で無理やり回復させました。その結果……男達の思惑通り私は両目の光を失いました」
ハリエッタの顔には苦しみと悲しみの表情が浮かんでいた。しかし、瞳の奥には怒りが見てとれた。
(だからこその
「では可能性はあるな」
「「はぁ?」」
二人で声を揃えて素っ頓狂な返事をした。
「瞳の中の構造を理解せずに魔導で回復させれば痛みは無くなっても視力は戻らない。傷を塞ぐことはできたが、瞳の機能は戻らなかった、ということだろうな」
「では、どうすれば――」
ハリエッタが熱っぽく問い掛けると、ベルナールは机の上にある気味の悪いスケッチをハリエッタの顔の前に広げた。
「――瞳の中の構造が精緻にスケッチされている。これを理解して回復に役立てるが良い。可能性はあるはずだ」
ハリエッタと顔を見合わせる。暫くすると瞳から涙が溢れてきた。両目とも光を得られなくても希望の涙を流すことはできる。これにはこちらも貰い泣きしてしまう。
「サーガ様! 私、もう一度森の木々の緑や川のせせらぎを見たいの! 手伝ってくれますか?」
「うん。私だって野原を駆け巡りたいもの! 互いに頑張りましょう!」
感涙に咽びながらひしと抱き合っているとベルナールも手を叩いて祝福してくれた。
「はいはい。しかし法律の授業を疎かにしてはならん」
それは祝福の拍手ではなく、そろそろ授業を始めるという合図だった。そんなムカつく音でも、確かに福音に聴こえた。僅かでも希望の音色が聴こえたのだ。
「ハリエッタ! 成し遂げるわよ!」
「はい、サーガ様!」
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