第31話 迎えに
黒。
灰。
黒。
泥。
黒。
歪んで、捻じれて、また歪んで、また捻じれて。
泥のような黒が、汚濁のような灰が目の前で、絵具を垂らした水面のようにぐにゃりと歪んでねじ回っている。
何もない場所だった。
自分と世界の境目がわからなくなって、溶けだしてしまそうになるような場所だった。
ただそこを揺蕩っている。
温かくもなく、寒くもなく。
上も下も左も右も不確か。
確かなものは胸元で煌めくペンダントのみのようにすら感じられて――。
「っ!?」
その紫色の結晶を目にした瞬間、溶けて消えかけていたマルテの意識が覚醒した。
「こ、ここは?」
マルテはどうして自分がこのような場所にいるのかわからなかったが、すぐに邪神ラヴェリタに道連れに取り込まれたことを思い出す。
「じゃ、じゃあ、ここは冥界?」
「残念。違うよ」
「ふぁ、ファーレ様!」
「そうだよー」
「どこにいるんですか?」
マルテは周囲を見渡すが、黒ばかり。声は聞こえるが姿が見えない。
「肉の化身は溶けて壊れちゃったからね。だから、ここには魂だけで来ているんだ」
「魂……?」
「根源みたいなものだよ。ともかく、よくやってくれたね。おかげでルブアルハリから広がった魔力汚染はどうにかできそうだよ」
「よかった……じゃあ、アウレーリアさんも大丈夫なんですか!?」
「うん、無事も無事。元気いっぱいにぶっ放してたよ」
「はぁぁ……よかったぁ」
「うんうん、でもキミはちょっとマズイかもね」
「え、まずいんですか?」
「ここは冥界ではないけれど、冥界に近しい場所だからね。ボクがどうにかこうにかせき止めてるけど、それがなくなったらすごい速さで時間が流れちゃう。それにラヴェリタのせいでここにいるだけでキミは溶けて消えそうになっちゃう」
「ど、どうすればいいですか!?」
「とりあえず、自分を強く持って。じゃないと、今、キミどろどろだから」
「わああ!?」
気が付いていなかったが、マルテの姿はドロドロに溶けかけていた。
慌てて気を張れば、どうにかこうにか自分の姿を取り戻すことに成功して安堵する。
危なかった。もしもペンダントがなかったら今頃は溶けて消えていたかもしれない。
「はあはあ、あ、あの、ここから戻るにはどうしたらいいですか?」
「うーん、どうしようもないね」
「ここまできて!?」
「冥界一歩手前とは言え、ここにきてしまったからには待つしかないのさ。迎えが来るのを」
「迎え……」
迎えなんて来るのだろうか。
アウレーリアには待っていてと言った。
そんな彼女が迎えに来てくれるとは思えない。そもそも自分のことを迎えに来てくれるような人など存在しているのだろうか。
母が生きていたならば、迎えに来てくれたかもしれないが、母は自分の手で殺してしまっている。
「これが因果応報とか、報いって奴なんですかね……」
「随分と悲観的じゃないか。肉の君」
「あたしをここまで迎えに来てくれる人なんていませんから」
「そうかもね」
「……神様なら少しは否定してくれても……」
「ボクは運命なんて司ってはいないからね。それは別の奴の領分だし。ボクは全てを作っただけだよ。おかげでここからキミを出してやることも、ラヴェリタを解放してやることもできないんだから」
「でも、主神として戦争で戦ったんじゃ?」
「ボクはほとんど座ってたり、武器を作ってたりしただけだよ。主神とか創造神だからって強いわけじゃないのさ。ボクなんてラヴェリタには一度も勝ったことないんだよ。勝ったとしたら閨の中でくらいかな」
「聞きたくないです、そんなこと。というか、そんな話をするくらいならなんとか脱出できるようなものを作ってくださいよ」
「残念ながら、それはルール違反なんだ。キミとこうやって話すのがやっとさ」
役に立たない、という言葉は寸前で飲み込んだ。
こうやって話しているだけでも頭がはっきりしてきて、その分だけ、自分という存在の輪郭がはっきりしていったように思えたからだ。
冷静に当たりを見渡しても黒と灰の空間がどこまでも続いている。
巨大な事象の地平線をただ揺蕩うのみ。
どこかへ進もうとしても手足はあまり動いてくれない。
「待つしかないんですね……」
「大丈夫大丈夫。自分さえ保っていられたならば、きっと迎えは来るよ」
「来ますかね……」
いったいつまで待ち続ければいいのだろう、
迎えが来るかも定かではないのに。
「……せめてアウレーリアさんに謝りたかったな……」
そのつぶやきは空間の歪みに消えていった――。
●
大南壁崩壊とその解決から数か月が過ぎていた。
アウレーリアは今も大南壁の上にいる。
かつては国境を隙間なく埋めていた長城も今では城門が作られ旧ルブアルハリ領への道が開けているのが彼女の視界に映っていた。
自分の設計物に手が加えられているのは、なんだかむずがゆい気がした。
それがどういう作用によって生じているものなのかは、相も変わらずアウレーリアにはわからないし頓着してはいないのだが。
もっとも今は夜で人通りはなく、ただ大きな夜天の女神ノッテの瞳光が照らすばかりだ。普段は冷たく寒々しい冬の瞳が今日は妙に優し気に感じるのは気のせいだろうか。
砂漠からの冷えた風が城壁の縁に座ったアウレーリアの髪を揺らす。
王国でもすっかりと冬の訪れが感じられる季節となっていた。
マルテはまだ帰ってこない。眺め続けても変わることはない。
「おや筆頭魔法使い殿。また来ていたのですか」
城壁の上で砂漠の向こうをアウレーリアがぼーっと見ているところにセッカがやってきた。
手にはコップが二つ。
温かい飲みもののようだった。
「あら、伯爵。あなたはずーっとここにいるわね」
「誰かさんのせいで陛下からここの指揮を任されてしまったのでね」
「あら、いったい誰のせいかのかしら」
「あなたですよ、あなた。まあいいでしょう。おかげで私の要求が宮廷で通りやすくなりましたので。……それで彼女は帰って来そうですか?」
「さあ、わからないわね」
彼は手に持っていたコップをアウレーリアへと差し出した。
中身は黒々としたコーヒーだった。
特に断る理由も思いつかなかったアウレーリアは、受け取ってコップを手で包む。
冷たい手に熱いコーヒーが温かい。飲むつもりはなかった。コーヒーは好きではない。苦いから。
隣にセッカが座ってくる。
「…………」
「…………」
はじめはどちらも口を開かずにセッカはゆっくりとコーヒーを口に含んでいた。
アウレーリアは、熱をもらうばかりで口をつけずにいた。
先に口を開いたのはセッカだった。
「……もう数か月です。彼女が帰ってくるとは思えません。まだ待つつもりですか?」
「待つって約束したからね」
「あなたがそんなに律儀とは思いませんでしたよ」
「そうね、わたしもそう思っているところよ」
「……そうですか。仕事の方は?」
「ルブアルハリの五分の一くらいかしらね。領土が広いのと砂漠なのが面倒。首都に着くまで全部浄化していくとなると数年はかかりそうよ」
アウレーリアは、ルブアルハリ領の汚染を取り除く日々を過ごしていた。
汚染の進行は止まっているが、汚染領域はそのまま残っている。
もしも何かの獣や鳥がそこに入ってしまえば汚染獣が発生してしまう。
その汚染獣が浄化した場所に足を踏み入れてしまえば、そこから汚染が広がるのだから、この汚染領域を処理するのは急務だった。
そこでアウレーリアは、どかんどかんと極大魔法を日に何度も撃って領土の浄化に努めているのだ。
それに浄化すればするほど自国の領土になるのだから、事態に気が付いた旧ルブアルハリ隣国が領土を拡大に動く前になるべく多くの場所を浄化して確保したいのである。
王国筆頭魔法使いであるアウレーリアの最優先の仕事だ。
だから迎えに行くにも順調に行ってあと数年はかかると見ているし、ここで待つほかない。
「そうですか。では、今から行ってください」
「もう夜じゃない」
「良いから行けと言っているんですよ。今の時間ならあなたが一人で何をやろうが見ていません」
「わからないわね。何が言いたいの?」
「なんでそこは察しが悪いんですか。良いからあの子を迎えに行ってこいと言っているんですよ。別にあなたの為ではありません。汚染領域の中で何が起きたのか、報告は聞いておきたいのでね」
「……ふぅん? 良いわ。迎えに行けというのなら行ってあげる」
そう不満そうな口調で言うくせに、アウレーリアの口角は上がっていた。
セッカはやれやれと溜め息を吐く。そのことに気が付いていないのはアウレーリア自身だけだ。
「じゃあ、行ってくるわ」
女神の黒髪が輝く空へとアウレーリアは飛び立った。
「まったく、手間がかかる。用意したのに飲んでいかないですし」
セッカもまた口元に笑みが浮かんでいた。
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