第3話 救い

 そこには女神のように美しい女性ひとがいた。

 どこからともなく現れてタルタルーガの炎の息吹を防いだ。

 ドラゴンの息吹はあらゆる魔法障壁を破壊すると言われているのに、指先一つで防いでみせた。


 マルテは茫然とその女性を見上げるしかなかった。

 タルタルーガの息吹による火の粉が散り、可視化されるほどに高密度の魔力障壁の破片がきらきらと輝く中でひと際美しい光を放っている。


 マルテの痛んだ黒髪とはまるで違う絹糸のような美しい銀髪は、束ねて売れば一財産稼げてしまうのではないかと思うほどで恐れ多さすら感じる。

 紫水晶の瞳など本当は瞳ではなくて宝石が嵌っていると錯覚したほどで、それがマルテを覗き込んできたものだから、魂が抜かれたように放心してしまう。

 まるで物語の中のとてもすごい魔法使いのような美しい人に見惚れてしまう。


「あらあら、大変なことになってるじゃない。大丈夫?」

「ぁ…………」


 時間が止まったかのように、水の中にでも突っ込まれたかのように、マルテは突然息ができなうなる。

 背中に受けた傷の痛みもどこかに吹き飛んで、食い入るように吸い込まれるような紫にからめとられて離れられない。


「んー? あなた――」


 魔女はそんな彼女の何かに気が付いたようにじいっと、彼女の金緑石のような瞳を覗き込む。

 次第に傷を負った背中の方へと視線が動こうとして、その背後でタルタルーガが再び息吹を放とうとしていることにマルテは気が付いた。


「ぁ、ぁああ、う、うし、後ろ!」

「ああ、そうだった」


 魔女はまるで今の今までタルタルーガの存在を忘れていたかのように、視線を向ける。

 タルタルーガは既に息吹を放つ体勢。


「に、にげ」

「逃げる? このわたしが? アウレーリア・アルキミスタにはそんな必要はないのよ。だって、天才だもの。わたしの前には誰もいないわ」


 指先を砲身のようにタルタルーガへと向ける。

 浪々と子守歌でも歌うような風情で詠唱が口ずさまれる。


「『光の精霊』『光輝の柱』『姿なく目によって撃つ』『其は打ち倒すもの』『我が指先にて示せ』――光魔法【ソルレイ】」


 アウレーリアの指先に魔法陣が生じ――刹那、閃光がタルタルーガを貫いた。

 あらゆる魔法を弾くと言われている竜鱗がなんら意味をなさず、正面から貫通されていた。

 魔力根源が破壊されたタルタルーガは、断末魔すら上げずに倒れ伏した。


「一撃、で……」

「魔力強度七の最下級ドラゴンなんて余裕よ。そんなことより――ん?」


 ふわりと、背後に気配が舞い降りたような気がした。

 振り返ったそこに黒いものがいた。


 黒い異形。

 かろうじて人の形をしているように見えるが、腕と脚は極限まで細く薄く伸ばして節くれだった細枝のような状態のくせに、その先端についている手と足は不釣り合いに大きい。

 頭には子供が石畳に落書きして書いたような白い模様で顔らしき何かが描かれているだけの球形の何かが乗っているのみだった。


 ドラゴンほどの威圧感はないが、こちらの方が遥かに危険であるとマルテの本能が叫ぶ。

 アウレーリアの方は心底面倒くさそうに眼を細めた。


「なるほど『空湖チエロラーゴからドラゴンが落ちる』ってこの辺のことわざにあるくらいにありえないことなのに、落ちて来た理由はこれということね。あれ? 意味違ったっけ」

「あ、あれは……?!」

「汚染獣ね。人型っぽい感じだと元は人かもね、わからないけど」


 汚染されてしまえば原形はほとんどとどめないのだ。どんな形になるかも不明な不定形の怪物。

 存在そのものが世界を汚染する最悪の獣だ。

 触れたもの、傷つけたものすべての魔力を汚染するため、例え最上位のドラゴンですら汚染獣に挑もうとするものはいない。


 それは汚染獣がドラゴンよりも強いからというわけではない。

 ただ魔力を汚染する性質がこの世界の全ての生命にとって致命的なのだ。


「あ、あっちの方に逃げて」


 マルテは抱えていた子供を逃がすと、アウレーリアの傍にやってくる。


「ど、どうにかできる、んですか?」

「できなくてもするのよ、わたしは天才だから。ここら一帯ごと吹き飛ばすわ。この汚染規模だと街区一個潰さないとかしら」

「そんなに……」

「躊躇ってる余裕はないの、躊躇えばそれだけ汚染が広がるわ」


 二人が見ている前で汚染獣は暴れて汚染を広げている。

 躊躇えば躊躇うほどディアマンテの街は人が住めない場所になる。

 汚染を取り除いても、復興まで大きな時間がかかるようになる。


「クレタのようにはさせないわ。だってわたしは天才だもの」


 ふわりと飛行魔法を使いアウレーリアは宙へと浮かび上がる。


「さっさと済ませましょう」


 魔法の中でも特に威力があるとアウレーリア自身が分類した、汚染を確実に消し飛ばすことができる魔法――極大魔法を行使すべく魔力を高めていく。

 また汚染獣が動き回らないように、魔法陣を数十も同時展開して魔法攻撃を行うことで牽制することも忘れない。


「あなたを動き回らせるわけないでしょう?」


 縦横無尽に動き回ろうとする汚染獣をその場に釘付けにする。

 さながらそれは光の洪水が四方から汚染獣に殺到しているかのようであった。

 それでも汚染獣が立っているだけで、地面から汚染が広がっていく。


「ひっ、ひぃ、汚染獣!? な、なんでこんなところに!?」


 その最中、アウレーリアはタルタルーガから隠れていた住人が様子を見に出て来てしまったことに気が付いた。

 汚染獣を中心に広がる漆黒の汚染領域の中にある、飛び地のように汚染の進行が遅い地点に取り残されてしまっている。


「……手が足りないわね」


 片手で用意している極大魔法と汚染獣を動かないようにその場にとどめる数十の魔法を同時並列で行使している。

 魔法も汚染獣に触れられれば汚染されてしまうから、レベルの低い魔法は意味をなさない。


 同時に展開している数十の魔法は全て高レベルの魔法だ。

 それらの制御はアウレーリアをしても、一瞬でも他に気を回せば汚染獣は自由になるほどに難しい。

 そして、彼が自由になるということは、このディアマンテがクレタの二の舞になることを意味している。


「ここに天才のわたしがいるのに、そんなことさせるわけないでしょう。仕方のない犠牲。必要な犠牲よ。街を守るための――」


 だから、アウレーリアは動けない。


「――助けないと!」

「なっ!?」


 動いたのはマルテだった。

 汚染の中へと躊躇いなく、彼女は踏み込んだ。

 なんと馬鹿なのだろう。汚染領域に踏み込めば、触れた箇所から汚染が全身に回り汚染獣と化す。


「汚染されない?」


 だが、マルテは走っていた。

 汚染など受けていないように。


 マルテの故郷は魔力汚染で滅んでいる。彼女だけが一人生き延びてしまった。

 

 役立たずな自分が一人のうのうと生き延びてしまったのだから、そのに人を助けなければならない。


 ただ無我夢中でマルテは走った。

 泥のような漆黒の汚染領域の中を苦も無く、その褐色の身体には一切の漆黒を走らせることもなく彼女は助けを求める人の下へと走っていた。


 そのことに疑問はない。それはもう一度、体験している。

 あの時はできなかった。

 あの時は子供で、力がなかった。

 今も力はないけれど身体は大きくなった。


 だから、できるはずだ。できてくれと祈るようにマルテはただ前へと走った。

 マルテはついに辿り着く。助けを求めていた住人を抱えて汚染領域を飛び越える。


「お、お願いします!」

「…………」


 人が汚染領域に踏み込んで人を救った。

 それはアウレーリアにいつか来る未来を見せるには十分な可能性だった。


「……ふっ」


 アウレーリアは笑った、久しぶりに素晴らしいものを見たから。

 退屈な辺境生活だと思っていたけれど退屈しなさそう、と笑みを作って魔法を発動させた。


「極大雷魔法【ケラウノス・ブロンテース】」


 汚染領域へと雷鳴とともに白雷が落ちる。

 空湖をぶち破って雷光の柱が街区一つを消滅させ灰の山を作る。


 そうして生じた穴から天空神の双眸がはっきりと二人を見つめた。

 ばちりと雷が帯電する中、アウレーリアは極大魔法を見て腰を抜かしているマルテの前へと降り立つ。


「さてと、ねえ、あなた。ずっと気になっていたのだけれど、背中から流れているのはなに? 魔力じゃないわよね」

「え、あ、こ、こここれはっ!」

「赤い液体が傷から流れだすなんて、どんな症状? 体質? 新しい病なら興味深いわ。わからないから少し調べさせて?」

「え、えとえと、あ、あえ? あ、れ、ぁ……――」

「あ、ちょっと」


 マルテはアウレーリアの問いに答える前に怪我のせいで限界を迎えて倒れた。

 ふわりと薬品と花の混じったような香りと柔らかな温かさに包まれたのを最後に彼女の意識は、闇へと沈んでいった。

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