標なきレゾナンス
こうの小春
第一声 婚約の打診
「え? 兄さん、離婚するんですか?」
「しませんよ!? お前のだよ、お前の!! 我が弟よ!! 王家から打診が来たんだ、グレーム。お前と第一王女殿下の婚約だ」
グレーム・ラッセル・ハワードは、思わず間抜けな顔で兄を見上げていた。
デスクに広がるのは、最近ようやく隣国から入手できた文献の数々。古びた羊皮紙や、異国の言葉で綴られた書物が乱雑に積み重ねられ、独特のインクと古い紙の匂いが部屋を満たしていた。
装飾が美しいテーブルランプの下、すっかり夕食も忘れて書物を読み漁っていたのだが、突如部屋に入室してきた兄、アーネストが発した一言に、それまで覚えた文章の半分も抜け落ちていきそうだった。
「何かの間違いじゃ? ウチは下級貴族も良いところの、男爵家だぞ?」
「騙された、と思うのは無理もない。だが、相手が第一王女殿下であれば?」
「……それって」
「そうだ。あの問題を抱えた第一王女殿下と、婚約関係を結んでほしいらしい」
最近主流になった万年筆を利き手に持ち、呆然と硬直するグレームにアーネストは頷く。
兄は椅子から古書を避け、デスクを挟んだ向こう側へ引き寄せると、そのまま腰を下ろして足を組んだ。
亡くなった父母に代わり、二十代という若さで長男が爵位を継いだ、ラッセル男爵家。
若き当主という珍しさはあるものの、その弟に王家から婚約の打診が来るなど、天地がひっくり返るほどあり得ない展開だ。
ハワード兄弟が暮らすこのクエイル王国には、国王夫妻の間に二人の娘がいる。
しかし姉姫である第一王女、ジョルジャ・クエイルは、とある不可思議な問題を抱えていることで有名だった。
前王妃の娘である彼女は、現王妃や妹姫に比べ、容姿こそ平凡であるが
誇張表現だろうが、ダンスパーティで言葉を交わした紳士が、その場で求婚するほどだったという噂もある。
グレームも三年前行われたデビュタントで、彼女の美しい声は聞いたことがあった。今もなお、その時の衝撃は覚えている。
夜空に浮かぶ月のように静謐でありながら、相手に向けて真っ直ぐに飛んでくる。けれども決して傷つけることなく、春の日差しに似た心地よさを与える声だった。
しかしジョルジャは、大勢の人間が一斉に話している場所であれば声を発するが、それ以外は決して何も喋らない。
おかげで何人もの爵位ある令息と、婚約しては破談を繰り返しているのである。
「……俺に打診があったということは、第一王女殿下は、【魔法使いの呪い】を受けている可能性がある、ということ、か」
「王家は認めてないがな」
フレームの細いメガネを外し、加工ガラスを拭いたアーネストは、そのまま肩を竦める。
兄は再びメガネをかけ直せば、足を組み替えてグレームに視線を戻した。
「王家が【魔法使いの呪い】の存在を認めれば、魔法使いの存在を肯定することになる。まぁ残念ながらおそらく、魔法使いという種族はもう、この世には居ないと思うが」
「それは俺も、思うよ。……どれほど文献を読んでも、あまりに違いすぎるから」
魔法使いが滅んで数世紀。今や魔法使いが居た痕跡は、書物の中だけだ。
魔法使いと覇権を争い、勝利したとされる各国の王家。今現在どの国でも、魔法使いが未だ在ると認める発言は、タブー視されている。グレームが集めている魔法に関する文献も、扱い方を間違えれば処罰の対象だった。
だが、魔法など存在しないとする世の中で、どうしても解明されない、証明できない奇妙な症状を発症する人間が、時折現れる。
例えばジョルジャのような、場所によって声が出なくなること。例えば鳥のように、自在に空が飛べること。例えば海水に潜り、何時間も苦しみなく沈んでいられることなど、症状は様々ある。
人々は彼らを恐れ、また彼らも自らの症状を恐れ、いつしかそれは【魔法使いの呪い】と呼ばれるようになった。
「王家がグレームに打診したのは、婚約という隠れ蓑にした、呪いの解除だ」
緩やかに口角を上げるアーネストに対し、グレームは僅かに眉を下げる。
十七歳を迎えたグレームは、魔法使いを研究する機関の研究員だ。
世界各国に支部を置く研究機関には、数多の研究員が所属し、日夜魔法の研究に勤しんでいる。
一見、王族の反感を買いそうな立場であるが、研究機関の目的は、魔法を再び使用することではない。魔法という考古学にロマンを見出し、生活に活かせる知恵を学ぶことだった。
魔法使いとはどんな存在で、どのような魔法を使っていたのか。暮らしや文化、衣食住。魔法という強大な力を持ってして、なぜ滅んだのか。
その学問を通じて国が豊かに繁栄するならと、研究機関は王族から目をこぼされている存在だった。
「この間、研究機関が発行している雑誌に寄稿しただろう? それが王家の目に留まったらしい」
「ちょうど【魔法使いの呪い】について、所見を載せたやつか。でも、俺以外にだって何人か寄稿していただろう……」
「お前以外に、十代で主任研究員なんて聞いたことがない。それに、古語の翻訳も得意だろう? 去年の石碑の論文は、魔法使いたちが用いた古語の解読に、大きく貢献したそうじゃないか」
昨日書き始めた論文の用紙を、指先で摘んでは離すアーネスト。グレームが片手を払って用紙を両手で引き寄せれば、兄はニヤリと悪い顔で笑みを浮かべる。
室内を照らすテーブルランプの灯りが、余計に悪らしい人相を際立たせていた。
似通った顔貌に、同じ黒髪に紫の瞳を持っていながら、吊り眉か下り眉かで随分と印象が違うものだと、亡き母によく言われたものである。
グレームは息をつくと、兄を軽く睨め付けた。
「……俺が断らないの分かってて、嫌な話を持ってくるなぁ」
「はっはっは! よく分かっているじゃないか、弟よ。そうだよ、お前には我が男爵家と王家を繋ぐ、それはそれは太い柱になってもらわねば」
そう言う兄の顔は、やはり不敵な笑みを浮かべたままだ。
「人柱ってか。人でなしの兄さんには無理だから?」
「なんだとこの野郎」
文句を垂れる兄はそれとして、グレームにとっても悪い話ではなかった。
相手は王国の第一王女。下級貴族からすれば天上人である。爵位が違いすぎるため王家としても、ジョルジャ王女の呪いが解ければ、さっさと理由をつけて婚約を解消できる。グレームも【魔法使いの呪い】の実例を間近で観察し、研究の糧にできる。解除が成功すればアーネストは王家に恩を売れ、男爵家は手堅い後ろ盾も手に入れられるわけだ。
ここまで上手くいくとは思っていないが、挑戦する価値はあるだろう。
グレームは部屋を囲むように並べられた書棚に、そっと視線を移す。書棚へ所狭しと並ぶ本は、グレームに魔法使いの世界を教えた祖父が、各国から掻き集めた論文や文献たちだ。
幼いころから虜である魔法に、手が触れられるかもしれない。
無意識に輝く弟の双眸に、兄は表情を崩して微笑んだ。
◆ ◆ ◆
アーネストが嬉々として準備した、ジョルジャとの顔合わせは、王城の広間で行われることとなった。
グレームは新調したウェストコートと、青いクラバットを合わせた礼装に身を包み、アーネストの隣で広間を見渡す。
整備された配管の中、天井から下がるガスシャンデリア。テーブルには見て楽しむほど美しい料理が並び、嫌味のない高級ワインの香りが漂っていた。
その中を高位貴族たちが、穏やかに談笑している様を見ると、何やら場違いを思い知らされて眉を顰める。
大勢の中でしか話せないジョルジャを慮ってのことだが、婚約関係を結ぶ大事な話し合いに、日中から立食パーティとは気が重かった。
「おいでなすったぞ、我が弟よ」
テーブルを彩る食事に舌鼓を打つより、早く文献の続きが読みたいと考えていれば、アーネストから軽く脇腹を小突かれ、顔を上げる。
王族の到着を告げる衛兵の声が響き、集まった皆が一斉に頭を下げた。
「……」
グレームは双眸を細め、広間に入ってきた王族を視線で追いかける。
国王夫妻に続き一人で入場してきた少女が、第一王女ジョルジャだろう。彼女は赤が混じった金髪に白い花飾りをし、伸ばした背筋で臆することなく歩いてくる。目尻が吊り上がったやや小さな瞳が、彼女の利発さを表しているようだった。
彼女はサッと広間を見渡し、グレームの方を一瞥すると、僅かに眉を寄せたようである。
しかし彼女の少し後、腕を組んで入ってきた二人組に意識を取られ、グレームは目を見開いた。
王妃に似て豊かなプラチナブロンドに、柔らかな輝きを帯びたサファイアの瞳。まるでお伽話の姫君さながら、誰もが振り返る美貌の少女だ。
フランチェスカ・クエイル。国王夫妻の愛情を一心に受けていると噂の、第二王女である。
「……第二王女殿下は、まだ成人前だよな? どうして社交場に?」
「国王夫妻の意向らしい。あの美貌だ。娘可愛さに見せびらかしたいんだろう」
平伏しつつもアーネストに耳打ちすれば、兄もどこか辟易した様子で肩をすくめた。
アーネスト曰く、フランチェスカをエスコートするのは、公爵家子息であるという。ほんのり頬を染め、愛らしい姫君を見つめる男は、以前、ジョルジャの婚約者だった男である。
「…………節操のない」
「公爵家は王家と繋がりが深い。姉がダメなら妹に。そう考えるのは普通のことだ。おかげで我が家は飛躍の機会を得た」
相変わらず企んだ笑みのアーネストを尻目に、グレームは内心溜め息を吐き出した。
下級貴族である男爵家が、王族に挨拶できるのは、全ての貴族が挨拶を終えた後だ。いくら第一王女と婚約の打診があったとはいえ、根本的には変わらない。
慣れない空間に疲れが出始めたころ、やっと順番が回ってきて、グレームは礼服の襟を軽く正した。
「ラッセル男爵アーネスト・ラッセル・ハワード。ただいま国王陛下の御前に参上いたしました。本日は我が男爵家のために、このような場を設けてくださいますことを、心より御礼申し上げます。こちらが弟のグレームにございます」
「グレーム・ラッセル・ハワードと申します」
兄弟揃って挨拶をすれば、ふくよかな体型の国王が、人の良い笑みで片手を上げる。
「ああラッセル男爵。よくきてくれた。この度は快い返事をもらえて嬉しいぞ。娘を紹介しよう。ジョルジャ!」
父王に呼ばれ、すぐ後ろに控えていたジョルジャが、一歩踏み出した。
花柄を裾にあしらい、たおやかな曲線が美しいドレスの裾を、丁寧な所作で持ち上げる。
「ご紹介に預かりました。ジョルジャと申します」
「……っ!」
その声に、グレームはハッとした。
周囲の談笑など意にも返さない、強く痺れるような声だ。こちらの存在を認識し、まるで世界に二人しかいないような錯覚が、心音を高鳴らせる。鼓動が早くなるのを感じ、息を呑んだ。
しかしアーネストに再び脇腹を小突かれ、我に返り慌てて片手を胸に当てる。
「も、申し訳ございません殿下。ラッセル男爵の次男、グレーム・ラッセル・ハワードと申します」
「お噂は聞いてます、ハワードさま。魔法を研究する機関の、主任をされているとか」
「はい。とはいえ、人数が少ない支部ですので……」
「それでも、わたくしと変わらないご年齢で、組織の長をしていて素晴らしいわ。今回の件、尽力くださること、とても嬉しく思います。どうぞよろしくお願いします」
聴き惚れる、とはよく言ったものだ。耳に心地よく響く声は、いつまでも聞いていたくなる。
この場だけを見れば、ジョルジャが【魔法使いの呪い】を発症しているなど、嘘のような美声だった。
けれどもジョルジャの表情は、言葉を交わしながらも、どこか疲弊したままだ。心なしか顔色も悪く、化粧で隠しているが、目蓋を縁取る隈も見受けられる。
意気揚々と娘を紹介する国王夫妻に反し、時折俯き、胸を押さえる仕草も気に掛かった。
「…………もしかして、お体の具合が」
「父さま。
グレームがジョルジャに声をかけようとした時、横からフランチェスカが割って入る。
見た目相応の、少女らしい可愛い声だ。けれどもグレームは、どこか作り物のような違和感を覚えて、微笑むフランチェスカの相貌を一瞥する。
心配そうにジョルジャの顔色を窺う姿は、傍目に仲の良い姉妹を思わせる。けれどもその瞳には、気遣いと共に、ほんの僅かに、それでいて見逃せないほどの、優越感が混ざっているようにも見えた。
しかし彼女がそれ以上言葉を発することはなく、目礼して義姉姫を一瞥してから、公爵家子息の横へ戻っていく。
「うん? ああ、そうだな。お前はよく気が効くなぁフランチェスカ。ラッセル男爵と弟君よ、ついてきたまえ。客室へ案内させよう」
広間に王妃と第二王女を残し、国王が衛兵の先導で歩き出す。
緊張した面持ちでグレームがジョルジャに一礼すれば、彼女は目を瞬かせた。
「殿下、……よろしければ、エスコートを」
「…………ありがとうございます」
慣れないまま片腕を差し出すグレームに、彼女は一度、その腕と顔を交互に見比べる。ややあって微かに口元を緩め、手袋をはめた指先をそっと絡ませた。
◇ ◇ ◇
移動した先の静かな客室には、壁に他国から取り寄せたらしい、絵画が飾られている。部屋の窓からは中庭が見え、季節の花々が揺れていた。
狭い空間に入り気持ちも安心したのか、グレームはほっと息を吐き出す。
ジョルジャが組んでいた腕を放し、口元を動かした時、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「…………殿下?」
そのまま何も言わないジョルジャに、グレームは訝しげに視線を向ける。
けれども彼女の唇は戦慄くばかりで、何も音になっていない。
否、違う。
それはまるで、ジョルジャが発する声を聞くことを、グレームの聴覚が拒否しているかのように。何層もの空気が、二人の間を邪魔をするように。音は歪み輪郭を失って、意識する前に雑音として消えていく。
彼女は先よりも青白い顔のまま、両手で自らの喉を押さえ、落胆した表情を見せた。
血色の悪い唇が動き、呟いた言葉は、音になるのにグレームに届かない。
──聞こえないのね。
脳内に好奇心を昂らせる電流が走った。どういう原理か説明もつかない状況に、グレームの口角は微かに上がってしまう。
【魔法使いの呪い】。
物事の理を逸脱し、常識を捻じ曲げる不可思議な事象。
実際に間近で観察できる機会など、そうある訳ではない。痛いほど心臓が喚き出した。幼い頃からの夢として、研究者として、興奮が抑えられなかった。
ジョルジャが話せない訳ではなく、これはむしろ、こちらの耳が──。
「俺が殿下の声を、聞き取れて、ない?」
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