冴えない建築家いずれ巨匠へと至る
木工槍鉋
第1章
第1話 窮屈な日常
東京の片隅、雑多な街並みに埋もれるように立つ小さな建築事務所で、安藤研吾は一人机に向かっていた。40代半ば。大学卒業後、アトリエ系の建築設計事務所に就職し、2級建築士までは取得したが、連日の終電帰りの中で一級建築士の勉強時間が取れなかった。
「これでは何も変わらない」と一念発起し独立。自分の事務所を開設したものの、自分で仕事を取りに行く生活が始まり、結局勉強の時間が取れずに2級建築士のままだった。
独立当初はまだ希望があった。大学時代の知人や恩師の紹介で、いくつかの設計案件を手がけることができた。「自分の名前で設計した建物」を完成させる達成感は、何にも代えがたいものだった。お施主さんから直接感謝の言葉をもらうことも多く、自分なりに試行錯誤した空間構成が人々に喜ばれることが嬉しかった。
「安藤さんのデザイン、やっぱり素敵ですね」
その一言で徹夜続きの疲れも吹き飛んだ。設計中には、楽しい空間とは何かを考える時間を惜しまなかった。自然光を効果的に取り入れたり、居住者がくつろぎを感じられる導線を工夫したり、自分らしい意匠性を追求していた。
しかし、その希望も長くは続かなかった。紹介だけで仕事が続くほど甘い世界ではない。知人の縁も途切れ、気づけばハウスメーカーの下請けに頼る日々へと変わっていた。
「またサイディングの外壁か……。」
定型化した図面を描きながら、研吾は深い溜息をついた。
下請けの仕事は効率性とコスト重視が支配する世界だった。気密性や断熱性を売りにした真四角の建物に、小さな窓をいくつか並べただけの箱のような住宅が求められる。そこにあるのは数字や機能だけで、空間への工夫も情緒もない。
真四角な建物、サイディングの外壁、小さな窓。それらの図面を描くたびに、大学時代の情熱が遠い過去のものに思えた。
大学時代、研吾は建築に夢を抱いていた。「安藤」と「研吾」という有名建築家二人の名を彷彿とさせる名前から、友人たちからは「巨匠」と呼ばれていた。
「巨匠」としての自負もあり、意匠性の高いデザインを追求した作品を発表し続けてきた。学部内でもそれなりに評価され、「自分は上位にいる」と思える手応えもあった。そんな自信が、「夢を追うなら」とアトリエ系の建築事務所への道を選ばせたのだ。
その頃、彼を導いた恩師がいた。大学時代に建築意匠の講義を担当していた佐橋教授である。佐橋は学生に対して厳しい一方で、その情熱には本物があった。授業中に語られる建築への哲学や、細部にこだわる姿勢は、研吾をはじめ多くの学生に影響を与えた。
「安藤、お前の図面は光の取り入れ方が独特だな。もっと素材の特徴を活かしてみろ。」
佐橋の言葉は今でも心に残っている。
しかし今、真四角の建物ばかりを設計する自分にその頃の面影はない。
「建築って、こんなもんだったのか……。」
独立すれば変われると思った。それでも、独立してもなお変われなかった自分に研吾は深く溜息をついた。
過去への問いかけ
ある日、研吾はふと大学時代のスケッチブックを引っ張り出してきた。ページをめくると、そこには自由な発想で描かれた建物の数々があった。
「こんな建物があったら楽しいだろうな。」
そう思いながら描いたデザインの数々。しかし、そのどれもが現実の仕事では活かされていない。
「昔の俺は、もっと夢を見ていたのにな……。」
スケッチブックを閉じた瞬間、佐橋教授の顔が脳裏に浮かんだ。教授は厳しいながらも学生を信じ、彼らの可能性を広げようとしていた。
「佐橋先生なら、今の俺をどう思うんだろう。」
その問いは、研吾の胸に小さな灯火をともした。
ある晩、研吾は久々に恩師である佐橋教授に手紙を書くことを決心した。手紙には、自分の現状や悩み、過去の感謝を正直に綴った。
「佐橋先生、僕はあの頃の自分を取り戻せるのでしょうか。」
手紙を出して数週間後、佐橋から返事が届いた。その手紙にはこう書かれていた。
「安藤、建築にゴールはない。今のお前も、当時のお前も同じ『安藤研吾』だ。ただ、どんな建築を作りたいのか、その答えはお前の中にある。本当の巨匠になって自慢させてくれ。」
佐橋の言葉に、研吾は深く考えさせられた。
手紙の最後に「ここに行ってみろ俺の世界が変わったところだ。」
そして座標のような数字が並んでいた。
登場人物
安藤研吾:主人公。40代半ば。2級建築士。
佐橋教授:研吾の大学時代の恩師。
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