第29話「夜の兆しと揺れる決断」
あの“うめき声”が扉の向こうで一瞬動きを見せたのち、結局、音は途絶えた。
バリケードを少しだけ開けて目視した結果、そこに横たわっていた男らしき存在は、不自然に身体を動かし、明らかに人の意思を感じさせない仕草をしていた。
俺たちは危険と判断し、扉を再び固めて一切の交渉を断念する。もしかすると本当に人間の生存者だったのかもしれないが、“変異”しかけた異形の可能性のほうが高い——そしてなにより、今の拠点の状況では、下手に扉を開放すれば取り返しのつかない事態となるリスクが高すぎた。
「……これで良かったんだよな、ハジメ」
北村が苦い表情で言う。彼はバリケードを施錠する作業を主導してくれた。
確かに気味が悪いし、後味も悪いが、仲間の安全を優先するなら、どうしようもない判断だ。
「ああ。迷いはあるけど……万が一、あれが本当に異形化した人なら、どうしようもなかった」
俺はうつむいたまま答える。苦渋の表情を浮かべる藤崎やリナが、言葉を飲み込むようにして黙り込んでいる。
「仕方ねぇさ……もしあいつを中に入れて、4階の異形みたいに暴走されたら、俺たち全滅だろ」
橘が低く呟き、鉄パイプを壁に立てかける。彼も守るための冷静な意見を述べてはいるが、その声にはやるせなさが混じっていた。
「でも……やっぱり、“人が化け物になる”って現象、これからも増えるのかな……」
リナが両手を胸元で握りしめ、俯きがちに言う。
彼女はもともと他者を救いたい想いが強く、さっきの場面でも最後まで救出の可能性を模索していたが、最終的に扉を開けるわけにはいかなかった。
「分からん。でも、4階のあれや、今の扉の前のヤツを見れば、“人間→異形”のルートはあると考えるのが自然だろうな」
柿沼が肩をすくめる。足の負傷を庇いつつも、戦線に復帰しようという意思はあるらしい。
いつの間にか、ビル地下の空気がさらに冷たく感じ始める。完全停電の中、昼と夜の区別は曖昧だが、俺たちは時計を頼りに概ね夜へと入ったと把握している。
「となると、今夜はもう外に出るのはやめよう。モンスターが活性化するリスクも高いし……」
俺は見張りスケジュールのメモを確認する。
「夜間は二人一組でローテーション——橘と藤崎、北村と小野田、リナと柿沼、とかで回そう」
「了解。俺の足もそこそこ動くから、交代くらいならいける」
柿沼が頷く。足をまだ引きずってはいるが、簡単な見張りなら務まるだろう。
ヒロキは負傷者のケアを続けていたが、小休止すると言って近寄ってくる。「ハジメ、声が途絶えたとはいえ、油断するなよ。今夜は特に静かに見えるけど、そういうときこそ危ないからな……」
「ああ。ありがとう。ヒロキもムリしすぎるなよ。回復術のMPは有限なんだから……」
そう返すと、ヒロキは苦笑いして「分かってる。休み休みやる」と手を振った。
見張りの準備が整うと、リナや柿沼らがローテーションの初回を引き受け、廊下へ向かう。俺は警備室跡で簡易ベッドを探し、しばし休憩を取ることにした。
先ほどの動揺で頭が疲れすぎている。
(もし本当にあの声が人の最後の訴えだったら……俺たちは見殺しにしたことになる。でも、助けに行ってこっちがやられたら、もっと多くの仲間が危険に晒される……)
そんな思考が堂々巡りしている。
ユニークスキルを使ったとしても、常に仲間を守れる保証はないし、仲間全員が生き残るには、やむを得ずドライな選択をする場面もあるのかもしれない。
「……はぁ……」
深いため息が漏れる。何かしないと、このまま気持ちが沈んでしまいそうだ。そっと体を横たえて目を閉じるが、脳が休まる気配はなかった。
「ハジメ、ちょっといいか」
足音を立てずに近づいてきたのは、橘だ。中年風サラリーマンの落ち着きある態度で、俺の隣に腰を下ろす。
「……うん、どうしたんだ」
「お前も相当悩んでるみたいだな。分かるよ。俺たちは慈善団体じゃないが、人間として見捨てるって行為には抵抗がある」
橘は淡々と言葉を継ぐ。
「でも、今回の判断は間違ってない。誰かを助けるのは大事だが、全滅しちまったら意味がない。いまの俺たちは、あれが罠だったら確実にやられてたぞ」
「ああ……そうだな」
俺は視線を落とす。分かってはいても、割り切れない気持ちが渦巻く。
「ハジメがリーダーとして踏ん張ってくれなきゃ、拠点はバラバラになる。お前自身の心を守るためにも、たまには弱音を吐いたっていいんだぞ」
橘は優しい口調で言いながら、警備室の床を軽く叩いて立ち上がる。「ま、俺は見張り交代までもう少し寝るわ。お前も眠ろよ」
「……ありがとう」
俺は橘の背中を見送る。意外と気遣いのある男だと思いつつ、仲間っていいな、と実感する瞬間だった。
夜はさらに深まり、ビル地下はランタンと懐中電灯の小さな光だけが頼り。
見張り組と交代組がこまめに行き来するが、大きな騒ぎは起きていない。ただ、扉の向こうの“声”は完全に途絶えたらしい。
「……死んだか、それとも異形化して去ったか。何にせよ、もう近づいてこないといいが……」
北村が呟き、柿沼が「足音も全然聞こえない」と補足している。いまは不気味なほど静かだ。
(これで今夜は何とか越せそうだが……)
五日目も終盤。明日は6日目に突入する。チュートリアル期限まで、あと二日ほどしかない。
既に人型の異形が跋扈し始め、“進化”しているモンスターの存在が明確化している。もし六日目、七日目にさらなる強敵が現れれば、俺たちの拠点がもつかどうか……。
「ハジメ、ちょっと話いい?」
声のほうを見ると、リナがこちらに来ていた。見張り交代を終えたのか、少しホッとした顔をしている。
「どうした? 怪我とかは大丈夫か」
「うん……ただ、さっき北村たちと話してたんだけど、明日の昼には4階を再探索するか、あるいは地上の安全確認に出るか議論が必要だと思うの」
確かにそうだ。
- 4階は奥まで制圧しきれていない。あの大型異形の仲間がいるかもしれない。
- 地上も放置すれば、別の強力な敵が近づいてきても気づかない。
- そして拠点が崩壊してしまえば、もう生き延びる場所はない……。
「分かった。明日、全員の体調を見ながら朝イチに作戦会議しよう」
リナは「うん」と短く答え、少し寂しげな笑みを浮かべた。
「……ごめんね、あの人を助けられなかったのずっと悩んでて。私、もうちょっと勇気を出すべきだったのかな……って」
「いや、リナは十分頑張ってる。俺たちだって勇気出して外へ行って、もしモンスター化してたら取り返しつかないし……」
俺は言いかけて、言葉を切る。結局、答えは出ない。リナも悲しそうに肩を落としたまま、ゆっくりと一礼して去っていった。
こうして、俺たちは何とか五日目の夜を迎える準備を終えた。大規模な襲撃やうめき声の再来は、いまのところない。
警備室の一隅で俺はマットに横になり、次々と瞼が重くなる仲間たちと同じように休息をとる。
(明日こそ、万全の体制で……4階や地上をどうするか動かないと。異形に侵される前に、やれることをやるんだ)
ユニークスキルの痛みに耐えながら、仲間たちの安否を願う。
俺はゆっくりと目を閉じる。
これが、チュートリアル5日目の夜。次に目覚めれば6日目。
期限まで残りわずか二日。もはや迷っている余裕はないのだ。人型の異形、変異の謎、そして拠点を守るための布石——全てを全力で乗り越えなければならない……。
——夜の静寂に包まれたビル地下で、いびつな眠りが始まる。
だが、このあと静寂がいつまで続くかは、誰にも分からなかった。
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