ひと夏の逃避行

暦海

第1話 ひと夏の逃避行

「…………はぁ、死にたい」



 ある平日の昼下がり。

 アーチ橋の上で、快晴の空に何とも似つかわしくない暗鬱とした呟きを洩らす僕。視界には、僕の心とは対照的に陽光ひかりを反射しキラキラと輝く水面。ほんと、嫌になるほど綺麗だな。……今、ここから落ちたら……いや、止めよ。それで中途半端に怪我だけ負って死ねなかったらそれが最悪だし。


 ……いや、これも所詮は言い訳……畢竟ひっきょう、僕には勇気がないだけだ。死にたいくせに、自分で命を絶つ勇気もない臆病者……いっそ、あの中の誰かが僕を殺してくれたら――



「――よう、元気にしてるか真昼まひる


「…………へっ?」


 すると、不意に届いた柔らかな声。聞いた覚えのない――それでいて、どうしてか少し親しみを覚える声。ただ、そうは言っても――



「……元気なように、見えますか?」


 振り返り、声を尖らせ尋ねる。いや、僕なんかが尖らせたところで怖くも何ともないのだろうけど……ともあれ、背中越しとはいえ今の僕が元気に見えたのなら是非とも眼科にでも――


「ははっ、そうだな。悪い悪い」


 すると、朗らかな微笑でそう口にする青年。少しクセのある黒髪、そして透き通る綺麗な瞳を備える端整な男性。歳は、恐らく僕の少し上くらい――



「――さて、自己紹介が遅れたが……俺は彩氷あやひ。宜しくな、真昼」



 そんな思考の最中さなか、ニコッと晴れやかな笑顔で自己紹介をする青年。……彩氷……うん、やっぱり知らない。まあ、そもそも外見からしてまるで見覚えがないわけだし。……だけど、どこかで聞いた覚えもないわけじゃない。それに――


「…………どうして、僕の名前を……?」


 そう、逡巡しつつ尋ねる。知らない、とは思うのだけど……万が一にも、僕が忘れているだけの可能性もあると思ってしまうのは、彼が僕の名前を知っているからで――



「――まあ、それはおいおい話すよ。その時が来たら」

「……いや、その時って……」

「――それより、なにか悩みがあるんじゃないのか? いや、悩みなんてもんじゃない――本気で死にたいなんて思うほどの、耐え難いほどの苦痛が」




「…………」


 そう、僕の目をじっと見つめ尋ねる彩氷さん。仄かに微笑を浮かべてはいるものの、その表情は真剣そのもの――僕のことを気に掛けてくれていることがひしひしと伝わって。……やっぱり、知り合いなのかな? いや、でも仮にそうだったとしても心配してもらえるような間柄ではないはず――


「……いやなら、無理に話せとは言わない。でも、どうせ死ぬつもりだったんなら話してみてもいいんじゃないか? それに、身近な相手より俺みたいな知らない人間の方が話しやすいこともあると思う」


 すると、僕の心中を知ってか知らずかそんなこと言う彩氷さん。そして、やはりその表情は……分からない。どうして、こんなことを言ってくれるのか。でも、彼の言うことに一理あるのもまた事実。なので――



「……たぶん、察してるとは思うけど……全然、楽しい話じゃないよ?」


 そう、控えめに尋ねる。すると、彼は柔らかに微笑み頷いた。




「……さて、何処から話そうかな……うん、まずはこれを見てもらった方が早いかな」

「…………これは」


 それからややあって、僕が差し出したのは幾つかの操作を終えたスマホ。そして、受け取った彼の目には――



【――死んで償えよ、人殺し】

【――そもそも、人殺しといてのうのうと生きてるとか神経疑うんだけど】

【――殺された被害者と遺族に代わって、俺がお前をズタズタに切り裂いてやるから覚悟しとけよ人殺し】

【殺す。正義の名の下にお前を殺す。犯罪者に生きる価値なし】

【あっ、その時はあたしも呼んでよ。いっしょにりに行こ♪ この社会のクズを】



 そんな類の文言が、うんざりするほど絶えず映っていることだろう。スクロールしてもスクロールしても最終地点が見えてこない、僕に対する数多の言葉――地元で起こった殺人事件の犯人らしい、羽山はやま真昼に対する非難の言葉の数々で。




『………………え?』



 一ヶ月ほど前のこと。

 ある日、僕の目に飛び込んできたのは目を疑うようなメッセージ。何処の誰かも――そして、その内容にも全く覚えのないメッセージで。半ば停止した思考の中、そのメッセージに添付されていたリンクへと震える指でクリックする。

 すると、目に映ったのは僕の顔写真――およそ二週間前の殺人事件の犯人と紹介されている16歳の男子、羽山真昼の顔写真が。


 そして、それは名前と写真のみならず出身高校、家の住所、電話番号、メールアドレス――更には、両親の情報までも事細かく記載されていて。何処の誰かも、どんな経路で情報を仕入れたのかも全く以て分からない。それでも、この情報を元に不特定多数の人達から嫌がらせが絶えなくて……いや、嫌がらせでもないのかな。その人達にとっては、人ひとりの命を奪っておいてのうのうと生きているという許されざる人間ぼくに鉄槌を下すための正義の行いなのだろうし。



 ――だから、僕一人ならまだ良かった。無論、歓迎する事態ではないけれど……それでも、僕一人ならまだどうにか耐えられた……と、思う。

 だけど、被害は両親にまで及んだ。両親は共働きなのだけど、例の書き込みには二人の職場の情報まで記されていて。なので、二人の職場にまで嫌がらせの電話などがひっきりなしに続いて……それで、両親は精神を病み今は病院に。だったら、せめて僕が……もちろん、それで全てが解決するわけじゃないけど……それでも、僕が死ねば少しは二人への被害は収ま――



「――でも、お前はやってないんだろ?」

「……へっ? あっ、もちろん」


 そんな思考の最中さなか、ふと届いた声に顔を上げる。何故か安心するような、柔らかな声。もちろん、やっていない。そもそも、どうして何処の誰かも知らない人を……いや、知ってても殺しなんてするわけがない。



「……さて、それじゃ行こうか真昼」

「……へっ? 行くって、どこに……?」


 卒然の思わぬ言葉に、茫然と尋ねる僕。すると、彩氷さんはニコッと微笑み言葉を紡ぐ。



「……そうだな、質問の答えにはなってないけど、強いて言うなら――ひと夏の逃避行、かな?」




 

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