Ⅰ(2)現実を受け入れろよ
テナントタイプのそのスポーツクラブは駅からもアクセスは良好で、近隣には住宅街もある。いくつかある契約先のなかでも、ここは自分の生活圏にもいちばん近く、要はホームみたいなものだ。ビルに一歩入れば、そこかしこに顔見知りがいる。
その顔馴染みのひとり、大学の後輩でもある男が落ち込んだようすで声をかけてきた。
「松下さん、知ってました? 藤井さん彼氏いたんですよ」
「え、そうなの?」
奴が出した名は俺のお得意様のひとりで、会社経営しているやり手の超絶美女のことだ。
「いや、聞いたことないけど。本当に?」
「藤井さんだけはイケメンを選ばないと思ったのに。もう、とんでもない芸能人みたいなレベルのイケメンですよ! ルッキズムなんてクソ!」
発狂する後輩に苦笑しつつ、内心首をひねる。
藤井さんとはつきあいはそこそこ長いし、プライベートでも飲みに行くこともあるぐらいの距離感なので、意外だった。恋人なんて居たら教えてくれそうなものなのに。
「だって、さっきすごいイケメンとニコニコしながら一緒に入ってきたんですよ」
すごく親しげで楽しそうだったのだ、と後輩はがっくり肩を落とす。
何も聞いていなかった俺は、そうか最近できたのかな、と思った。
クリスマスあるし、年末年始近いしな。フラれる人間がいれば、当然その逆もあるだろう。
「まあ、藤井さんなら当然じゃない?」
並大抵の男ではつり合いがとれないだろうと思う。
とんでもない美人のうえ地位もある人なのに、全く気どったようなところがなくて誰とでも気さくに話す。だからこいつみたいに勘違いしてしまう奴が現れるんだ。
俺だって恋愛対象が女性だったなら、恐れ多くて声もかけられない。そうじゃないから、藤井さんだって俺みたいのと気軽に飲みに行くんだろう。
「夢を見ずに現実を受け入れろよ」
そう突き放してやると、後輩は絵に描いたように肩を落とし、とぼとぼとジムを出ていった。
ジムに入るとフロントスタッフと挨拶して、今日の予約状況を確認する。
俺はフリーのスポーツトレーナーで、ここのジムでは個人運動指導を担当している。
「元気ないね。どうしたの?」
スケジュールを確認がてら、ふと傍らの学生アルバイトの女性スタッフの異変に気づいた。この世の終わりのような暗い顔をしていて、すごく落ち込んでいるような感じだった。
「藤井さんの彼氏が、佐久間さんだって知っていたんですか?」
カウンター下のノートパソコンで先々まで予約状況を見ていると、ボブスタイルのその子は恨めしそうにいった。
「ああ、なんか藤井さん彼氏できたっぽいんだってね。相手、佐久間さんっていうの?」
何気なくそう訊くと、その子は信じられないというように目を見開く。
「松下さん、佐久間さん知らないんですか?」
俺が出入りしているジムは小さいものも合わせれば、六カ所ある。このタイプの大型のジムはだいたい会員さんが五百人はいるから、接点のあるお客さんでなければ知らない人も少なくない。
「そんなすごいイケメンなの?」
後輩に発狂ぶりを思い出しつつ、つい半笑いで訊いてしまう。
そんな目を引くような奴、このジムにいたか?
「ちょっと前に入会してくれたんですけどすっごいかっこいい人で。クールそうなんですけど、挨拶とかきちんとしてくれて。私がボールペン落としたときもさっと拾ってくれたり、ごみが落ちていたら拾ってごみ箱に入れてくれるし。かっこいいのに全然鼻にかけた感じじゃないんですよ」
アルバイトスタッフの女の子、雛ちゃんは厄介オタクのような早口でまくしたてた後、ハァと憂鬱そうにため息をついた。
「密かに憧れていた人、多いと思うんですよね」
「……雛ちゃんもそうだったんだ。残念だったね」
女の子の方がちょっと深刻そうだな、と思う。
男どもは憧れが大半であわよくばワンチャンないだろうか、みたいな軽薄な輩が多そうだけれど、女の子は男と比べると、憧れとは言ってもどうしても気持ちの濃度は高くなりやすい傾向があるだろうし。
まあしかし、罪な二人だ。
美男美女でくっつくのは自然の摂理。当然の帰結。
とはいえ、俺も含めた凡人たちはどこかで夢も見ているし、期待もしてしまうもんだ。クリスマス前だしある界隈は阿鼻叫喚なんだろう。
いつもなら、人の不幸にはただ哀れみと同情しか感じないけれど、今は悪くない気分だった。
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