拝啓、親友へ。

瑠璃

拝啓、親友へ。

 鉛のような色の雲が太陽を遮っているが、湿気が高く蒸し暑い。これでも気温は朝方だというのに三十度を軽く超えている。今日は仕事が休みだがスーツに着替え、どこかに行く用事もないままふらふらと街を出歩く。あまりにも暇なもので、休日出勤でもしようと考えながら渋谷のスクランブル交差点で歩行者信号が青になるのを待っていた。労働基準法という単語が頭の中に出てきては消えてを繰り返している。信号は青に変わった。人は一斉に道路に出る。向かいからくる人混みを避けながら進んでいくと、ちょうど真ん中あたりで俺を名前を呼ぶ声がした。漢字は違えど、極ありふれた名前であるから自分ではないだろうと無視する。だけれどどこか懐かしい声色。その声の主は何度も呼び続けているようだ。なんなら、声を発するたびに近づいている気がする。あまりに気になってしまったので一度振り返る。すると、目の前にはどこか見覚えのある顔立ちの男が一人。

 

「お、おい、宏紀だよな?、覚えてるか?俺だよ、家も近くて小中高と同じだった…」

 

 その瞬間、忘れかけていた記憶がふっと蘇ってきた。

 

「もしかして、和浩か?」

「そうだよ、和浩だよ!!久しぶりだな、こんなとこで会うなんて!!びっくりしたよ!!」

 

 軽く抱擁を交わす。最後に会ったのはいつだろう。しばらく地元に帰ってないので正確なことは覚えていない。相変わらず肌は焼けている。元々ガッチリとした、筋肉質の体型だ。その肌と汗も相まってうっすらと光沢を帯びている。髪はワックスでしっかりと固めている。最近流行りの髪型だった気がするが、あいにくファッションに疎いので、よく分からない。が、面長の彼にとってその髪型はよく似合っているので良しとしよう。

 

「にしても、ここにいるなんて珍しいじゃないか。こっちに引っ越したのか?」

「いやまさか、そんなことできるわけないでしょう。観光だよ観光。仕事柄、都市にはよく行ってるけど、ちゃんと観光したことないし。」

 

 彼の仕事は運搬業。細かいことは知らないが、トラックの運転手をやってると風の噂で聞いたことがある。彼は高校卒業後、大学へ進学せずに地元の運搬業社に就職した。近年、配達員の労働時間が長すぎるといった話をよく耳にしているが、彼もその一人なのだろうか。

 

「仕事は大丈夫なのか?トラックの運転手やってるって話だったけど…」

「全然大丈夫よ、今暇をもらっちゃってるしね。時間はたっぷりあるんだ。」

「暇って、お前、仕事クビになったのか?」

「ああ、ごめんごめん。言い方が悪かったわ。普通に有給使ってるだけ。クビにはなってないよ。」

「全く、心配させんなよ。でもそんなところは相変わらずなんだな。」

「でしょ?」

 

 その時、歩行者信号が点滅しているのが見えた。よく考えれば、今いるのは交差点の真ん中だ。ここでずっと立ち話などしたら轢かれてしまう。

 

「とりあえず、こっちに!」

 

 俺は和浩の手を引っ張り、赤になるギリギリで渡り切った。その距離は五メートルにも満たない。運動に適さないスーツと数年ぶりに走るこの組み合わせ。ただでさえ少ない俺の体力を削るには十分だった。息切れで苦しい。一方で和浩は平然としている。学生時代から運動に力をいれてこなかった皺寄せがここにきて自分を苦しめるとは。

 

「大丈夫?すごい息切れだけど…喘息?」

「違う、普通に運動不足なだけ。それと喘息はもう治った。」

 

 ああ、そうなの、と言う反応を彼は見せる。彼は汗こそかいているものの、息切れは一切していない。運動が元々できるやつは、この程度じゃどうということはないのだ。

 

「とりあえず、どっかで休む?」

「うん…そうするよ。これは休まなきゃやばい…。」

「でも仕事あるんじゃないの?そんな格好してるし。」

「あ、ああ、これね。スーツ着てなきゃ落ち着かないんだよね。」

「なんか、大変そうだね…」

「そうでもないよ。」

 

 できる限りの笑顔を作ったつもりだったが、彼は終始苦笑していた。

 

「その、せっかく会ったんだし、一緒に観光…してくれない?」

 

 呼吸が落ち着いてきたところで彼が提案してきた。

 

「別にこのあと用事があるわけじゃないから問題はないけど、観光ってことは予め計画はあるんだろ?それに俺がついていっていいのかい?」

「俺がしっかりプランを考えているとでも思ってる?」

 

 そうだった、そうだった。コイツは俺と違って昔から計画性のないバカだった。日頃からコツコツと勉強せず、試験が近くなると泣きついてくる、そんなタイプの人間だった。

 

「まあ、そうだよな。で、どこか行きたいとこでもあんの?」

「そりゃあ、やっぱりSHIBUYA109でしょ。」

「あー、近いから全然いいけどそんなところで大丈夫?もっとこう、スカイツリーとかさ、浅草とか、観光名所あると思うけど…てか109は観光するために行くようなものじゃないでしょう。」

「え、そう?結構楽しそうな場所だと思うけどな。」

「…和浩が言うならいっか。えっと、こっからだと109に行くには…こっちか。ついてきて、案内するよ。」

「おう、よろしく。」

 

 俺たちはまた交差点を渡り、少し歩いて109へ向かう。109の中は、若い女性を中心に人気だからか、この通りはやはり十代、二十代がとても多い。三十路を超えそうな、早い人はおじさんと呼ばれてしまうような俺らがこんな場所に来るのは浮いているとしか言いようがない。

 

「………」

 

 ほらみろ、和浩が口を開けて唖然としているではないか。

 

「……スッゲェ!!」

「へ?」

「スゲェよ、ここ。こんなに大きい場所見たことない!!」

「声デケェって…」

 

 周囲が振り向くぐらいの大声を俺の耳元でコイツは叫ぶ。何人かは奇怪な目でこちらを見ている。視線が痛い。

 

「ほら宏紀、さっさと行こうぜ!」

「え、ちょっ、待っ…」

 

 そんな俺の言葉なんか無視して中へ、中へ進んでいく。周りの目を気にする俺だが、彼は気にする素振りを見せない。ちょっと見て回るだけで、聞いたことあるブランドから全く知らないものまで、数多く見つけた。と言ってもほとんど知らないものばかりで、知っていたのはほんの少しだけ。それらは全て、元カノの好きなブランドだった。

 一通り見てまわったので、次の階へ上がる。そこでも、同じように見て周り、また上へ上がった。俺らの足が止まったのは三階、丁度バッグ店を通りかかったとこだった。もちろん、女性物のバッグ、俺には無縁のものだと思った。

 

「ちょっと見てくるわ」

「へ?」

 

 腑抜けた返事をしたが、そんな事は気にも留めないのか、彼は店内へ足を運んでいく。驚いてはいない。ただ困惑した。昔っから彼は変なことばかりするので、驚かないのは当然なのだが、今回の行動は明らかにおかしい。わざわざ女性用のバッグを見にここにくるバカがいるものか。彼を一人にするわけにもいかないものなので、恥ずかしいが俺も入った。均等に並べられている鮮やかなバッグに囲まれる。材質は多分合皮。本革に比べれば安いだろうけどちょっとお高めの値段だった。これがブランド力なのかと思い知らされる。


 少し奥へ入ったところで、彼はいた。彼は何かぶつぶつ言いながら見ている。何個か手にとっては戻すを繰り返しては、またブツブツと言う。集中していたのか、俺が肩を叩いてようやく存在に気づいた。

 

「お前どうしたのさ。急にこんなとこ入るなんて。欲しいものでもあるのか?」

「まあ、そんなところだよ。うちの嫁の誕生日が近くてね。」

「そうか…。………え?結婚したの?」

「あれ、言ってなかったっけ。宏紀の母親が伝えたって聞いたけど…」

「聞いてないって。え、何それ。え、え…」

「そんなに驚くことかい?」

「そりゃ驚くでしょうよ。こちとら親から愚痴愚痴言われてんのに。あまりにしつこいから適当に返してたけど…」

 

 そういえば、そんなことを母さんが言ってたような気がしないでもないことを思い出した。

 

「まあ、とにかくだ、おめでとう。幸せにな。」

「おう、ありがと。」

「式は挙げたのか?」

「挙げたいんだけどねぇ。これがどうしてもね…」

 

 と、指で金のジェスチャーを作りながら言った。

 

「やっぱそれだよな…」

「うん、やるとしたらしばらく後になるだろうねぇ。」

 

 これは後から知ったことなのだが、式場だけで約二十から三十五万円程、装飾の花代、料理代、衣装代など、すべての費用を合わせると三百万は余裕で超えていた。そりゃあ、和浩も渋るわけだ。

 

「その嫁さん…だっけ?どんなのが好みなの?どこのブランドがいいとかさ。」

「俺も詳しくわかんないんだよ。付き合ってる時からこういった話はしてたんだけど、すごい遠慮してて…」

「遠慮か…」

「そう、すごいしてるの。結婚当時、給料が低かったからってのもあると思うけど、興味を示してないようなフリばっかりでさ…あ、今も給料低いのは変わらないんだけどね。」

「そ、そうか…」

「それにしても、何でバッグにするんだ?」

「う〜ん、特にこれといった理由はないけど、いつでも使えるもの…がいいと思ってさ。例えばネックレスとかはさ、遠出する分には十分使えると思うけど、日常で使うわけではないでしょ?」

「まあ、そうか…。」

「というか、何かプレゼントしたいって気持ちが先走ってるだけだから、正直なところ何でもいいんだけどね。」

「なるほどね。…じゃあ、俺は外で待ってるよ。」

「え、何で?相談ぐらい乗ってくれよ…」

「本当ならそうしたいんだが、選ぶのは和浩だろ?俺がアドバイスしたその時には、プレゼントしての価値はなくなる。違うかい?」

「…うん、そうだ。そうだよね。俺が選ばなくちゃ、ね。うん。」

「決めたら教えてくれよ?」

「オッケー。じゃあしばらく待ってて〜」

「おう、待ってるよ。」


 店を出てから俺は、この階の周りをずっと回っていた。ただただじっと待つこともできたが、脳内は仕事ばかり考えてしまう。せっかく旧友と同じショッピングモールにいるのに心が休まる気がしないので、無心になるにはこうする他なかった。客層は当然の如く若者なので、スーツ姿のおっさんがここをずっと歩き回るのは不審者の何者でもないだろう。『何あのおじさん、一人でここに来てるの草』『控えめにいってキモすぎwww』 『それなww』…なんて近くにいる女子高生からの陰口が聞こえたのなら、しばらく心にそのナイフが突き刺さったままになってしまうだろう。今はただ、その的にならないように祈るしかない。



 三週目から数えるのをやめた。何度もすれ違った人は数知れず。流石に疲れてきた。日頃から運動すべきだったと後悔する。明日は必ず筋肉痛だ。



 あの後何周かしたのち、ようやく店から出てきた。店名のロゴの入った紙製の手提げを持っている。


「無事買えたみたいだね。」

「ごめん、結構時間かかって。どれも嫁によく似合うからなかなか決まんなくて…」

「それぐらい気にしなくていいって。いい買い物したと思えばいいさ。ちなみにどんなやつ?」

「えっとねぇ…この黒いやつ。」


 手提げから出てきたのは、落ち着いた雰囲気で気品あふれるバッグ。艶があって覗くように見ると薄ら自分の顔が反射していた。


「いいじゃん、このバッグ。綺麗だよ。」

「でしょ?」

「にしても、他に色ある中でなんで黒選んだ?」

「あんまり派手すぎてもこっちじゃあ見せる人なんていないから、日常的に使えるのがいいなって思ってね。それに黒、似合うんだよ。」

「ふ〜ん。てか、嫁さんどんな人?俺が知らん人でしょ?」

「写真、見せよっか?」


 そう言ってスマホを取り出すと、アルバムから和浩とのツーショット写真を見せてきた。右にいる筋肉の主張が激しい和浩と違ってふんわりとした、黒髪長髪が綺麗な女性がピースを作って笑っている。確かに黒が似合いそうな女性だった。


「へぇ〜、可愛いじゃん、この人。よく結婚できたな。年は?」

「二歳差だから…27だね。同じ部活の後輩だった子だよ。」

「マジ?」

「うん、マジ。」

「そうか、それは知らなかったな…」

「後輩と関わる機会ほとんどなかったからね。宏紀は結局、部活入らなかったっけ?」

「いや?校則で入ることになってたから幽霊部員ってだけで一応入ってたぞ、文芸部に。因みに入部した初日しか顔出してないし、作品も出してない。」

「え、嘘でしょ??」

「これが本当なんだなぁ。何度顧問に説教されたことか、今でも覚えてるよ、あのおばさん。貴重な男枠だからって必死なんだから。」

「確か国語の…パンダ先生だっけか?」

「そうそう、常にパンダのぬいぐるみを鞄につけてるマニアの先生。実物見たことないくせに関連知識ばっかべちゃくちゃ喋る人だった。授業中にも関わらずに。」

「結構しつこい人だったよね。特に男子に。本名なんだっけ。」

「えっと…あれ、出て来ねぇ。白岩…じゃなくて、木崎…いや、その人は世界史だ。」

「安藤先生じゃなかった?」

「それは違うだろ。確かに国語の担当だったけど途中で消えたじゃん。寿退社とかして。実際どうだったか覚えてないけど。」

「あ、そうだったね。」

「今思うとずっとパンダパンダって呼んで苗字で読んだこと一回もない気がする。」

「確かに。入学からずっとパンダだったよね。」

「…懐かしいな。元気にしてるかな。」

「どうだろ。別の高校に異動してるだろうけど、元気にはしてんじゃね?」

「だといいけど。」


  その後も、学校関連の話に花が咲いた。あの時、先生と喧嘩した理由や、その他和浩を筆頭とするバカ集団によって引き起こされた事件とそのしょうもなさに呆れつつも、十二年間の生活に思いを馳せる。こうして聞いてみると、あれだけ一緒にいたのに知らない(もしくは覚えていない)ことが多々あった。それは向こうも同じらしい。俺たちは本当に親友だったのか問いたくなった。


 気づけばそろそろ昼時、日もそろそろ出始めて、さらに蒸し暑さが増していく。外に一歩でも出れば、汗が止まらなくなる。


「買い物は済んだとして、この後どうすんの?」

「特に決まってないかな。元々立ててないし。」

「じゃあさ、一緒に飯でもどう?せっかくきてくれたんだし、奢ってやるよ。」

「いいのかい?遠慮なく食べちゃうけど。」

「ちょっとは遠慮して欲しいけど…ま、いっか。何にする?駅前とか色々あるけど。」

「んー。じゃあ、せっかくだから飲もうぜ?」

「今から?まだ真昼間じゃん。こんな時間に飲むやつ誰一人いないぞ。」

「まあまあ、いいじゃない、たまには。」

「…今回だけだぞ。」

「よっしゃあ!早く行こうぜ!」

「…おう。」



 再会の地、スクランブル交差点を通過して渋谷駅の中へ入る。相変わらずの人混みだ。ここにくる前は人の流量に圧倒され、軽い頭痛を起こしていたのも今では懐かしく感じる。


 

「どこにしようかなぁ…」

 

 和浩は呑気に居酒屋探し。


「宏紀、どこかおすすめある?」


 たまたま近くに店舗情報が貼らされた掲示板を見つけたので指差して聞いてくる。


「そうだな…」


 俺は少し考える。と言うのも、普段酒なんて飲まないし、飲み会は基本行かない。何かと理由つけて断っている。だから、そもそも居酒屋に行くことなんてないのだから、どこがいいのかよくわからない。


「なら、ここどうかな?」

 

 分からないなりに指してみる。すぐ近くの場所だ。


「ここ美味しい?」

「知らん。でもよく人いるからうまいと思うぞ。」

「じゃあそうしよっか。」


 すんなりと受け入れられてしまったことに少々驚いたが、何はともあれ決まった。今日は休日なんだ。仕事のことは忘れて、羽でも伸ばそう。だが…どうやらそれを許してはくれないらしい。

 

「ん?」


  内ポケットの中にしまっていた携帯が鳴り出した。まさかと思い取り出すと、相手は会社だった。


「ごめん、電話来た。」


この一言だけ残して応答のボタンをタップした。


「もしもし、齋藤です。…………はい、………はい、……システムエラーですか。……はい、………わかりました。今向かいます。…はい、では失礼します。」


「仕事か?」

「ごめん、というわけで行かなくちゃならなくなった。」

「こっから職場は近いの?」

「近いけど、聞いた感じすぐには終わらなそう。」

「そっかぁ。まあ仕方ないね。飲むのは次の機会にしよう。」

「ごめん。」

「謝らなくていいよ。さ、早く行きな。優秀なお前をみんなが待ってるよ。」

「優秀じゃないんだけど…とにかく、やってくるわ。」

「おう、頑張れ!たまには地元に戻って母ちゃんに顔見せてやんなよ。」

「言われなくても。」

「じぁあ、今度帰ったその時は俺ん家で飲もうな!」

「おう、楽しみにしてるわ。またな。」

「会えてよかったよ。じゃあね!」



 彼のその言葉を最後に、俺は会社へ駆け足で行った。幸い、エラーを吐く理由がすぐに分かったため復旧には時間がかからなかったけれど、それでも家に着いた頃には平日と変わらない時間だった。しかし、とても充実した1日だった。きっと俺は今日のことを忘れないだろう。




 三ヶ月以上過ぎたある日、俺は地元へ急いで足を運んでいた。何かあった時ように買ってあった喪服が役に立ったが、出来れば役に立って欲しくなかった。行き先は、和浩の家。早朝、母からの電話で起こされた俺は、何事かと問うと、開口一番に戻ってこいと言ってきた。訳がわからなかったので説明させると、和浩が事故で死んだ、というのだ。そんなまさか、俺を一度家に呼ぶための口実だろう、なんて思っていた。しかし迫真の演技が過ぎる。まさか本当に死んだのか、と一度でも疑ってしまえば、俺の不安は募るばかり。職場には体調不良と偽ってこうしてやってきた。出来れば嘘であって欲しい。いや、嘘に違いない、と言い聞かせる。しかし、和浩の家に続々と黒一色の服を着た親戚が入ってくるのを見て、母のあの叫びは本当だったんだと悟った。現実は非情なものだ。



 棺の中に納められている和浩は見るに耐えなかった。血の気は失せて、真っ白く、冷たい。高速を運転中、分離帯を突き破った対向車線のトラックに衝突したらしい。死因は出血多量によるショック死。外傷部分は丁寧に縫い付けられているのでそれほど目立ってはいないけど、所々に打撲の跡がしっかり残っている。体はこんなにもボロボロなのに、眠っている顔だけは夢見てるんじゃないかってぐらい安らかな表情を浮かべている。


「まだ若い嫁さんを置いて、どこへ行こうというんだい?なあ、和浩。」


 俺は棺の前でつぶやいた。当然、返事はない。もう一度、彼の顔に手を触れる。やっぱり冷たい。ここにきて初めて、涙が溢れ出てしまった。彼は死んでしまったのだ。せめて人前ではよしておこうと思っていたのに、一度出てしまうと止まらない。頬を伝う涙が彼の顔にかかってしまわない様にハンカチで押さえつける。それでも、放流を開始したダムの様にその勢いは衰えることを知らなかった。


 和浩のお通夜、葬儀も一通り終わり、火葬も始まった。親友が焼かれるこの気持ち、感情。もちろん、悲しいし悔しい。だけどやはり現実味がなくて、またどこかで、あの時の渋谷みたいに突然現れるんじゃないかと淡い期待をしている。一緒に酒でも飲もうと約束したばっかじゃないか、なんで破るんだ、と、怒りも混じっている。果たしてこれを一言でどう表せばいいのか、今の俺には分からない。もしかしたら一生、出てこないのかもしれない。


 無事葬儀は終了し、俺は自分の家に帰った。本当はもう少し向こうで過ごしていたかったけど、仕事が溜まりに溜まってしまっているため仕方なく帰ることにした。部屋はいつものまま。何も変わらない。床は脱ぎっぱなしの衣服がちらほら。軽くどかして、客が来た時用に出すような、鍋をつつくのにちょうどいい大きさの卓を出す。帰る途中にコンビニで買ってきた缶ビール二本とつまみのさきいかを真ん中に袋ごと置いた。小さい皿にサッと盛り付け、中央に並べる。一つは俺の手元に、もう一つは向かい合う感じに置いた。缶を開ける音が部屋に響く。一人で飲む酒はしばらくぶりだ。一気に口に含んだ。あの苦味が口内に広がると、やっぱり俺は酒が苦手なんだなと再認識した。一息ついてまた飲む。苦い。もう一口。もう一口。目頭を押さえる。また一口。…ビールって、こんなに苦かったかな。

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