七章 炎と雨(5)
獅子堂はひよりたちがいる手前で足を止めた。これまでの荒れ狂い様とは異なり、敵を目の目にしても、すぐさま太刀を振り回すことはなかった。
ひよりはごくりと唾を嚥下する。緊張が走る中、声が響いた。
「祟り神よ。貴様は我と同じ、理不尽な理由で他者に殺され、居場所を奪われた存在ではないのか」
「……なぜそれを」
「玉に封じられていた間、この地の出来事が浮かんでは消えた。あれは貴様の過去だろう」
ふと気づいた。獅子堂がこうしたことを口にするはずはない。
「いま話しているのは……」
「獅子堂ではなく悪霊か……?」
先程まではよく見えなかった兜の下の影の中に、朧気ながら人の顔が浮かんでいた。目元が落ちくぼみ、頬がこけた、骸骨に皮を張ったような顔が。
「無理やり神として祀られ、荒ぶる魂を鎮められ、痛みと苦しみを忘れたか。思い出せ。貴様は人を恨み、憎悪を抱き、祟り神となったのではなかったのか!」
「……っ」
常葉は息を呑んだ。
「貴様は我と同じだ。この地の民を憎んでいる。この村も国も、すべてが滅びてしまえばいいと」
悪霊の言葉に合わせて、周囲の黒い靄が生じ、だんだん濃くなっていく。常葉の白い狩衣を、黒く染めていく。
「……黙れ」
「時が経ち、村人に忘れられて、自らの本分すら忘れていたようだが、常葉と呼ばれた神は、祟り神だ。我と同じ、この地の民の死を望み、破滅を呼び寄せる存在にほかならぬ」
黒い靄が常葉にまとわりつく。もとは悪霊から発生していた靄は、肩で息をしている常葉の動きに合わせるように蠕動し出した。
「ぐ、あ……」
「神様!」
苦しそうに呻き、俯いて額に手を当てる常葉。彼に手を伸ばしたひよりだが、その手を振り払われた。
「ひより、逃げろ」
「神様を置いて行けません!」
顔を隠す髪の合間から、赤く染まり血走った瞳が見えた。額も手の甲も、血管が浮き出ている。髪が振り乱され、見慣れた姿からかけ離れていく。
「このままでは――私は私でなくなる。力を、暗い想いを制御できなくなる。この地を滅ぼすまで止まらない」
「そんな……」
背中に悪寒が這い上がってきた。
荒ぶる神だと聞かされていても、祟り神だと言われても、いまの常葉は災いを引き起こしてこの地を破壊するようなことはしないと信じていた。常葉自身も三廻部村の滅亡など望んではいないだろう。それなのに。
「そうだ。村人は獅子堂という男の言葉で、神社にいるのは祟り神だと、ここ最近の災いは祟り神のせいだと実感した。神は人の信仰があってこそ存在できるもの。村人の共通認識が、貴様を祟り神とするのだ!」
悪霊の声が響き渡る。常葉を人を祟る存在に堕とそうとする。
「私はそなたを殺したくない。だから――頼むからここから離れてくれ!」
なりふり構っていられない切羽詰まった声が上がった。
「あなたの頼みでも聞けません!」
黒い靄を無視して、ひよりは常葉を抱きしめた。
「ずっと一緒にいると、神様の傍にいると、約束したはずです」
靄にまとわりつかれた常葉の身体は、氷に触れているように冷たく、針に刺されたような痛みを感じた。滅びの力だと言われて納得するには十分だった。
「ひより……」
名前を呼ばれ、腕をつかまれた。だがその手に力が入ることはなく、引き剥がされることはなかった。
諦めたのだろうか。祟り神となってしまうことを受け入れ、ひよりが逃げずに傍に留まることをよしとしたのか。それとも、もう常葉としての意識はなくなってしまったのだろうか。
「……わたしは諦めません」
抱きしめる手に力を込めた。
「あなたは祟り神ではありません。わたしは一度も、あなたを祟り神の名では呼びませんでした」
人の信仰が神を形作るというのなら、信じなければいい。共通認識が同一のものでなければ、祟り神として闇に呑まれ、自我を失うことはないはずだ。
「青葉」
幼い頃に神社で会った男の子の名前を呼んだ。それはこの者の本来の名前ではないのかもしれない。だけどひよりにとっては、子供の頃に何度も呼んだ名前だった。
常葉が顔を上げ、薄く開いた瞳がひよりを捉えた。
「あなたはわたしの幼馴染の青葉です」
赤く染まっていた瞳が、もとの金色に戻っていく。黒い靄が薄れていき、狩衣が白さを取り戻していく。触れている場所から生じていた痛みは、消えていった。
「……ひより」
「はい」
「幼馴染なだけか?」
「いいえ。わたしの夫で、大好きな方です」
「……そうだったな」
微笑むその瞳には、光が宿っていた。
「我とともにこの地を滅ぼしたほうが貴様も救われるだろうと思ったが――邪魔をするなら消えろ!」
身体を隆起させ、悪霊は力を放出した。鎧兜が震えたかと思うと、炎のように揺らめきながらさらに一回り大きくなった。
ひよりは常葉とともに悪霊から距離を取り、柱の陰に身を隠して考えた。
「理不尽に殺されて悪霊になった存在……もしかしてあの玉に封じられていた悪霊というのは、空閑様がおっしゃっていた悪霊なのかもしれません」
「そうだとすると、確か弱体化させる名があったような」
これまで目にした祠に祀られた石や、空閑の言葉を思い出す。
神社を囲む森にあった祠の石には「川」、町にあった祠の石には「バ」と記されていた。そして星が降ってきて埋もれた山道の祠の石には、柄須賀山の神によると「キ」と記されているのではなかったか。
「川」? いや、違う。縦線が三本だったが、一番右は斜め線だった。「川」ではなく、「ツ」と直線的に書いたのがあの文字だったのではないだろうか。
――ああ、そうか。
人の首が落ちたようだと言われる花が、頭に浮かんだ。幼いうちに神に取られないように、鬼に目をつけられないように、幼名はあえて縁起が悪い名前をつけることもある、という話も思い出した。
「……ごめんなさい。あなたが人だった頃の名前、使わせていただきます」
悪霊にはもう、人だった頃の心など残っていないのかもしれない。それでもそう告げていた。
「その玉に封じられていた悪霊の幼名は、『
名前を呼ばれた悪霊が、反応を見せた。
「その名は……ぐぉおおおおおおお!」
幼少時の名前を呼ばれて反応を見せ、存在が定義され、これまで猛威を振るっていた力が弱まっていく。動きが目に見えて鈍くなっていた。
だが、まだ足りない。名前は悪霊を弱体化させるだけだ。悪霊を、化け物と化した獅子堂を倒すことはできない。
「常葉様!」
本殿の裏手に睡蓮が駆けつけてきた。水干はあちこち破れ、切り裂かれて血が滲み、憔悴している様子だが、目の前で動いている。言葉をしゃべっている。ひよりは心底安堵した。
睡蓮は常葉に抱えていた刀を差し出した。
「これをお使いください」
「助かった」
常葉は刀を受け取り、鞘から抜いた。刀身が光を反射してきらめく。
「それは……」
見覚えのある刀だった。蔵にあった、妖怪の血を吸って妖刀となり、神社で浄化された刀だ。その刀身からは禍々しさは感じられず、澄み切った水面のような清浄さがあった。
苦しんでいた悪霊が顔を上げた瞬間、常葉は刀を一閃させた。
断末魔を残して、鎧武者の姿が崩れ、煙が空中に広がるように霧散していく。その巨体の中心部にいた獅子堂は、地面に倒れた。その身体はもう動くことはなかった。
「悪霊と一体化して、その名に反応したということは、獅子堂さん――あなたはもう、英雄ではないんです」
獅子堂の姿を思い出しながら、ひよりはそう告げた。
英雄で居続けるため、功績を上げ続けるために、祟り神すら倒そうとした男は、神が住まう神域で人知れず敗れ去った。
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