七章 炎と雨(4)
姿を現した獅子堂が手にした刀は、血がこびりついていた。陣羽織に飛んでいるのは返り血だろう。彼は怪我を負った様子はなく、悠々と歩いて来ているのだから。
「思ったよりは楽しめたが。所詮祟り神の神使、俺の敵ではなかったな」
「あ……」
乾いた声がこぼれる。睡蓮と最近交わした言葉が蘇った。出会ったばかりの頃は壁を感じたが、保護した犬を通して知らなかった姿を見ることができた。蔵での会話で、認めてもらえたように思えて嬉しかった。――それなのに。
まだどうなったか確定したわけではないのに、身体が冷えていく。指先が震え、もう片方の手で包むように握りしめた。
「それにしても、祟り神を祀る神社にこうしたものがあるとはな」
獅子堂の刀を持つ手とは逆の手に握られていたものが、掲げられた。中心部に黒い蠢くものがある、透明な玉だ。玉の表面に、陽光が反射した。
「それはっ……!」
蔵に安置してあった玉だ。破壊しただけではなく、蔵の封印を解いたというのか。曰くあるものを慎重に管理していた睡蓮の気配りすら、粉々に打ち砕かれた気がした。
「強い力を感じる玉だ。ならば俺が取り込んでやろう」
「待っ……」
静止の声が届くはずもなく、蔵に安置されてあった玉を、獅子堂は飲み込んだ。
「力が沸き上がる。そうだ、俺は選ばれた英雄だ。神域にあるものを食べれば、神に等しい力を得られるはず……」
獅子堂の言葉が、途中で咳にかき消された。呻き声とともに血が吐き出され、獅子堂の身体が内側からなにかが暴れまわるかのように隆起する。それとともに、獅子堂の身体を覆うようにして、これまで存在しなかったものが形作られていった。
人間の身体を中心にして、鎧兜をまとった半透明の巨体が出現した。角のような意匠の兜は、見る者に威圧感を与える。身の丈は常葉の三倍ほどもあり、甲冑の輪郭は煙や炎のように揺らめいていた。
太い手足を振り回せば、矮小な人間などやすやすと潰してしまえそうに見えた。そして手には、大きな太刀を持っていた。
「あれは一体……」
「魔の力に呑まれたか」
常葉の言葉を体現するかのように、獅子堂は悪霊と一体化していた。
「お前は生まれたときに息が止まっていたが、引っぱたいて蘇生させた。特殊な生まれで一度死にかけた者は、並ならぬ力を持つそうだ」
獅子堂大我は父親にそう聞かされて育った。
「俺たちの先祖はとある村出身で、その地に災いを運んできた異人を倒した英雄だそうだ。お前も英雄になれるかもしれないな」
父が語った話を素直に信じた。災いをなす凶悪な存在を倒せる英雄に、憧れた。
獅子堂の血を引く子供は各地で語られる伝承を集め、英雄になるためにできる努力をすることにした。
鍛錬を積み、剣の腕を上げ、力をつけた。成長していくにつれて身体は屈強になり、人相手のみならず、自分よりも大きな獣相手でも立ち回れるようになった。
「獅子堂の末の子は強くなったもんだな」
「一度彼岸に足を突っ込んだからか、姿を消している妖怪や幽霊が見えるそうじゃないか」
「妖怪が住まう異界を行き来して修行を積んでいると聞いたぞ」
「神童がこの地に生まれるとはねえ」
獅子堂の強さは、故郷の住人に認められていった。父も息子の成長を誇らしく思っているようだ。だがそれだけでは、英雄になるには足りない。
「兄上は俺のことを疎んじている。いつからか自分よりも強くなった弟が目障りなのだろう」
長兄と次兄は傲慢で横暴な人間だと、故郷の住人に触れ回った。特に長兄は、いずれ家長となる立場に胡坐をかいて、自分より下の立場の者を支配している、と。
「俺の意見は兄上によって握り潰される。この間の熊の討伐の際も、兄上の策を強行したからあれだけの犠牲が出た。この怪我はそのときのものだ」
英雄は兄弟の末子で、兄は愚劣でなければならないから。そして兄に虐げられていたと話すと、誰もが納得するから。
妖怪が故郷に出没して、交代で見回りをしようとなったとき、長兄と次兄に酒を飲ませて眠らせた。二人は妖怪に殺されて翌朝発見された。末子の兄は死んでいなければならないから。
長兄も次兄も、実際に愚か者だった。身内に命を狙う者などいるはずがないという、血のつながりによる絆を愚直に信じていたのだから。
妖怪は父親に取り憑き、暴れ回った。獅子堂は父親の肉体ごと、妖怪を斬った。偉大な父親は乗り越えるべき壁なのだから。
「兄の死を乗り越え、自分の親を犠牲にしてまで、この地の住人を守ってくれるとは」
「獅子堂大我こそ、英雄だ」
母親はそれからずっと泣き暮らした。英雄になるための通過儀礼を理解できない愚か者がそこにいた。
獅子堂は故郷をあとにして旅に出た。各地で妖怪を倒し、功績を上げた。巨悪を倒すためには、多少の犠牲は仕方がなかった。少数派の声は黙殺される。多数派に賞賛されればそれでよかった。
ある村に、現人神として人々の信仰を集めた巫女がいた。村は妖怪に襲われ、獅子堂は妖怪を倒した。村を救った礼にと、村長たちから差し出された巫女を娶った。
身籠った妻を置いて、都を脅かす鬼を倒しに行った。その鬼は、妖怪に取り憑かれたかつての父親のようにも見えた。父親に似ているということは、成長し大人になった自身の姿に似ているのだと、獅子堂は気づかなかった。
――あなたは鬼です。一度死んだときに、魂が鬼に替わってしまったのでしょう。
別れ際に母親が言っていたことを思い出すことは、ついぞなかった。
悪霊と一体化した獅子堂は巨体で動き回り、太刀を振るう。ひよりと常葉は攻撃から逃げ回っていたが、建物にそれほど近づいているわけではないのに、太刀によって生じる衝撃で本殿の裏側が崩れていった。
「本殿が……壊されて」
「建物の心配など後だ」
「ですが!」
本殿にはご神体がある。神が宿るためのもの。それが破壊されたら、常葉はどうなるのだろう。
考え事をしていたら、獅子堂の動きから気が逸れた。気が付いたときには、目の前に太刀が迫ってきていた。
「……あ」
太刀がひよりを斬る直前、常葉がひよりを突き飛ばした。地面に倒れたひよりが身体を起こしてもといたほうを振り返ったときには、常葉は太刀による衝撃で吹き飛ばされていた。
「神様っ!」
ひよりは急いで常葉のほうに駆け寄った。
砂埃が舞う中、崩れた本殿にぶつかって常葉は倒れていた。仰向けにして肩を支えると、常葉は目蓋を震わせて目を開いた。
生きている。ひよりの目頭が熱くなった。
「どうしてわたしなんか庇うんですか」
――わたしは神の嫁、神に捧げられた娘。わたしこそが、神様を護るべきなのに。
涙がこぼれて常葉の頬に落ちた。
常葉の身体を支えるようにしていたひよりの手が、握られた。
「以前、そなたが倒れたとき――二度とあんな姿は見たくないと思ったから……」
あのときも、常葉は心配そうな顔をしていた。いまも見上げてくる顔は、ひよりを案じる表情をしていた。
「わたしは死にません。生きています。だから、神様も無茶しないでください」
「ああ――こんなところで、そなたを置いていけない」
笑顔を浮かべた顔と、目が合った。
ひよりが手を貸して、常葉は身体を起こした。だがひよりの背後には、不穏な足音が一歩、また一歩と近づいて来ていた。
恐る恐る振り返ると、そこには悪霊と一体化した獅子堂がいた。
常葉はいまの攻撃のせいでやすやすと動けない。睡蓮も天翔も、空閑もいない。ひよりは神社で暮らしていて、いまは小袖に緋袴という巫女装束を着ているが、人には見えないものが見えるだけで、悪霊を調伏する力などなかった。
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