七章 炎と雨(2)
それからしばらく経ち、夕方から雨が降ってきた。梅雨の時期だから仕方がない、と村人たちはみな家に引っ込み、朝になったら止んでいることを願った。
しかし雨は夜が深まるに連れて強さを増していった。
風が吹き荒れ、稲光がしたかと思うと少し遅れて雷鳴が轟く。建てられてから何年も経過した家が、がたがたと揺れた。
雷様だ。雷神が太鼓を打ち鳴らしている。
子供たちは雷を怖がって一度横になっても起きてきて、大人たちは家の外で鳴り響く騒音のせいで目を覚ました。
嵐の時期ではないのだから、村に甚大な被害がもたらされると思っていた者はいなかった。だが、真夜中になってから村にあった何本かの大木に、雷が落ちた。火がついた大木は倒れ、近くにあった家や屋敷に引火した。
村は大騒ぎになり、消火活動が行われた。火の見櫓の上にある半鐘が鳴り響く。雨が降っているのだからすぐ消えると思われた火は、風に煽られてしぶとく燃え盛っていた。
被害を受けた家や屋敷はどれも焼け落ちた。火傷を負いながらも助け出された者がいて、亡くなった者もいた。
燃えた家々の中でもっとも立派だった屋敷は、村長の孫娘が嫁入りした名家だった。孫娘とその夫は息も絶え絶えだが生き残った。だが、孫娘が抱きかかえていた赤子は、熱と煙に耐え切れなかったのか、朝になってから息を引き取った。
薬師の屋敷に運ばれた孫娘とその家族は、他の怪我人とは別に奥の部屋に寝かされていた。その部屋で、猪俣の当主から赤子が息絶えたことを知らされた村長は、怒り心頭になった。
「なんということだ……わしのひ孫が」
「心中お察しします。しかし現在、村は昨夜の雷のせいで混乱しております。被害を受けた村人に、どうか寛大な対応を……」
猪俣の当主は冷静に進言したが、俯いていた村長はがばりと顔を上げた。その目は血走っていた。
「すべては祟り神のせいだ。娘を一人捧げた程度では、神の怒りは収まらん」
「いえ、昨夜の雷は――」
祟りなどではない、と続けようとした言葉は、途中で遮られた。
「そもそも、なぜ志熊の血を引く者がこんな目に合わねばならぬのだ。――そうだ、他の村人もこの哀しみを味わえばよいのだ」
狂気に満ちた瞳で、村長はそう言った。
今年生まれた赤子を神に捧げよ。さすればひ孫の御魂は弔われ、荒ぶる神が三廻部村を滅ぼすことはなくなるだろう。
村長は村中にお触れを出した。
お触れが書かれた立て札を目にした村人たちは、ざわついた。
「うちの家も焼けた。火傷を負って、その怪我も癒えていないというのに」
「村長のひ孫だけでなく、逃げ遅れたうちの親も亡くなったんだが」
雷の被害を受けた者たちが、まず声を上げた。
「いくら村長だからといって、身勝手過ぎだ」
「こんなお触れを出すなど、気が触れたか」
「子供を産むのが命がけだとわからないのかねえ」
そうした咄嗟に出た反発の言葉が、普段は押し隠されていた疑問を呼び起こした。
「村長はよく効く薬を作れるはずなのに、昨夜は怪我人の手当てを薬師の一族に任せきりだったというが……」
「そもそもその薬の製法も、村の他の薬師に教えることなく、志熊と猪俣の家で独占してきたんだろう?」
不満が膨らんでいく村人たちに、声をかける者がいた。
「すべては祟り神の仕業だ。仕方なきことよ」
立て札を見ていた村人たちが振り返った道には、村長の屋敷に滞在していた獅子堂の姿があった。
「祟り神……昨夜の雷が?」
「英雄様がおっしゃるなら、そうなのだろう」
「荒ぶる神が雷神を呼び起こしたのか……」
納得した様子を見せる村人たちを見て、獅子堂は満足そうに頷いた。
「そして一つ提案があるのだが」
腰の刀の柄に手をかけ、村人たちを見渡して続けた。
「祟り神、荒魂は祀るのではなく調伏してしまえばいい。そうすれば、もう村に災いが起きることはなくなる」
唐突に告げられたことに、村人たちは息を呑んだ。
「なんと……」
「しかし言われてみたら、災いの種がなくなれば、もうあんな酷いことは起きぬのではないか」
「村長の行いも、祟り神の影響を受けているのだとしたら――」
驚きの声があちこちで上がる中で、獅子堂は村人たちを宥めて、宣言した。
「俺の先祖は三廻部村出身で、かつて村に災いを運んだ者を倒したという。過去の再現と行こうか」
三日ほど前に、大雨と雷が三廻部村周辺を襲った。神域にある神社は無事だったが、村では被害が出たという。
「村が心配ですね……」
神社の境内から村があるほうに視線を向け、ひよりは掃除をしながらつぶやいた。
「では、様子を見に行くか?」
「いえ、今日は午後に空閑様がいらっしゃるのでしょう」
昨日、空閑から先触れがあった。烏天狗の神使が神社を訪れ、明日、空閑が来訪する旨を伝えたのだった。
――雷が落ちたのなら、穢れや災厄を祓う大祓を行えばいい。山の神と和守谷神社の神が直々に執り行う儀式ならば、効き目もあろう。
それが空閑の提案だった。だから昨日から茅の輪や人形代の準備をして、ひよりは白い小袖に緋袴という巫女装束に着替えていた。
「大祓はそもそも今月の末に行うものなのだがな」
「そういえば、子供の頃に別の神社でそうした行事に参加したような……」
まだ月末には日がある。空閑もそのことはわかっていて、唐突に今日、行事を行うことにしたのだろうか。
参道に建てた茅の輪の確認をしていた睡蓮が、ひよりと常葉のほうへと近づいて来た。
「そもそも、この神社ではここ二十年ほど、民間で行われている行事とは無縁でした。そして人間の神職が行事を行っていた頃でさえ、常葉様が率先してそうした行事をされたことはないそうです」
「そ、そうですよね……」
常葉の過去を思えば、村の住人のためになるような行事をわざわざするはずがない。そして神域である神社で行事を行ったところで、村人は訪れることはできないのだ。
「なぜ空閑様は、いきなりこんな行事をなさろうと決めたのでしょうか」
「ひよりは村の厄を祓ったほうが安心するだろう」
「そうですが……え?」
頷いてから、ひよりは固まった。少し遅れて、頬が熱くなってくる。
「わたしのため、ですか?」
「空閑がそこまで考えているかは知らぬが。――私は、ひよりの心が安らぐならばそうした行事もよいと思う」
「あ、ありがとうございます」
常葉の心遣いに、ひよりの胸がじんわりと温かくなった。
それを一瞥し、睡蓮はやれやれと肩を落として踵を返そうとした。その直後、鳥居のほうにいた天翔が、突如として警戒の鳴き声を上げた。
ひよりが鳥居に視線をやると、見慣れない人影が視界に入った。そして存在を誇示するかのような足音が聞こえてきた。
「神域といってもこの程度か。現世の神社のほうが寂れていた分、それらしさがあったぞ」
鳥居から神社へと入って来た者が、境内を見渡しながら勝手な感想を口にした。旅装束をまとい、刀を腰に下げた男だ。町で武士や侍を見かけたことがあるが、そうした者たちとも少し違う印象だった。
尊大な態度。見下しの視線。偉そうな態度なのは空閑もそうだが、あの山の神のような親しみは感じられない。それよりも、常葉に対して敵意があるかのように思えた。
ひよりは緊張の面持ちで、来訪者に問いかける。
「あなたは……神様のお知り合いですか」
はっ、と男はせせら笑った。
「祟り神の知り合いだと。笑わせる。神とは名ばかりの、鬼や悪霊と大差ない、人に害なす存在と知り合いのはずがあるか」
「ひより。あの者は人間だ」
「えっ……ですが」
神域の和守谷神社に、これまで人間が訪れたことはなかった。現世の神社と重なり合っているが、神域に入って来てそこに住まう神や神使を認識し、言葉を交わした者は、ひよりの他にはいなかった。
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