一章 嫁入り(4)

 食事を終えた二人は、神社の鳥居の前まで出て来た。常葉はどこからか連れてきた馬の手綱を引いていた。白い鬣と体毛の立派な馬だ。その馬の鞍に跨った常葉は、ひよりに手を差し伸べてきた。


 息を呑んだひよりがその手を取ると、馬の背に引き上げられた。一気に視界が高くなる。だがそれよりもさらに、ふわりと身体が浮き上がった。常葉とひよりを背に乗せた馬が、鳥居をくぐって空へと駆けだした。


「と、飛んだ……!」


 すぐ前にある常葉の背に、ひよりはしがみついた。


「この天馬も神使だ。風の力で空を駆ける」


 説明が耳に入って抜けていく。神社や森、村がみるみるうちに小さくなっていく。神に取って喰われる覚悟はしていたはずだったが、落ちたら死ぬ状況を突きつけられると恐怖が込み上げてきた。


 久方ぶりに怖いなどと感じたように思う。いつからその感情を忘れていたのだろう。


「そ、それで行き先は……?」


 遠方にいる妖怪の住処へ行くのか、はたまた天の上におわす神に会いに行くのかと思ったが、答えはまったく違うものだった。


八武崎やぶさき町だ」


 三廻部村から一番近い町の名を、常葉は口にした。


 近いと言っても三廻部村は辺境の地にある村で、八武崎町まで徒歩で一日かかる距離だ。馬に乗れない村の住人が気軽に行ける場所ではなく、六年ほど幽閉されるように暮らしていたひよりが行ったことがあるはずがなかった。


「ひより」

「は、はい」

「景色が見えるか?」


 恐怖を覚えて思わず目を閉じていたことに気づき、そっと開いた。


「あ……」


 眼下の風景が目に飛び込んできた。森、山、川。こうして見ると、人が寄り集まって暮らしている村など、ちっぽけな存在かのようだった。


 視線を上げると、青い空と白い雲が視界に広がっていた。ここ数年ほど、空を見上げることも忘れていたことを思い出した。


「綺麗……」

「そうか」


 髪を風になびかせながらつぶやいた言葉に、返事があった。


 そういえば、と昨日の祝言のことが頭を過ぎった。もう村には戻れないと思った。猪俣の家の離れで六年暮らしたように、今度は神社から出ることなく、ずっと同じ毎日を繰り返すのかと思った。


 だが神域である神社からは常葉が出してくれた。そして、三廻部村から飛び出してさらに遠くの町へと行こうとしている。


 恐怖や不安は薄れてきて、期待と高揚で胸が高鳴った。


 ふと思った。勝手に離れの外に出てはならない、母屋へ行ってはいけないと牡丹に言われていたが、牢屋に閉じ込められていたわけではない。意思と実行力さえあれば、出て行くこともできたのかもしれない、と。




 八武崎町は賑やかな町だった。民家と田畑と小さな店しかない三廻部村とはまるで違う。町の入り口からでも多くの建物や店が建ち並び、何人もの人が行き交っているのが見えた。


 村にいた頃とは視界に入ってくる物量が違い過ぎて、くらくらした。


「すごい人ですね……」

「そうだな」

「神様はこの町にいらしたことは――」


 思わず会話を継続しそうになり、ひよりは口を押えた。


「どうかしたか?」

「いえ、その、神様と話をしていたら、わたしは誰もいない場所に向かって話しかけているということに……」


 子供の頃、妖怪や幽霊などの人ならざりし者たちにそうと知らずに話しかけてしまい、近所の子供たちに気味悪がられたことを思い出した。だから話を打ち切って、周囲を見渡しつつ、小声で理由を説明したのだが。


「心配せずともよい。いまの私は、人の目からは町人に見えるようにしてある」

「そうなんですか?」

「うむ」


「でも、白い髪の若い方はあまりいらっしゃらないんじゃ……」

「姿も服装も、他者からは普通の人間のように見えているだろう」


 それなら安心だ、とひよりは胸を撫で下ろした。


「知らない町を一人で歩かせるのは心配だからな」


 もしかして、常葉がわざわざ人の目に映る姿を取っているのは、ひよりのためなのだろうか。


 まさか、と打ち消す。村から出たことがない世間知らずを一人で行動させるべきではない、と思っただけだろう。常葉からしたら、手がかかる子供のようなものだ。だから、ただそれだけ。そう、自分に言い聞かせた。


「人に見えているなら、神様と呼ぶと不自然ですね」

「そうだな。なんと呼ぶ?」

「そうですね……」


 常葉様、でいいのだろうか。だが、この町に三廻部村の神の名を知っている者がいるかもしれない。


「主様とか――あ、旦那様でよろしいでしょうか」

「旦那様……」

「はっ、神様に対して不敬でしょうか」

「不敬など気にしないでいいが」


 そこまで言ってから無言で歩みを進められ、ひよりは置いて行かれないように早足でついて行った。


「そう呼びたいなら呼べばいい」


 しばらく進んでから、そんな答えがあった。


 町の入り口付近は遠方から訪れた者が泊まる宿や茶屋が多かったが、そこから進んで行くと店が減り、ひっそりとした道が伸びていた。


 ひと気がなくなった道を進んで行くと、柱に囲まれ切妻屋根が備えられた祠が目に入った。


 紙垂が吊るされた奥に、ひよりの腰ほどまである平べったい石が鎮座していた。紙垂の合間から、石に末広がりの文字らしきものが書かれているのが見えた。


「『八』と書かれているのでしょうか」

「経年で埋まってきているが、右上に点があるな」

「それでは、『バ』……?」


 一文字だけ記されていても、なにを表しているのかよくわからなかった。しかしこうして町の中にある以上、なにか由来やご利益があるのだろうか。


 そう思っていたら、通りかかった女性が祠に近づき、膝をついて手を合わせた。目を閉じて祈る女性のつぶやきが聞こえてくる。


「どうか、あの子を返してください……」


 真剣に祈っていた女性が立ち上がって去ろうとした際、持っていた風呂敷の結び目がほどけて、荷物が散らばった。


 ひよりは近くに転がってきた野菜を拾い、女性に差し出した。


「どうぞ」

「ありがとう。ごめんなさいね」


 荷物を受け取ってそそくさと立ち去ろうとしている女性に、ひよりは勇気を出して声をかけた。


「あ、あの。さっきのお祈りが聞こえて……なにかあったんですか?」

「あら、恥ずかしい。他人様に聞かせるつもりは……」


 余所行き用の愛想のよさでそう答えかけた女性の顔が、不意に曇った。


「子供がいなくなってしまったの。人攫いに遭ったと夫は言っていたけれど……もしかしたら人買いに売られてしまったのかも」

「そうなんですか……」

「ずっと捜しているのだけれど、この町のすべてを捜すことは不可能だから、どうしたらいいのか――いえ、あなたに言っても仕方がないことよね」


 憂い顔の女性と別れてから、ひよりは高揚した気分が沈んでいくのを感じた。


 賑やかな町にも他者を傷つける者は存在し、哀しい想いをしても必死に耐えるしかない弱者がいる。それを目の当たりにしてしまった。


「どうかしたか」

「いえ」


 ひよりは笑顔を浮かべて首を振った。

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