一章 嫁入り(2)
辺境の地にいる荒ぶる神は、時折大雨を降らし、川を氾濫させ、飢饉を起こす。三廻部村では神を鎮めるために神社を建てて神を敬い、捧げものをしてきた。
もっとも近年では和守谷神社のことを顧みる村人は少なく、宮司や巫女すら置かれていない有様で、たまに猪俣の屋敷の下男下女が掃除をしていた他は放置されているようなものだった。
その神社の神から、娘を捧げるよう要求があった。名指しされたのは、親を亡くして猪俣の家に引き取られ、神社の掃除をしていた娘だった。
村人たちは娘に同情するとともに、自分の娘や孫ではなくてよかった、と安堵したという。
神のもとへ嫁ぐことが決まってから、ひよりは花嫁修業のために料理や裁縫、行儀作法を叩き込まれることになった。朝から晩まで忙しく立ち回り、神社からは足が遠のいていった。
村長の一族の娘が着るような、華やかな着物を与えられた。髪を伸ばすように言われ、屋敷の下女が丁寧に梳かしてくれた。
ただの村娘を神に捧げるために、みなが躍起になって飾り立てているように思えた。そこにひよりの意思など存在しなかった。
十二歳になった頃から、屋敷の離れがひよりの住む場所となった。
神に捧げるのだから清廉潔白でなければならない。夫以外の異性とのかかわりを禁ずる、とのことだった。これまでもあまり会話をすることがなかった猪俣の当主やその息子とは、それ以降会っていない。
自由に出歩くこともできなくなった。猪俣の家に引き取られてからも、道で会った村人と挨拶や世間話をしていたが、それすらも禁じられた。
両親が生きていた頃が懐かしかった。由良はどんな娘に成長しただろうか。子供の頃、近所に住んでいたひよりのことを憶えてくれているだろうか。
青葉に会いたかった。会いたいはずなのに、神社にいた男の子の面影は一年経ち、二年三年経つうちに薄れていった。声を、姿を忘れていく。
「あなたも子供の頃は、近所の男の子と遊んだでしょう。その子たちのことは、忘れなさい」
牡丹の言葉が頭の中で反響する。神社で男の子と会っていたことは言っていないはずなのに、責められているように思えた。
「あなたが神のもとへ嫁げば、この村は救われるでしょう」
何度も牡丹はそう繰り返した。
「あなたが失敗したら、この村はまた、大雨や川の氾濫、飢饉が――」
――ああ、これはきっと、失敗したらわたしのせいになる。
また背負う罪が増える。どれだけ罪滅ぼしをしようとしても、赦されることはないのだろう。
神に嫁いだ者がどうなるのか、誰も教えてくれなかった。神域の民となって神に仕える。新たな神を産み落とす。そうした話の他に、神に喰われる、魂を取られる、という噂もあった。
恐ろしかった。猪俣の屋敷から、三廻部村から、この状況から逃げ出したかった。それができるはずなどないと、わかっているのに。
だったらなにも感じなくなればいい。役目をこなすだけ。なにも考えなければ、怖くなどない。
そう必死に自分に言い聞かせた結果、やがて恐怖も苦痛も薄れていった。
白い掛下を白い帯で締め、打掛を羽織る。綿帽子を被ると、顔に影が落ちて視界が狭くなった。手には末広という扇子を持ち、掛下の胸元からは筥迫が覗く。
鏡に映った顔も見下ろした花嫁装束をまとった姿も、自分ではないかのようだった。
雪が溶け、厳しい寒さも和らいできて、春の息吹を感じられるようになってきた頃。ひよりは十五歳になり、神のもとへと嫁ぐ日がやってきた。
駕籠に乗せられ、神社へと運ばれて行く。子供の頃に見かけた花嫁行列はもっと幸せそうな雰囲気があったように思うが、聞こえるのは足音のみで、外の様子も見えない。参列してくれる家族もいない。
神に見初められてからは、屋敷の離れで幽閉されるように暮らしていたので、墓参りをして両親に神のもとへ嫁ぐことを報告することもできなかった。
花嫁行列よりも前もって行うという、花嫁道具を運び入れる道具入れはしないという。ひよりは身一つで神社へと向かう。
神のもとへ嫁いでから、普通に暮らしていく未来などないと言われているかのようだった。
――神社に着いてからは、神や神社の者に従いなさい。
牡丹からそう言われてきた。
――余計なことは言わず、命じられたことだけをこなせばいいのです。逃げようなどとは思わないことですよ。
ずっとそうしてきた。それがこれからも続くだけだ。いや、神に喰われて唐突に終わるのかもしれないが。
駕籠が下ろされ、足音が去って行った。運ばれている間に感じていた揺れがなくなり、静かになった。
それからしばらく待っていると、駕籠の外から声をかけられた。
「小鳥谷ひより様ですね」
「……はい」
「開けてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
引き戸を開けられた。外はすっかり薄暗くなってきていて、黄昏時から夜になろうとしていた。青い空気が満ちている。どこかから虫や鳥の鳴き声が聞こえる。よく知っているはずの神社を囲む森は、見知らぬ地かのようだった。
駕籠の外にいたのは、ひよりよりも少し年下に見える少年だった。瞳の色素が薄く、瞳孔が縦に長い。猫のような目だ。狩衣をまとい、黒髪を肩口で切り揃えている。青い空気の中だからだろうか、髪が若干緑がかって見えた。
「……あなたが神様ですか」
「いいえ。常葉様は本殿でお待ちです」
穏やかな笑みとともに、そう答えられた。牡丹が客に対して浮かべる笑みのようだと思った。
「祝言を行います。こちらへ」
駕籠から出て、自分と同じくらいの背丈の少年について行く。石段を上がり、子供の頃に何度も掃除をするために通った神社の鳥居をくぐる。境内の参道を進んで行く。
風が神社を囲む森の葉をざわめかせ、空中を舞う蛍のような光が周囲を照らしていた。こんな時間に神社に来たことはなかったが、夜はこんな景色だったのか、と息を呑んだ。
心なしか、古びてろくに手入れされていない様子だった建物も、綺麗に整備されているように見えた。祝言を行うのだからと、念入りに掃除され整えられたのだろうか。
それともひよりがよく知る神社とは違う領域に、足を踏み入れたのかもしれない。ここは子供の頃に出入りしていた神社と同じようで異なる地、神が住まう場所だ。そう実感するには十分な光景が、視界に広がっていた。
本殿に入り、お辞儀をして顔を上げると、綿帽子の下から白い袍を着た青年が見えた。白い髪を一つに結っている。金色の瞳がひよりを捉えた。
整った容姿、立派な装束。神々しいと表現するに相応しい、人間離れした雰囲気。だが、どこか懐かしい感覚が込み上げてきた。
「……あの」
「それではこれより、常葉様と小鳥谷ひより様の祝言を行います」
少年の言葉で我に返った。そうだ、質問など赦されてはいないのだった。
宮司のような身なりの少年が大幣を振るって二人の穢れを祓い、神社に祀られた神と村から来た娘が結婚したことが宣言される。三つの盃で御神酒を交わし合い、夫婦の契りを結ぶ。披露する者が存在しない祝言は、粛々と執り行われた。
盃に口をつける直前、わずかに躊躇した。異界のものを口にするということは、異界の存在になるということ。神が住む神域の食べ物も同様だ。もう村には戻れない。もとより戻る家も居場所も、ひよりにはなかったが。
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