第25話 克服

「苦手な朝を克服……ですか」

「うん、どう……かな?」


 カチ、カチとメトロノームの音だけが響く。

 しゃがんだままだから、アリスの表情は分からない。


「……分かりました」

「ほんと!?」

「ええ、和奏ちゃんが必死に頑張ってるんです、私も一緒に頑張ります!」


 アリスは鼻息荒く、ふんすっと拳を握りしめて宣言した。


「太一さんに相談しながら、ちょっとずつ頑張っていこうね!」

「はい、和奏ちゃんも協力してくださいね……?」

「もちろんだよ!」


 さて、このままアリスと話をしてたら練習に来た意味がなくなってしまう。


「アリス、ピアノのとこまで行く?」

「はい、お願いできますか?」

「はいよ~」


 すでに白杖を仕舞っているみたいだから、私が連れて行くしかない。

 それに、等間隔に並んだ机の間を白杖で通るのも大変だ。


「それじゃあ歩くね」

「はい」


 アリスの両手を引きながら、私は後ろ向きに歩く。

 つい、メトロノームの刻む拍子に合わせて一歩、一歩と歩いてしまう。


 机の群れを通り抜けた後は、ピアノが置いてある教壇へ上るだけ。

 ここは一段高くなっているから、つまづかないように注意が必要だ。


「はい、ピアノに到着~」

「ありがとうございました!」

「いえいえ、段差には気を付けてね?」


 薄らとチョークの粉が積もった鍵盤蓋を開けながら、アリスはニコリと微笑む。

 後で鍵盤蓋をフーってしてやろうかな。


 さて、私も自分の練習を再開しよう。

 ペタンとスリッパを鳴らしながら教壇を降りて、フルートケースを置いていた机に向かう。


「ふー、ふーっ……ん~~~っ!」


 アリスが指に息を吹きかけたり、手を組んで背伸びをしているのを眺めながら、フルートを組み立てて行く。ここからなら、アリスの手元がよく見える。


「頭部管冷えちゃってるよね……やっぱりか」


 少し休憩し過ぎた。

 せっかくロングトーンで温まっていた頭部管も、時間が経ってヒンヤリと冷たくなっている。


 カチャカチャと鳴るキィや、ペタペタと肌に吸い付くようなくもりのない管、制服の衣擦きぬずれの音を切り裂くように、ピアノの音が音楽室を満たした。


「いつ見ても、アリスの指って綺麗だなぁ……」


 ドーレーミー、と右手で単音の音階を弾き始めたアリス。

 次第に左から右、右から左へと往復する速度が上がる。それを左手でも繰り返す。


 ホー、ホーと楽器に息を吹き込みながら楽器を温めていく。

 そうして、いざフルートを吹こうとしてハタと止まる。


「あ、メトロノームが……」


 棚に放置していたメトロノームを振り返ると、気付かぬうちに動きを止めていた。

 キィを上にした状態で机に置いて、メトロノームのねじを巻いていく。


 ガチチチ、と振り子についた重り固定鍾を根本に近付ける。

 テンポは八十ほどに設定した。


 先ほどよりも早くカッカッカッと拍子を刻み始めた。

 机の上に置いたフルートを手に取り、さっきまでロングトーンをしていた棚の前に立つ。


 フルートを構え、タイミングを見計らって息を吸う。


「スッ――」


 ホーーーッとピアノの音に重なるように、私のフルートが低い音を奏でる。

 今日、初めて出した音だからピッチもズレているし、出だしの処理が雑だった。


 そのまま四拍吹いて四拍休み、音階を一通り吹いていく。

 思い通りの音じゃなかったから、眉とか肩に力が入ったのが自分でも分かった。


 ――カッ、カッ、カッ。


 力んでいては、いい音は出せない。私、リラックスだよ~リラックス。

 恐らく、原因はタンギングだ。


 他の楽器と違って、フルートには唇やリードを振動させるマウスピースがない。

 音を出すには、一瞬だけ息の通り道を塞いでを作る必要がある。そのために、ほぼ必ずタンギングが必要になるのだ。


「スゥゥ……」


 トゥーと言いながら、すぼめた唇に舌でちょんっと触れるイメージなんだけど、これが強すぎても弱すぎてもいけない。


 一音を吹き終える度に、昔の感覚を取り戻すべくタンギングの強弱やスピードを微調整していく。


 四拍の中に、息全てを込める勢いで吹き込む。目指すは芯があって、中身の詰まった音。


 音階を一往復したところで、一度フルートから口を離す。


「はぁ……まだまだダメだなぁ」


 ポツリと、口から声が漏れてしまう。

 あの頃の私ならこんなところではつまづかない――ある種、過去の栄光にすがってしまう私がいた。


 それもこれも、全ては焦りからきている。


 一か月でブランクを克服する、とは言っても現実的な時間に余裕があるわけではない。器楽コンクールから逆算すると、ギリギリどころか思いっきり時間が足りない。


 今は五月で、器楽コンクールの開催は六月の中旬。

 一か月かけてブランクを克服できたとして、大急ぎでコンクール曲を練習しなければならない。


 安くないお金を払ってコンクールへ出る以上、少しでもいい結果を持ち帰りたい。

 その思いが、ますます焦燥感しょうそうかんをかき立てる。


 カッ、カッ、カッ――。


 できることなら、一刻でも早くアリスと『ごしきひわ』を合わせたい。

『ごしきひわ』の楽譜を捲ってしまいそうになるのを、何度我慢したことか……。


 ――ダメだダメだ、練習に集中しろ!


 頭を軽く振って、雑念を追い出す。

 再び楽器を構えると、次は八拍で音階を一往復。


「すぅ――」


 タンギングが綺麗に成功する確率は、おおよそ四割。

 到底足りない。それに、今のブレスは勢いが少し甘かった。


「欲しいのは、すぅ――じゃなくてスッ――なのよねぇ……」


 傍から聞いていれば、微妙な違いだと思う。

 だけど、いざ演奏するとなったらこれが死活問題になる。


 メロディーラインをフルートが担うという役割上、途中で音がプッツリ途切れるということは、目立つ減点対象になる。


 今までは、大人数の吹奏楽部に所属していたからブレスの位置を、ゆいーのと事前に打ち合わせをすれば済んだ話なのだけど、一人だとそうはいかない。


 コンクールで上位を目指そうと思ったら、絶対に避けなければならない。


「立ってるだけでも息を使っちゃうし、勝手が違うね……」


 思えば、フルート教室に通っていた時以来の立奏。

 座奏だった吹部の時と、勝手が違うのは当たり前か。


 先はまだまだ長いようだ。

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