第6話 度胸

 少し待ってみたけど、インターホンも応答の気配がない。


「念のため、もう一回……」


 一応、もう一度だけインターホンを押してみる。


「う~ん、反応ないね」


 応答がないということは、防音室でピアノを弾いているか、ピアノを弾いたまま寝落ちしている可能性が高い。

 驚くべきことに、千代野家にはアリスのための防音室と、目が飛び出るくらいお高い値段のグランドピアノが備え付けてある。


 私も中学生時代は、自宅では練習が出来ずによく千代野家のお世話になっていたものだ……。


 盲目、と聞くと一人で出歩くのも難しいと思うかもしれないけど、意外と何とでもなる。

 加えて、アリスは完全な盲目ではなく手動弁。


 視野が非常に限定されているけど、拡大楽譜を使ってギリギリまで顔を近づければ、なんとか文字や音符は読み取れる。


 人によって差があるんだけど、アリスは手動弁の中でも割と見える方らしい。その代わり、他の手動弁の人と比べると、極端に視野が狭いとのこと。

 それに、盲目の人でも何がどこにあるか分かっている自宅なら、介助なしに生活することだってできる。


 アリスが生れてすぐ、手動弁だってことが判明した時に、ご両親がバリアフリー化してるから、かなり快適だと思う。


「――はっ、いけない! 今何時だっけ!」


 そんなことを考えている場合ではなかった。


 今日は高校生になって二日目の朝。

 入学式が終わり、本格的に学校生活が始まるというのに……。


「う~~~、時計時計……」


 ブレザーと、シャツの奥へもぐり込んでしまった腕時計を、指先で掻きだす。

 高校の入学祝いに、両親に買ってもらった細いベルトと淡いピンクゴールドのお気に入りだ。


 連絡用にスマホも買ってもらったんだけど、少し格好つけて腕時計を見るようにしている。

 気分は忙しない都会を行くOL。ワタシ、カッコイイ。


 高校生、花のJKになったんだし浮かれてるんだよ。

 今だけ許してよね?


 それに万が一、スマホが先生に見つかったら没収される。

 まあ、隠れて使う子は出てくると思うんだけど……。


「えと、今が七時三分……バスの時間が――七時五十五分」


 記憶していた時刻表と照らし合わせて、脳裏にタイムスケジュールを思い描く。


 高校へ行くには、ここから歩いて二、三分のバス停から八代高校行のバスへ乗らなければならない。

 アリスが寝坊していた場合、四十分とそこらで支度を整えないと遅刻確定、ということ。


「~~~♪」

「――うわっ!?」


 するとピロリン、と軽快な音がかすかな振動と共に、ポケットから鳴り響いた。


「え、お母さん?」


 スマホの通知画面に、お母さんからのメッセージが表示されていた。


和奏わかな、言い忘れてたけど、太一さんは急患で呼び出しらしいから、家にはいないからね》

《バスに間に合わなかったら、お母さんが車出してあげるからね。和奏、ファイト!!》


「まじか……いやまじか――!」


 無意識に口から声が漏れる。

 とてもマズイことになった。いや、遅刻する可能性が低くなったのは嬉しいんだけどさ。


「さすがに荒療治が過ぎるって……」


 頼みの綱である太一さんがいないということは、私がアリスの身支度も手伝わないといけないということである。


 お母さんは、もっとこう……そう! 手加減とかを知らないのだろうか。

 これじゃ、崖っぷちに追い込まれてる気分だよ。


 私はもう少し、ゆっくりとアリスとの関係を修復したいと思っていたのに、様子見する時間すらないじゃん。それとも、もう十分様子見はしただろう、ってことなんだろうか。

 もし仲直りに失敗したら、高校生活二日目にして私はちりになりかねないよ……。


「すぅーーー、はぁーーー……ヨシッ、やるしかない!」


 春美さんが妊娠して実家に帰ると聞いた時、こっそり合鍵をもらっておいて良かった。


 背負っていたリュックから鍵を取り出す。

 私は鍵を握りしめたまま、扉の前でピタリと動きを止めた。


 ふいに浮かんできた想像が、ぐるぐると頭の中を駆け巡っている。

 もしかして、春美さんもうちのお母さんとグルだったのでは?


 娘の親友で十年来のご近所さんだからって、当時中学生の私に合鍵なんて渡す???


 もし私の妄想が事実であれば、気付かない内に外堀が埋められていたことになる。


 あー……気付かなくて良いことまで気付いてしまった気分だ。結局、私はアリスと仲直りするほかないのだ。


「お、おじゃましまーす」


 インターホン横の門扉もんぴに合鍵を軽く触れさせると、カシャッと軽い音がしてロックが解除された。


「ビビるな私、女は度胸!」


 何の自慢にもならないけど、小学生よりも小さな頃から、この家に入り浸っていたのだ。


 ここはアウェーじゃない、ホームなんだ!

 自分を鼓舞しながら、千代野家へ足を踏み入れた。


 プッシュプル錠に、じゃこりと鍵を差し込んで捻る。

 自宅の物より聞きなれたであろう、ガチャリという開錠音。


「お邪魔しまーす、和奏ですー」


 ガコリとハンドルを引いて、玄関を開ける。

 家に入ってすぐ、挨拶をするも返ってくるのは静寂ばかり。


 人が動いている物音もしないし、電気もいていない。

 私のために用意された、薄ピンクのスリッパを履いて玄関のスロープを歩いていく。


 目指すは一階の奥にある防音室。

 電気を点けながらリビングに入る。


「えーっと、これがアリスの朝ごはんとお弁当だね?」


 テーブルには、ラップが掛けられた料理が用意してあった。卵とハム、ほうれん草がトーストに乗せてある。普通に美味しそう。


 視線を上げると、廊下の突き当りにある防音扉の縦長の窓から、明かりが漏れていた。ソファの傍にリュックを置いて、防音室を目指して歩く。


「あー……アリス、また寝落ちしてるパターンだ」


 この扉の向こうに、アリスがいるんだ。

 自然と、鼓動が速くなる。扉に手を掛けるのを、臆病な私は躊躇ちゅうちょしてしまう。


「やるしか、ないんだ」


 ここまで来たのに、何もしないわけにはいかない。

 今から、優柔不断で臆病な私とはさよならするんだ。


 そう決意して、震える手で防音室の少し重たい扉を開けた。

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