為梨ハンズのカメラ目線

奈保坂恵

第1話

 

 桜花おうか女学院高等部の朝の教室は、クラスのほとんどが揃っていながらもしっとりと静かだった。各々、友人と談笑したり、着席して授業の準備をしていたり。彼女たちはみな少女だった。同じ制服を、それぞれ好きなように着こなしている。


 その教室に、ひとりの少年が入った。すると少女たちの視線が訓練でもされたかのようにさっと後方の扉に集まる。

 少年は息を切らした様子で軽く汗ばんでまでいる。その面立ちは良く言えば素朴で、悪く言えば地味で、普通に言えば普通の、大人しそうな少年だ。


「おはよう、飯原いいばらくん。遅刻ギリギリじゃない」

 少年に声をかけたのは、クラス委員長の神長かみながさんだった。長いおさげを揺らして眼鏡越しに微笑みかけている。

「嗚呼、おはよう神長さん。まぁちょっと色々あってね……」

 彼はそう言って、自分の席までよろよろ歩く。


「飯原くんてば、また遅刻だな」

 からかうような調子で話しかけたのは、前の席の虎節こぶしさんだった。ショートカットが爽やかで、八重歯がちらりと覗く。

「まだ遅刻じゃないんだけどな……」

「もう遅刻みたいなもんだろ。な?」

「知らないわよ」


 虎節さんに話を振られ、冷たくあしらったのは隣の席の七菜なななさん。ポニーテールを翻して、つんと前を向いてしまう。

「ん、んんー……」

 彼の左隣の席で、うつ伏せになっていた子が起き上がった。まだ眠たげな目をこすっているのは水仙すいせんさん。ふわふわのセミロングが肩からさらさらと落ちていく。


「あ、飯原くんだ。おはよぉ」

「おはよう、水仙さん」

「おやすみ〜……」

「まだ寝ちゃうの?」

 水仙さんは「寝ないよぅ」ととろけ眼でくすくす笑った。


 神長さんも虎伏さんも、つんと澄ました七菜さんですら、そして言わずもがな水仙さんも、彼を見つめる眼差しはうっとりと、頬はますます薔薇色に染まっていた。

 スピーカーから響く淑やかな鐘が告げるのは、ホームルーム開始の合図だ。彼を取り巻く彼女らも、その他クラスメイト皆々銘々に席に着き始め、前方扉からは先生も入ってきた。


 少年はそっと、こちらを振り返る。

「ハンズちゃんも、そろそろ座ったら?」

 私に声をかけながら。

 そうだね、飯原くん。もう授業始まっちゃうもんね。




 我が友人、飯原ニントくんは、人に好かれる人だ。

 容姿こそ冴えない、というかどこにでもいるような──つまり清潔感があって、威圧感を放たず、近寄りがたさも負荷も与えない。故に概ね好印象を与える顔立ちをしている。

 では、さして見た目が芳しいわけでもない飯原くんに熱っぽい視線を送る彼女らが何故、彼にお熱なのかといえば、容姿ではなく彼の行動の結果の賜りに他ならない。


 神長さんの中学時代の黒歴史に手を差し伸べ、虎節さんの夢への諦観を拭い、七菜さんの家庭問題で傷ついた心を撫で、水仙さんののっぴきならない過睡眠体質を慈しんだりした──のは別の話なので、今は一旦置いておく。

 どうしようもなく人に好かれやすい――好かれるイベントが起きやすい――体質だ。


 クラスの大半は、すでに彼に心を奪われたり射止められたりしていて、(優しい飯原くんは人のものを奪ったり射止めたりなんてしないけど)飯原ハーレムが着実に建国されつつある。今日遅刻気味に登校してきたのも、曲がり角で女の子とぶつかったり、道の端で項垂れる少年に手を貸したりしていたからだ。今頃二人とも飯原くんを忘れられないに違いない。


 ところで、私はこの四月に転入してきた転校生である。現在は秋も深まる十月。

 あれは約半年前――新たなる教室への第一歩を華麗に決めた私は戦慄した。転校生のご挨拶などという夢いっぱいフラグいっぱいなイベントを前にして、クラスメイトたちは黒板を見ていなかった。私を見ていなかった。

 まるで不良校の所業だが(不良校だったらむしろメンチを切るのだろうか?)ここは美と礼節を重んじる桜花女学院である。何があったかといえば、前日に皆そろいもそろって飯原くんとの何かしら進展イベントがあったがために彼に見惚れて、私を見放していたのだ。

 恋は盲目なり。ちょっとくらい脇目も振ってほしかったが。

 

「今日も朝からモテモテだねぇ、飯原くん」

 そんなわけで、彼の惚れられ度合は格別だ。これがまた容姿が理由でないのだから性質が悪い。飯原くんは悪くないけど。

「からかわないでほしい……」

 時刻は十二時。中庭のテラス席で私と飯原くんの二人は堂々と四人がけテーブルを挟んで座り、緑美しい景観に囲まれながら昼食をとっていた。


「後ろにいたんなら声かけてくれて良かったのに」

 飯原くんはそう文句を言った。私は焼きそばパンを頬張りながら「ん?」と聞き返す。

「嗚呼……つい」

「ついじゃないよ……ちなみにいつから僕の背後とってたの」

「駅からずっと」

「探偵の所業……」


 これでも特技なのだ。飯原くんが曲がり角で女の子とぶつかったり、道の端で項垂れる少年に手を貸したりしている様子はばっちり見ていた。

 焼きそばパンを早々に食べ終えて袋を畳む。飯原くんはまだお弁当の半分あたりだ。肉じゃがの人参をつついている。


「カイカちゃん、遅いな。用事でもあるのかな」

山桜桃目ゆすらめさんなら、今日はお休みらしいよ」

「え」

 飯原くんが箸から人参を取り落とした。綺麗に元のカップに転がりこむ。

「……カイカちゃんと同じクラスでも無いのに何で知ってるかなぁ」

「普通だよ普通。ちゃんと先生に聞いたもん。正規の手順で聞いたもん」

「不正規の手順も持ってそうでヤだな……」


 実は不正規の手順を踏んでから事実確認的に先生に聞いた、というのが正しい順だが、嘘は言ってないので黙っておく。

 焼きそばパンの袋を広がらないよう小さく結び、テーブルの端に寄せる。飯原くんの向かいの、本来埋まっているべき空席に目をやりながら、ブレザーの胸ポケットから一枚の紙きれを取り出した。その質量は紙切れというより手紙なのだが、内容がしょうもないのでゴミ的に言っておく。


「飯原くん。良い話があるけど、聞く?」

 今度こそ人参を口にし、噛んで飲み込んだ飯原くんは頷いた。

「ハンズちゃんの話なら、何でも聞きたいよ」

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