2.世界で一番

 その日、いつか約束した、ジムへ連れて行って貰う事になった。

 ジムとは、キックボクシングのジムで。

 今、千尋はトレーナー相手にスパーリングしている。千尋は遊びに行っているだけだと言ったけれど、結構な本気モードで。

「あいつ、こっち本気でやる気ねぇかな?」

 そんな千尋をベンチに座って眺めていると、ジムを経営しているオーナーがそう声をかけて来た。

「遊びに来てるだけだとは言ってましたけど…」

「まあ、身体はデカくはねぇが、でかけりゃいいってもんじゃねぇ。あいつ、勘がいいんだよ。センスがあるって言うか──」

 オーナーは四十代後半。フェザー級で世界チャンピオンにもなった事があるのだとか。

 オーナーも大柄な方ではない。短く刈り上げたツーブロックスタイルの横顔は、なかなか引き締まって見えるが。そうしていれば、背後から声をかけて来るものがいた。

「やらないって断言してましたよ? ケガしたら仕事にならないって」

 オーナーと二人話していた所に割って入って来たのは、長身でガッシリとした体格の青年だった。髪は短めでアッシュカラーにカラーリングしている。

「俺、あきら。よろしく。千尋とは友達──」

 伸ばされた右手を握り返そうとすれば。

「拓人! そいつのきったねぇ手なんか、握らなくていい」

 いつの間にかスパーリングを止め、リングロープに身体を預け千尋が見下ろしていた。

 朗はフンと鼻先で笑って見せたあと、俺の伸ばしかけた右手を無理やり掴み、ギュッと握ってブンブン振って見せる。

「拓人って言うんだ? なに、千尋のどこが良かったわけ? 俺も男女気にしないから。あいつに愛想尽きたらいつでも声かけてよ。あんた──なかなかいい線、行ってる…」

「?!」

 朗の遠慮ない視線にアワアワするだけで、抵抗できなかった。

 と、すかさず千尋がリングから飛び降りて、俺と朗を引き離す様に割って入る。

「…だから、イヤだったんだ」

「なんだ? 恋愛でも俺に勝てないって? 良く分かってんじゃねぇの。情けねぇな、千尋」

「…上、あがれ。ぶっ潰す」

「へぇ。やれると思ってんの?」

 ヘラヘラ笑う朗に激高した様子の千尋。嫌な雰囲気だ。

「止めときなよ。ホント、怪我したら──」

 止めに入れば朗が。

「大丈夫。一発で仕留めるから。怪我しないって」

「抜かしてんなよ。いいから、あがれ」

 千尋はこちらを見ようともしない。

「オーナー、いいんですか?」

 俺は何とか引き留めたくて、オーナーに助けを求めるが、

「まあ、怪我はしねぇから。たまには本気でやってもいいんじゃねぇか?」

 全く止める気無しだ。逆にやらせたくて仕方ない様子に、俺は諦めた。


 打ち合いが始まって。その動きの速さに驚く。生でボクシングの試合さえ見た事が無いのだ。

 パンチに加えてキックも出て来るから、油断できない。それらが繰り出される度、声が漏れギュッと手のひらを握ってしまう。

 朗は言った様に一発を狙っている様だが、千尋は隙を見せなかった。本来なら三分でラウンドが終わるらしいのだが、練習だからとオーナーは制限を設けない。

 聞けば朗はプロを目指しているのだと言う。体重も千尋よりあり、実際なら階級が合わない相手同士だ。

 普段、遊び程度にやっている千尋と、真剣な朗とでは差があり過ぎる。短時間ならまだしも、長引けば長引くほど不利になるのではと思えた。

 危ないと判断すれば、オーナーは止めると言ったけれど。じっと見ているばかりで一向に止める気配はない。

 互いに決定的な攻撃がないまま、三分過ぎ、五分、十分と時間が経つ。やはり千尋に疲れの色が見え始めた。


 もう止めないと──。


 俺はオーナーに視線を送る。顎に手をあてたまま、オーナーは暫く見ていたが、千尋の足元がフラつき出した所で。

「そこまでだ──」

 言いかけた所で、互いに最後の一発が繰り出され。朗のキックと千尋のパンチが交錯する。

 あっと思った時には、二人ともリングの上に倒れ込んだ。

「千尋っ!」

 タオルを手にリングに駆け上がる。朗の介抱はオーナーがしてくれた。

 俺は寝転がったままの千尋の傍らに座り込み、タオルで流れる汗を拭う。

 千尋は顔を腕で覆っていたが。

「あ──格好ワル…」

 そう呟く。俺はタオルの端を握りしめながら。

「千尋はなにしたって、どんなだって、格好いいよ…。でも、自分を削るみたいなの、イヤだ…」

 見ていられなかった。幾ら練習だとは言え。


 どちらか倒れるまでなんて。


 俺には格闘技観戦は向いていないのかもしれない。特に千尋がやり合うのは勘弁だった。すると、千尋は掲げたグローブを俺の頬に軽く当て。

「…泣くなって。マジなのはやんない。な?」

「……っ」

 俺はコクコクと頷いた。



「と、言うわけで、やらないんで」

 千尋はシャワーを浴び終え着替え終わり、その日のお遊びを終了した。オーナーは渋々頷く。

「まあ、可愛いのに泣かれちゃあな…」

 頭を掻くオーナーに、今更ながら恥ずかしくなる。あの後、千尋の介抱の手伝いの間中、ずっと泣いていたのだ。


 恥ずかしい。


 けど、千尋に何かあったらと思うと、我慢出来なかったのだ。

「拓人を泣かせたくないし。元々、ストレス発散のつもりだったんで。それ以上には真剣になれないっす」

「…仕方ねぇ。が、練習相手にはなってやってくれ。朗もつまらないだろうからな?」

 と、同じく着替え終わった朗が帰り仕度を整えつつ。

「千尋で役に立つかどうか。ま、サンドバッグよりはマシだよな?」

「…その減らず口、いつか叩きのめしてやる」

「楽しみに待っててやるよ。のせる日をな? 拓人も、またな!」

「気安く名前で呼ぶんじゃねぇよ!」

 千尋の声にヘラリと笑って、ポンと俺のお尻辺を叩くと先にジムを出て行った。

 その背を見送りながら、

「……も、なんかセクハラオヤジ」

 そうボヤけば。

「あいつ。あれでまだ十六歳」

「は、ええっ?!」

 驚きの声に千尋はため息をつくと、

「あいつもしつこいから。もう、拓人はここに連れて来ない」

 強く宣言する。俺はそっかと呟きながら。

「でも、千尋。格好良かった…。ちょっとなら、また見たかったのに…」

 倒れるまでやるような、激しい打ち合いは嫌だけど、スパーリングくらいなら大丈夫。

 なかなか格好良かっただけに、見ることが出来ないのは残念だ。

 すると、こちらをニヤリと笑んでジッと見つめた千尋は。

「じゃ、俺のセコンドしてよ。リングの側にいて、インターバル中にタオルとか水とか持って来るやつ」

「う、うん?」

「やった! スパーリング、気合い入るって」

「なら、練習試合の方がいいだろ? セコンドの勉強にもなるぞ?」

 横からオーナーが入って来る。

「え? ええっ」

「だーかーら。試合はやらないって」

 千尋は否定するが。

「練習だ。練習。でなきゃ、朗、潰せねぇだろ?」

「ぐっ…。でも──」

 チラと視線が俺の方へ向けられた。俺は千尋の思いを汲んで、ふうとため息をつくと。

「──いいよ。オーナーが見ていてくれるなら。それに、見てない所で怪我されたくないし…」

「…ホント?」

 覗き込んで来る千尋が可愛くて、吹き出してしまう。

「いいって。千尋が本当にやりたいなら、俺は何も言わない。セコンド?…って、よく分かんないけど、俺でいいなら教えてよ」

「リョーカイ!」

 ニコニコと笑んだ千尋は本当に嬉しそうで。まあ、いいかと思ってしまう。

 俺がちょっと我慢すればいいだけのこと。


 それに。


 オーナーと話す千尋の横顔を見ながら。


 やっぱり、格好良かった。


 リングでキックやパンチを繰り出す千尋は、今までで見たことのない、鋭い空気を纏っていて。惚れ直したのも事実。


 ちょっと、自慢したいくらいだ。


 あの格好いい人は、自分の大切な人なのだと。


「拓人! 絶対、あいつダウンさせるから。見てて」

「ん。了解」

 満面の笑みで振り返った千尋が眩しくて、ドキリと胸が高鳴った。


 千尋は、世界で一番、格好いい。



ー了ー

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る