第2話

「ボルト足りていますか? 七本あるみたいです」

「うん、問題なしだね」

「じゃ、やりましょうか」


 私たちは以前から考えていた同棲を実現するため、中野の二人暮らし向けのアパートへ引っ越しをし、その初日である今日、私たちは協力しながら本棚やらベッドやらデスクやらを汗をかきかき組み立てていた。義弥は丁寧にボルトやピンの数を作業前に数え、組み立てるときも失くさないように小分けの袋からひとつずつ取り出して作業をした。私は彼のそういったところに、改めて好感を持った。

 ベッドを置き、マットレスにシーツをかぶせた敷布団を乗せ、用意しておいた軽い掛け布団を広げる。完成した寝室の入り口に二人で並んで見渡すと、寝室はまっさらな部屋よりもずっと私たちの部屋というような表情をした。


「ダブルべッドだとめちゃくちゃやる気ある人たちみたいじゃありません?」

「でも君セックス好きだろ」


 義弥を見ると、唇の片方を引き上げた微笑みに失敗したような気まずそうな顔をしていた。この青年はちょっとしたときに憎まれ口をたたく癖があった。私がキスをすると、一瞬触れあったときに身体を離された。しなやかな関節がぬるりと私の腕を抜けた。


「まだ半分じゃないですか。茶の間作るんでしょう。そんでビールを飲んでご飯にしましょう」


 義弥はリビングを作るのにもよく動いた。最後には私はもう疲れてしまって、家具を支えたりなどを補助的な立ち位置に回った。カーペットを敷き、テーブルと椅子を配置し、テレビをつなげた。空っぽな新居はこのときから私たちの部屋になった。

 とはいえ、まだこまごまとしたものが残っている。茶の間に積まれた義弥の段ボール箱を壁際に寄せようとすると、義弥がそれを隅にずらした。


「すみません、それ後で僕が片付けておくので、開けないでくださいね。本とかも入っているので」


 乱読家で、書籍を多く所有している義弥は、それなりにこだわりもあるのだろう。うなずいて、別の場所を片付けていく。そうしている間にガスの開栓が行われ、ライフラインが確保されたので義弥が料理をした。


「簡単なものだけですよ。冷蔵庫だって今ビールしかないですし」


 そういって、義弥はパスタを茹でて簡単なコンソメスープを作った。それでも私が食べてきたものよりも手の込んだものだった。私は自炊などほとんどしていなかったのだ。レトルトのソースをパスタにかけ、私たちはビールで乾杯した。


「初めての晩餐だな」

「晩餐っていうにはちょっと質素すぎましたかね」

「十分だよ」

「明日はいいものを食べましょう」


 義弥はとてもうまそうにビールを飲んだ。私たちが出会ったときからずっと、義弥は多く酒を飲む男だった。しかし、酒の飲み方は全く変わった。

 出会ったときの義弥はひどい飲み方をしていた。ゲイバーで酔っている義弥は血色がよく健康そうに見えたし、陽気で話しやすく、あっという間に友人を作ってどこか――多分ホテルだった――に消えていった。適量の酔いである限りは、素の性格というには完璧すぎる酔い方をしていた。酒に酔って気が大きくなった若い男というものの完璧な振る舞い。酒を飲む彼の周りは常に違う男がいた。

 しかし、彼が単独で飲んでいるのを見かけて二人で飲んだことがあるが、誰かといるときとは全く違う飲み方をしていた。「酒はいい。酒は何も言わない。静かでいい」。彼は彼にとっての静寂を求めていたのだと思われた。そして実際、獲物を――つまり他の男性を――狙っていないときの飲み方は本当にひどいものだった。酒の許容量を把握し、それを越えるために飲み、吐く。吐いたらまた飲む。悪酔いをするために飲んでいるような節さえあった。


「吐くときには、がつんって衝撃がある。たまらない。あれは誰にもできないんだ。頭の中をかき回されて、胃が中から突き上げて、食道がうねって、入れたものがすごい勢いで出ていく。冗談抜きで世界がぐちゃぐちゃになる。苦しくても泣いても誰も助けられない。みじめで悲しくて、それがたまんなく気持ちよくてしょうがないんだ。自分が何者かわかるから」


 なぜそんな飲み方をするのか、便座を抱きかかえるような姿勢の彼の背中をさすりながら聞くと、そういう旨のことを義弥は言った。言っていることの数割も理解できなかったが、それでも私は覚えている。


「酔ってるふりをして無理に騒ぐのも疲れないか?」

「でも必要なことなんだ」


 ただの酒量を把握できない男なら私は交流を絶っていたが、意図して限界以上に飲んでいたり、かと思いきや、あまりに完璧な飲み方をしたり、モンタージュ的に不整合な彼のパーソナリティに、むしろ私は惹かれた。私がこの背中をさすらなかったら、この男はきっと一人で吐いていたのだろうと思ったのだ。そして路上で眠ったり、帰りの駅でホームから線路に落ちたりして一人で死ぬかもしれなかった。

 死。

 ほかの多くの人間がそうであるように、私は四十を越える今まで、人生の分岐点のようなところで多くの選択を行ってきた。それは私の意志で決まるものもあれば、選択は形式的なものでただ流されるだけのものもあった。その中でも死は激流のように私を押し流し、脈絡のない場所に連れて行ってしまう。またそんな目にあうことは避けたかった。自分の知らないところはもう仕方がない、そういう諦めはついているが、義弥の危うい飲み方を放置する気にはなれなかった。


 義弥は特定の好みというものを持っていなかった。あるときは同年代のさっぱりとしたやせた青年といたり、ジムで丹念に鍛えているような壮年の男といたり、還暦を過ぎていそうな太った男といることもあった。年齢も顔立ちも頭髪の量も、性格が内向的か外交的かも、それどころかポジションも彼にとっては勘定の外のようだった。彼にとっては明確な判断基準があるようだったが、誰にも分からなかった。しかしあるとき、私と一度交流のあった男と義弥が一緒にいるのを見かけたことがあって、私は聞いてみることにした。


「文章のあいさつで『こんにちは』をきちんと書く人が好きなの? つなぎの『は』で『わ』を使わずに」


 義弥は、これまでにないほどにっこりと笑った。その静かな笑みは一瞬だけで、すぐに大きな爆笑が用意された。私は髪ももう薄いし、ジム通いもやめたので体は中年太りを始めている。でも義弥の中で、外見ではない何かが認められたようだった。

 この先を私は一人で生きていくのだと思ってきたし、別にそのことについての感慨もなかった。しかし、私は一人でいるよりも義弥といる方が楽しかった。それから義弥とより親しくなったのだった。


 パスタとコンソメスープの食事が終わり、私が先にシャワーを浴びた。義弥は長い時間シャワーを浴びていた。ローライズのボクサーだけの姿で寝室にやってきた義弥は、ベッドに腰かけた私の隣に座った。


 電気は暗くしていない。義弥は絶対に電気を消して眠ろうとしなかった。義弥は眠りが浅く、警戒のたえない獣のように義弥はどのような物音でも起き、再び寝ることは困難を極めていた。


「今日は盛りだくさんだった」

「引っ越しもして部屋も作って忙しかったですね」


 私は彼の身体を倒した。一瞬だけ、義弥の身体が恐ろしく硬くなったが、すぐに物事はうまく運んだ。そして彼はこれまでにないほど早く深く高いところに到達した。私はその時の声ほど悲しい響きの声を聞いたことがなかった。ベッドに倒れこむようにして脱力した義弥の身体は、空っぽな印象があった。

 そして目覚めたとき、義弥は〈狼〉になっていたのだった。

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