背中合わせの恋人たちへ
神木
第1話
湿った熱気の中で、強い獣のにおいが渦巻いていた。毎年永遠のように続く真夏日のど真ん中で、私と義弥は上野動物園に来ていた。ただのデートである。駅で待ち合わせをして、動物園を散策し、そのあとは居酒屋で酒を飲んで帰る。そういうプランだった。
私は動物園が苦手だった。囲われ管理され愛玩され研究される動物たちを眺めるとき、私はいつもなんとも言えない気持ちになった。そしてそれを意にも介さず無邪気に名前を呼び――彼らには名前なんて本当はないのに――安全な自然を楽しむ客たちにも私はうまく言葉にできない居心地の悪さを覚えたものだった。死と隣り合わせで野山を駆けるのか、柵の内側で管理されて天寿を全うするのか、そのどちらが彼らにとって幸せなのか私には想像ができない。ただ、彼らには選択肢がなかった。そのことが私にひっかかっていた。
当時そこにはシンリンオオカミの「あがた」と「こずえ」の番いがいて、園はちょっとした狼特集のようなものが組まれていた。義弥は少しだけはしゃいでおり入口に設置されたパンダの鑑賞もそこそこに、虎だの鷲だのを流し見して、狼の飼育されている区画に向かった。
この暑すぎる環境では他の人間はおらず、園内は私たちだけだった。その気になれば手をつなぐこともできそうだった。もちろん、そんなことはしない。ただ立っているだけでじっとりと汗ばむため、触れることははばかられたし、もとより一回りも下の恋人である。触れる選択肢はなかった。
「本宮さん」
狼のブースに着くと、義弥が私を呼んだ。やや高い柔らかい声だった。
「うん?」
「あの二人はもうここに慣れたみたいですね。暑そうですけど」
柵に腕をかけて前のめりの姿勢で義弥は狼を眺めている。眉にかかるやや長い前髪が、汗ばんだ額に何本か張り付いている。暑さのためか肌がいつもより赤くなっていた。
あの二人というのは狼の番いのようだった。多分、「二匹」と表現すべきところを意図して「二人」と言ったのだろう。大きいほうの狼と小さいほうの狼がいて、木陰で休んでいるのが見えた。小さいほうは地面に身体を置いて新井息をしていたが、大きいほうは四本の足で立ってどこか遠くを見ていた。
どちらが雄でどちらが雌なのか私にはわからない。それに新しい環境に慣れたのかどうかも私にはわからなかった。しかし義弥が言うと確かに二体は新しい環境に慣れて、暑さに辟易しながらもリラックスしているように見えた。
私は動物園についての違和感について義弥に尋ねてみた。彼は、少し奇妙な顔をした。
「人間には権利があって、選択があるっていうのも思い込みなんじゃないですか。僕たちだって見えない柵に囲われていて、ただ気づいていないだけかも」
「それってどういうことだい?」
「あなたが、他人の立場になってものを考えられる優しい男ってことですよ」
それきり義弥はしばらく黙っていた。彼の横顔を見ると、瞳が漠然とした揺らめきをたたえているように見えた。狼の黒とも茶ともつかない毛皮の一本一本や、呼吸で膨らんだりしぼんだりする腹の波や、さらされた赤い舌の微妙な色合いを焼き付けるように義弥はひどく真剣に狼を眺めていた。スマートフォンで写真を撮ることもしない。まるでとらえたい像はここにはなくて、彼らの姿を通してこことは違うどこかの何かを見ようとしているようだった。
この時の私は彼の瞳の揺らめきや、狼を通して見ようとしていた物事が何なのかを分かっていなかった。この時の私たちは互いのことを何一つ理解せず、それぞれがその場にいたに等しかった。ただ同じ場所で立ち止まっていただけだった。「弱く孤独な狼たち」。私が出会った、ある〈狼〉が私たちのことをそう言ったのを今でも覚えている。
私が視線を戻すと、大きいほうの狼と視線がかち合った。琥珀色の瞳が私を越えてビルや山を通して平野を無限に抜けていくような気がした。その研ぎ澄まされた気高さは、〈狼〉の言うように弱く孤独な私の中に見出すことはできないだろうと思われた。
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