【19:わたし、あなたのこと何も知らない】

 その日の夜、リュシーはイズラフェルを呼び止めた。


 エスターが作っておいてくれたマフィンを出し、彼女が教えてくれた手順通りに、魔祓いの茶を入れる。茶葉が開き、飲み頃になったのを確認してから、リュシーはカップにお茶を注いだ。


「どうぞ」


 料理はうまくないけれど、お茶くらいなら大丈夫だろう。イズラフェルは微笑んでカップを握る。


「ありがとう、リュシー」

「いえ。魔祓いの花の砂糖漬けもありますけど、いかがですか?」

「ああ、いいですね。頂きます。私、好きなんですよ」


 リュシーは踏み台を使い、戸棚から大きなびんを取り出した。紫がかった青い花びらの砂糖漬けを、ガラスの器に入れて差し出す。


 椅子を引き、イズラフェルの向かい側に腰を下ろす。彼はさっそく砂糖漬けを口に含んでいた。魔物が嫌う独特な芳香がリュシーの鼻にも届いてくる。


 どう話を切り出すべきか。リュシーはしばらくモジモジする。


「あの、イズラフェル様。今日は褒めてくださってありがとうございました。おかげで少し、自信が持てました」


 あなたは頑張り屋さんですからね。

 地道な努力を続ければ、すぐにうまくなりますよ。


 ややあってから、イズラフェルは、


「そうですか。ならよかった」


 彼は右手でカップの取っ手を持ち、左手で金色の縁をなぞっている。こうやって差し向かって話をしていると、目が見えないのが嘘みたいだ。


「いつも庇ってくださるのは、わたしが妻だからですか?」

「ええ。そうとも言えますし、そうでないとも言えます。……急にそんなことを言い出すなんて珍しいですね。何かあったんですか?」

「……いえ、何も」

「でも、顔に書いてありますよ。『わたしは何か悩んでいます』って。私、見えませんけど」


 やはり彼は聡い。表情や仕草は見えなくとも、声色やちょっとした物音で、相手の心を察することができるのだ。


「……はい、ちょっと色々あって」


 あの後、モニカにからかわれたのだ。


 ――リュシー、いいわね。先生の奥さんだと贔屓ひいきしてもらって。でもあたし知ってんだから。あんたたち、まだ違うベッドで寝てるんでしょ? 夫婦だと思ってんの、あんただけじゃないの?


 思い出すだけで胸の奥がギュッとなる。右手の親指の爪をギリギリ噛みながら、


 ――夫婦なんて言ったって、あんた、どうせイズラフェル様のこと、何にも知らないんでしょ? あーあ、こんなおバカの女なんか押し付けられて、イズラフェル様もかわいそうよねー。結婚に失敗するって、人生棒に振ったようなものじゃない。


「わたし、あなたの妻なのに……。あなたのこと、何も知らない」


 貴族の娘として、父に命ぜられて結婚したから。あなたのことを知る前に、あなたの妻になってしまったから。


 ずっとぎこちない関係も、未だに違うベッドで眠っていることも。


「それは、よくないことだと思うんです」


 リュシーは身を乗り出した。イズラフェルは呆気に取られたらしく、花の砂糖漬けを咥えながら、焦点の合わない目でリュシーを見つめている。


「イズラフェル様。わたし、あなたのお話が聞きたいです。どんなに些細なことでもいい。どんなにくだらないことでもいいんです。わたしはあなたの話を聞いて、あなたのこと、もっと知りたい」


 ――だってわたしは、あなたの妻なのだから。


 イズラフェルは砂糖漬けを飲み込み、しばらくリュシーの顔に目を向けていた。またカップの縁を指でなぞり、少し考え込むような素振りをしながら、


「……ええ、分かりました」

「本当ですか?」

「はい、長くなりますよ。それに楽しい話ではない。……もしかしたら、あなたは私のことを嫌いになるかもしれません」

「そんなことありません!」


 リュシーは断言した。イズラフェルは悲しそうにフッとため息をついて、カップの縁から指を離した。


 魔祓いの花の匂いのせいで、彼との距離がものすごく遠く感じる。

 イズラフェルは観念したように、微笑を深くした。


「さあ。じゃあ、何から聞きたいですか?」

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