【転生してモーツァルトと邂逅する短編小説】響鳴のソナタ ―科学と芸術の交響楽―(9,976字)

藍埜佑(あいのたすく)

プロローグ「魂の旋律」

 雨の音が、東京藝術大学の研究室の窓を叩いていた。夜の帳が降りた研究棟で、高橋響子は一枚の楽譜に見入っていた。モーツァルトの未完の手稿。その不鮮明な五線譜の向こうに、彼女は作曲家の想いを読み取ろうとしていた。


「ここでの転調には、何か意図があったはずよ……」


 響子は車椅子のブレーキを確認し、慎重にデスクに身を乗り出した。幼い頃の事故で脊髄を損傷して以来、下半身の自由を失った彼女。しかし、その瞳は今も知的な光を湛えている。


 研究室の壁には、世界各地の歴史的な劇場や演奏会場の音響解析データが貼られていた。響子は音響物理学と声楽理論の第一人者として、特に18世紀の音楽に関する画期的な研究成果を発表してきた。車椅子の生活は、むしろ彼女の研究への情熱を研ぎ澄ませたようだった。


「先生、まだいらしたんですか?」


 若い助手の声に、響子は顔を上げた。時計を見ると、すでに午後十時を回っている。


「ああ、ちょっとこの部分が気になって……」


「でも、もう終電の時間です。タクシーを呼びましょうか?」


 響子は少し考え込んだ。確かに、もう帰るべき時間だ。しかし……。


「ありがとう。でも、もう少しだけここに残るわ」


 助手は心配そうな顔をしたが、響子の研究への姿勢を知っているだけに、それ以上は何も言わなかった。


 再び一人になった研究室で、響子は深いため息をついた。


 昨日の学会でのことを思い出していた。発表後の質疑応答で、ある研究者が投げかけた言葉。


「車椅子の身で、どうして実践的な音楽研究などできるのですか? 現場での指導や、実演の機会も限られているのではないですか?」


 その言葉に、会場が凍りついた。しかし、響子は穏やかな微笑みを浮かべて答えた。


「私は声楽家として、そしてピアニストとしても活動しています。車椅子での移動に制限はありますが、音楽を奏で、教え、研究することには何の支障もありません。むしろ、身体の一部に制限があることで、音楽の本質をより深く理解できる部分もあるのです」


 その返答に、会場から温かい拍手が沸き起こった。しかし、彼女の心の奥底には、やはり痛みが残っていた。


「一度でいいから……」


 響子は自分の脚を見つめた。


「自由に舞台を駆け回りながら、歌ってみたい」


 その呟きは、研究室の闇に吸い込まれていった。


 窓の外では、雨がますます強くなっていた。響子は手を伸ばし、モーツァルトの楽譜に触れた。その瞬間、不思議な感覚が体を包み込んだ。


 まるで、楽譜から音楽が溢れ出してくるような。そして、その音楽が彼女の魂を包み込んでいくような。


「この感覚は……」


 響子の意識が、ゆっくりと遠のいていく。最後に見たのは、机上で淡く光を放つモーツァルトの楽譜。そして、どこからか聞こえてくる、清らかな歌声だった。

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