祇園精舎の鐘は、いまも鳴る——平家編
@akirin24
第1話 目覚めた記憶と最初の救済
序章:夢と現実の交錯
京都の夜はどこか妖艶な光を放っている――そう感じるのは、ただ観光客としての先入観だけではないのかもしれない。
修学旅行の最後の夜。京都の中心街から少し離れた場所に佇む、かつての祇園精舎跡地を訪れたときから、高校三年生の沙羅(さら)の胸には妙なざわめきが生まれていた。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」
歴史の授業で習った平家物語の冒頭文が、頭の中を繰り返し回る。
友人たちはライトアップされた夜景や歴史的建造物を背景に写真を撮り合い、SNSにアップロードするのに忙しそうだ。
修学旅行特有のはしゃぎと高揚感に包まれたクラスメイトたちの声が響く中、沙羅だけはその熱気から一歩距離を置くように、静かに鐘楼の近くに立ち尽くしていた。
「沙羅、どうしたの? ちょっと寒そうだけど、大丈夫?」
クラスメイトで同じ部活の友人、亜美が心配そうに声をかける。頬にかかった髪を軽く払って、沙羅は笑みを作る。
「うん、大丈夫。ちょっと風景に見入ってただけ。ありがとね。」
無理に笑顔を浮かべながら答えた沙羅の胸には、はっきりとした言葉では言い表せない違和感が広がっていた。
それは心の奥底で穏やかにかき乱される波のようでもあり、あるいは記憶の断片を掴みかけてはするりと指の間を抜けていくようでもある。
亜美は沙羅の表情を見やり、何か言いたそうにしたが、やがて人混みに飲み込まれるように他の友人たちのもとへ戻っていった。
沙羅はその姿を見送ったあと、鐘楼の近くに寄り添うように立ち、そっと手を添える。かすかに湿った夜気が、木の組み上げと石畳の隙間から立ち上ってくるようだった。
――何だろう、この感じ。
ふと視界に薄い靄がかかったように思えて、沙羅はまばたきをする。
修学旅行先での疲れかもしれない。
そう思い直してみても、足元から這い上がってくるような不安は収まらなかった。
その夜、宿に戻り、消灯時間を過ぎても沙羅は眠ることができなかった。
枕元に置いたスマートフォンを手に取り、クラスメイトたちがSNSにアップしている写真やコメントを一通り眺める。
そこには楽しそうな笑顔や、ライトアップされた寺社仏閣の美しい写真が多数投稿されていた。
しかし、なぜか沙羅はその画面を見ても心が浮き立つことはなかった。
「疲れてるのかな…。早く寝なくちゃ。」
そう思いながらベッドに潜り込むと、襖の向こうからかすかに聞こえる他の生徒たちの囁き声や笑い声が、やけに遠く感じられた。
寝返りを打ちながらカーテンの隙間を見つめると、外から射し込む月光が微かに部屋の壁を照らしている。
その光が、まるで平安時代の廂(ひさし)や屋根瓦の影のようにも見えて、沙羅は思わず身を起こした。
> どうしてこんな光が見えるんだろう…
小さく頭を振り、もう一度横になる。そして、どれほど時間が経っただろうか。
瞼の重さに耐えきれず、意識が薄れる瞬間、沙羅は不思議な夢の世界へと誘われていった。
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夢の中。そこは燃え上がる都の光景だった。
空は赤黒い煙に覆われ、人々の叫び声と太鼓のような振動が混ざり合う。
木造の建物が次々と火に呑まれ、崩れ落ちる。
どこかで聞いたことのある合戦の喧噪がこだましているが、まるで映像の中に入り込んだように鮮明だ。
「これは…どこ…?」
まだ自分が夢の中にいるのだと認識できないほどリアルな、平安末期を思わせるような戦乱の情景。
まばゆい火の粉が舞い散る中、ふと視線を下ろすと、そこには手に琵琶を持った一人の少女が立ち尽くしていた。
漆黒の髪を結い上げ、端正な顔立ち。袖の長い衣装は、祈祷や神事を行う巫女のようでもあり、武家の姫のようにも見える。
そして――その少女の顔は、自分によく似ている。
「私…?」
沙羅が戸惑いながら少女の方へ歩み寄ろうとすると、突然視界が激しく揺られた。戦いの最中であるかのように、鎧をまとった武士たちが声を張り上げ、剣戟の音が耳をつんざく。
多数の武者が次々と討ち取られていく血なまぐさい光景が、炎の向こうに繰り広げられている。
少女は必死に琵琶を奏でるように見えた。
しかし、その音色は戦火の轟音にかき消されそうになる。
突然、その少女が沙羅の方をまっすぐ見つめ、低く響くような声で語りかけてきた。
> 「貴女は、再び導く者。過去を紡ぎ、光を見出しなさい…」
次の瞬間、光景は揺れるように崩れ落ち、床からずり落ちるような感覚に襲われた沙羅は、息を切らしながら目を覚ました。
実際に炎の熱気を浴びたかのように、全身が汗ばんでいる。
胸は激しく上下し、鼓動が耳に響くほどに乱れていた。
「…何だったの、今の夢は。」
宿の部屋には、ルームメイトの亜美や他の友人が寝息を立てている。
既に深夜を回っているのだろうか、廊下の方から聞こえる物音もない。
あまりにも鮮明で、ただの夢とは思えない。
火の粉の熱さ、悲鳴の生々しさ、そしてあの少女の声——すべてが現実以上に現実味を帯びていた。
沙羅はしばらくベッドの中で身動きできずにいた。
夢か現実か分からないほどの重みをもった感覚が、じわりと体を包み込む。何か大きな運命に触れてしまったような、
その予感だけが強く胸に残っていた。
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翌朝、集合時間前のロビーに集合したクラスメイトの中に、見慣れない人物が立っていた。黒髪に深い瞳を持ち、少し控えめな印象の少年。
先生から紹介されたのは、この修学旅行明けから転入してくるという蓮真(れんま)という名の同世代の少年だった。
「急な転校生だが、諸事情あって今日からみんなと合流することになったんだ。いろいろ助け合ってやってくれ。」
担任の教師がそう言うと、周りのクラスメイトは多少の驚きや好奇心が混ざった視線を蓮真に注いだ。
だが、その少年の瞳はどこか落ち着いていて、周囲のざわめきにも動じることなく、柔らかく微笑んでいる。
そして、沙羅の方へ視線を向けるとごく小さく頷いたように見えた。
「やっと、会えたね。」
唇がそう動いたのを、沙羅ははっきりと見た。
他のクラスメイトのいる前でありながら、その言葉はまるで沙羅だけに向けられたもののように感じられる。
初対面のはずなのに、どこか懐かしい感覚が胸を揺らした。
> 私はこの人を、知らないはずなのに…
一晩中、夢の影響で眠りの浅かった沙羅の頭には、さらに新たな混乱が加わる。周囲の友人たちが「まじでイケメンじゃん!」「どこからの転校生?」「都内の学校から来たの?」などと口々に話しかける中、沙羅は言葉を発することができなかった。
ただ蓮真の存在感と、彼が発した「やっと会えたね」という言葉が、何かの伏線のように重々しく響いていた。
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1. 新たなる出会い
修学旅行から帰って数日後。
クラスには本格的に蓮真が加わり、ホームルームや休み時間などで転校生同士の会話が交わされるようになった。
蓮真は大人びた雰囲気を持つ一方で、時折不思議な柔和さを見せる。
彼の座席は沙羅の斜め後ろ。授業が始まる前などに、沙羅の席へ近づいては軽く声をかけてくる。
「沙羅さん、調子はどう? 夢のこと、まだ気になってるんじゃない?」
「え…どうして…?」
沙羅は驚きのあまり声を詰まらせた。
確かに、あの修学旅行の夜から、奇妙な夢を見ることが多くなっていた。
炎の都や武士たちの合戦、そして琵琶を弾く少女の姿。
目覚めるたびに胸の奥がざわつき、どうしてそんな映像を見るのか、自分でもまったく理解できない。
誰にも話していないはずなのに、なぜ蓮真がそれを知っているのか。
蓮真は沙羅の隣の席に腰かけ、声を潜めるように言う。
「君が見ているのは、ただの幻想じゃない。おそらく“前世の記憶”が呼び起こされているんだ。」
「前世…? 私の…?」
「詳しいことは、放課後ゆっくり話そう。君が混乱するのは当然だから。」
どこか含みのある口調だったが、その言い方に悪意は感じられない。
むしろ沙羅を案じているようにも思える。
とはいえ、現実離れした“前世”という単語をいきなり突きつけられた沙羅は、ますます混乱するしかなかった。
> いったい何を言っているの…?
授業が始まるチャイムが鳴り、蓮真は「またね」と短く言い残し、自席へと戻っていった。黒板に向き直っても、沙羅の意識は先ほどの言葉に囚われて離れない。
どうして彼がそんなことを知っているのか。なぜ私が前世で平家と関わりがあったなんて話が出てくるのか。
思考が堂々巡りをしはじめたとき、教師の声が沙羅を現実へと引き戻した。
「では、今日は平家物語の中でも特に有名な段を取り上げます。プリントを配るので、よく読み込むように。」
偶然にも授業では「平家物語」の一節を扱うことになっていた。
プリントに目を落とすと、そこには「祇園精舎の鐘の声…」という冒頭文が大きく印刷されている。
クラスメイトが「なんかタイムリーだね」とか「修学旅行思い出すね」と口々にする中、沙羅の鼓動だけがやけに早まる。
まるで自分だけが、その物語の深部へと引きずり込まれていくような感覚。
先日の夢を思い出し、胸が痛むように熱くなる。
そうして、沙羅の中で何かが動き出そうとしていた。
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2. 蓮真の告白
放課後。帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちは部活やアルバイト、塾などへと散っていく。
沙羅は部活を休む届けを出し、教室に残った。
蓮真が屋上へ行こうと誘ってきたのだ。
ふだんあまり使われない校舎の屋上は、夕方の少し寂しげな風が吹き抜ける。
そこに立つと、京都の街並みが遠くにかすんで見えるような気がした。
「待たせたね。」
蓮真がドアを開けて姿を現す。
沙羅は思わず息をのんだ。
昼間の教室ではどこか浮いてしまいそうなくらい静かな印象の蓮真だが、今はまるで別の空気を纏っているように感じられた。
「……」
話し始めるタイミングを掴めずにいる沙羅に対し、蓮真はゆっくりと口を開く。
「君が見ている夢は、ただの夢じゃない。もっとはっきり言うと、君は前世で“平家一門を導いた巫女”の役割を担っていた。俺がそう確信している理由は、君の気配と見ている夢があまりにも一致しているからなんだ。」
「平家一門の…巫女…?」
突拍子もない話だと切り捨てることもできた。
しかし、どうしてだろう。沙羅の胸の奥には「まさか」と言い切れない一抹の予感がある。
夢に出てきた琵琶を奏でる少女の姿と、自分の顔が重なり合う瞬間を何度も見てきた。
あれがただの想像とは思えないほど、あまりにもリアルで切実な感情が伴っていたのだ。
「君は、かつて平家の安寧を祈り、戦乱の中で数多くの人々の魂を導いてきた存在だった。でも、その時代に全うできなかった“大切な使命”がある。それが今、再び目覚めようとしているんだ。」
「大切な使命…って、一体なに?」
蓮真は微かに困ったような表情を見せる。
「すべては今すぐには言えない。むしろ俺も、君の力がどこまで戻っているのかを把握しないといけないから。だけど、一つだけ確かに言えることがある。――君はもう一度、平家にまつわる数多くの魂を救済することになる。自分の意思とは関係なく、そうせざるを得ないようになるはずだ。」
唐突に突きつけられる“救済”という言葉。沙羅は胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
救済といっても、どうやって、何をすればいいのかまるで見当もつかない。
その一方で、あの日祇園精舎跡地で感じた奇妙な胸騒ぎや、夢の中での戦乱の光景が一つに繋がりはじめているようにも思える。
「信じられないかもしれないけど、君があの鐘楼のそばで感じたものも、すべては“呼ばれた”からなんだ。あの跡地には、まだ数多くの平家ゆかりの魂が残っている。未だ成仏できず、現世を彷徨っている存在たちだ。」
「……そんなに、たくさん…?」
沙羅は言葉を失う。現代に生きる高校生としては、亡霊や霊魂といった話は非現実的なオカルトの範疇でしかない。
だが、実際に“見て”しまった夢を思うと、無闇に否定することができない自分がいた。
蓮真はそんな沙羅の心情を汲み取るように、静かに言葉を続けた。
「昨日、君が授業で扱っていた“祇園精舎の鐘の声”。あれは確かに平家物語の象徴とも言える有名なフレーズだけど、その背景にある無常観や悲劇を、君は“肌で感じている”んだと思う。それは、生半可な同情や知識じゃなく、前世の記憶を通して体験しているからこそ起きる痛み。それが、君がまだ理解できていない違和感の正体だよ。」
痛み。沙羅の胸に突き刺さるその言葉。
確かにあの夢を見て目覚めたとき、自分がまるで大切な人を失ったような喪失感や、歴史の闇に取り残された哀愁のようなものを覚えた。
そんな感覚をどう処理すればいいのか分からなくて、ずっと心が落ち着かなかったのだ。
「でも…もし、それが本当だとしたら、私に何ができるの…?」
「まずは、現世に残る平家ゆかりの魂と触れ合い、救うこと。彼らは長い間、苦しみや後悔を抱えたままさまよい続けている。君が心を開いて彼らの想いを受け止めれば、きっと解放へと導けるはずだ。」
蓮真の言葉には、理屈を超えた不思議な説得力があった。
沙羅は迷いつつも、どこかで「それが自分の役目なのかもしれない」とうなずきそうになっている自分を感じていた。
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3. 祇園精舎跡地へ再訪
それから数日後の土曜日。蓮真の提案で、沙羅は再び祇園精舎の跡地を訪れることになった。
朝早い時間、人通りもまだまばらな通りを抜け、ひっそりとした静けさが漂う場所へと足を運ぶ。
「こんな早朝に来たのは、人が少ない方がよいから。雑念が多いと、うまく霊と向き合えないことがある。」
蓮真の落ち着いた声が、冷たく澄んだ朝の空気によく通る。
沙羅は前に来たときとは異なる静かな雰囲気に少し緊張を覚えながら、跡地の中心へと歩を進めた。
すると、薄い霧のようなものが立ち込めているのが見えた。
たしかに以前ここを訪れたときも、何かしらの気配を感じはしたが、こんなにはっきり視界に入るほどの霧はなかった。
「周囲の気温や湿度とは関係ない、霊的な気配だ。普通の人には見えない場合が多いんだけど、沙羅には感じ取れるようだね。」
蓮真はそう言うと、持参していた古い巻物を広げて中の一節を小声で読み上げた。
その響きは和歌とも真言ともつかない不思議な調べで、耳にすると心の深いところがくすぐられるようだった。
「ここには、まだ成仏できない魂が多数存在する。その一つに触れることで、君の力が覚醒するはず。」
蓮真の視線の先にある、小さな石碑に沙羅は歩み寄った。
石碑の表面にはかすれて読みづらい文字が刻まれているが、どうやら平家ゆかりの何らかの慰霊のためのものらしい。
そこを取り囲むように、白い霧のようなものが蠢いているのが分かる。
「触れてみて。最初は恐いかもしれないけど、大丈夫。俺がいるから。」
蓮真の言葉に背中を押され、沙羅は意を決して石碑に手を伸ばす。
手に触れる瞬間、ゾクッとするような冷気が指先から腕へと広がる。
そして次の瞬間――頭の中に、まるで映画のワンシーンのような映像が一気に流れ込んできた。
それは幼い少年の記憶。
平家の武士の家系に生まれ、まだ年端もいかないながらも合戦に駆り出され、最期には命を落とした。
その少年は母親との約束を果たせず、その思いを抱えたまま息絶えたらしい。
その無念と悲しみが、この場所でずっと鬱積し、彷徨っていたのだ。
> 「……母上…すみません…守れなかった…」
声にならない声が沙羅の意識に直接伝わるような感覚。
沙羅の目には自然と涙が浮かんできた。自分ではない誰かの記憶が、確かに胸を締め付けている。
幼い少年の魂:母に渡せなかった“手作りのプレゼント”
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の跡地に静かに立つ小さな石碑。その前で、沙羅(さら)は“冷え”とも“痛み”ともつかない不思議な気配を感じ取っていた。
蓮真(れんま)によると、どうやらここには幼い少年の魂が長らく留まっているらしい。彼はまだその存在をはっきりとは掴みきれていないが、沙羅が霊力を解放すれば、少年の思いをより鮮明に感じられるという。
「怖いなら、僕もそばにいるから大丈夫。」
蓮真がそう言って、優しく背中を押す。沙羅はごくりと唾をのみ込み、震える手で石碑に触れた。すると、一瞬まばゆい光が脳裏に走るような感覚に襲われ、見えないはずの映像が浮かび上がってくる。
脳裏に映し出されたのは、まだ年端もいかない少年が、家の縁側で何かをこしょこしょと作っている光景。彼は母親の誕生日か何かを祝うために、木の端材を削って小さな箱を作っていたようだ。
ノコギリや小刀の使い方もたどたどしく、指を切りそうになりながらも、彼は一生懸命に彫刻をしている。けれど、その表情はとても楽しそうだった。
「母上、いつも働いてばかりで大変そうだ。だから、ぼくが何か作って贈りたいんだ。」
少年は母親と特に喧嘩をすることもなく、むしろ**「お母さんを喜ばせたい」**という気持ちを糧に生き生きとしていた。母もまた息子を大切にし、やさしく声をかけてくれる、そんな家庭だったのだろう。
だが、戦乱の風が吹き荒れる時代。少年はある夜、急な合戦の報せとともに大人たちに連れ立って出陣することになる。「母上を待たせないように、すぐ戻るから」と言い残して……。
そのまま、少年は戦の最中で命を落とした。小さな木箱は未完成のまま家に置き去りになり、母に渡されることはなかった。
石碑を前にした沙羅の耳元には、かすかな嗚咽のような声が聞こえてくる。
「母上…待ってて……必ず渡すから……どこにも、行かないで……」
少年の姿は霧のように輪郭がぼんやりしているが、その瞳に深い悲しみが宿っているのが分かる。母を愛してやまなかったその気持ちだけが、彼をこの世につなぎ留めたのだ。母のために作ったプレゼントを、どうしても渡せなかった――その無念と後悔が絡まり合っている。
沙羅は涙を浮かべながら、そっと声をかける。
「あなたは、お母さんに贈り物をしたかったんだね。きっと、すごく喜んでくれたと思うよ。だって、あなたはこんなにも優しい気持ちで作ってたんだから。」
少年の霧がわずかに揺れた。小さな箱を握るような仕草を見せるが、実際には何も持っていない。母親への想いが空を掻くように宙をさまよっているのだ。
蓮真が沙羅の肩に手を置き、静かに巻物を広げて祈りの言葉を口にする。すると、ほんの少し重苦しかった空気が緩む感覚がある。
「届けられなかったその箱のことも、お母さんは絶対に分かってるよ。だって、あなたは少しでも母上を笑顔にしたくて頑張ったんでしょう? その気持ちは、ちゃんと伝わってる。」
沙羅の言葉に、少年の瞳にかすかな光が差す。
やがて涙混じりの声が、か弱く聞こえた。
「……ありがとう。母上に会いたかった……でも、少し楽になった……」
少年の姿を包んでいた霧が、スッと光へと転じる。辺りの冷たい空気が、ほんのり温かみに変わった気がした。沙羅はその光がゆらめきながら空へ昇っていくのを見つめ、唇を噛み締める。
「安心して、もう大丈夫だよ。あなたの思いは、ずっとお母さんの心に残ってるから。」
少年の魂は、一瞬だけ微笑むように輝き、やがて完全に視界から消えていった。沙羅は流れる涙を拭いながら、石碑に向かって静かに頭を下げる。
母を慕う気持ち――それはこんなにも純粋で、こんなにも尊い。届かなかった木箱は今もどこかの家の片隅で眠っているのかもしれない。もしも母が見つけていたなら、そこに少年の優しさが詰まっていると気づいてくれるはずだ。
「今のが、最初の救済。君はきちんと役割を果たしたよ。」
蓮真が穏やかに言う。その言葉を聞いて沙羅は大きく息を吐き出した。
涙の跡が頬を伝って冷たくなっている。
怖さよりも、やり遂げたという安堵感が勝っていた。
「それにしても、これが本当に私の力なの…?」
まだ半信半疑だが、確かに自分の言葉で少年の魂が救われたのを感じ取った。
それが嘘かまことかを疑う隙間は、今はもうなかった。
「君が見る夢、そしてここで感じた魂との触れ合いが、君の霊力を覚醒させたんだ。これから先、もっと強く、もっと深く、数多くの魂を救うことになる。けれど、その分だけ君の心にも負担がかかる。だから、もし辛くなったら、必ず俺を頼って。」
「……ありがとう。」
沙羅は蓮真の瞳を見つめた。その瞳は深く、穏やかで、しかし底知れぬ何かを秘めている。
彼が何者で、どうしてここまで詳しいのか。
聞きたいことは山ほどあるが、今は何も言えない。
少年を救ったという小さな達成感と、これから始まる大きな道のりを思うと、胸が騒がしくなる。
その日はさらに2、3カ所の史跡や慰霊碑を巡った。
蓮真の案内に従うまま、沙羅は霊的な視覚を通して平家一門にまつわる亡魂たちの声を幾つか聞き取り、祈りを捧げ、浄化を行った。
ほんの些細な慰めでも、その一言ですくわれる魂がいるという現実に、沙羅の心は少しずつ前向きになっていく。
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4. 目覚め始めた力と戸惑い
しかし、その夜。帰宅してからベッドに入った沙羅は、突如として激しい頭痛に襲われた。まるでドラムを耳元で叩かれているような響きが頭の中を占領し、声を上げることもままならない。
昼間に少年たちの魂を救済したときの感覚が、一気に逆流してくるようだった。
「あ…あ…痛っ…」
息も絶え絶えに声を上げるが、同居する両親はすでに寝ている時間帯だ。
どうにかスマートフォンを手に取り、蓮真に連絡を取ろうかと思った矢先、目の前が急激に暗転した。
再び夢の中――いや、夢というよりも幻視に近い世界へ引きずり込まれる。
そこでは、平家の都が炎に包まれる前の、華やかな宴の光景が広がっていた。
貴族や武士たちが琵琶や笛の音を楽しみ、酒を酌み交わしている。
その中には、昼間に見た少年の姿もある。
まだ戦乱が始まる前の、幸せそうなひと時だ。少年は母親と微笑み合い、その笑顔は眩しいほどに輝いていた。
> 「あぁ…、こんなにも幸せだったのに…」
その情景を眺める沙羅の胸に、切なさが湧き上がる。
やがて、光景は一転。合戦のイメージが重なり、逃げ惑う人々、叫び声、そして無数の矢。――沙羅はいたたまれずに目を背けたくなったが、まるで強制的に見せられているように視線が離せない。
> どうして…こんなにも苦しんでいるのに、誰も救ってあげられないの…?
頭痛がさらに激しくなる。呼吸ができないほどの圧迫感を覚えた瞬間、視界がぱたりと途切れた。
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気が付けば、そこは自分の部屋の床だった。
時計を見ると夜中の3時。手足は冷たく、汗でパジャマが肌に張り付いている。
ここ最近、こんな体験を何度も繰り返していた。
霊を救う行為は、ただ優しい言葉をかけるだけではないのかもしれない。
いくつもの魂の怨念や後悔が、自分の心にも入り込んでくるのだ。
「このままじゃ、私…どうなっちゃうんだろう。」
沙羅は、冷え切った手を握りしめて自問した。
蓮真は助けてくれると言ったが、このまま自分が無理を重ねていけば、心が壊れてしまうのではないかという不安に駆られる。
しかし、それでも救済をやめてしまえば、あの少年のように苦しむ魂を見殺しにすることになるのではないか。
選択肢が二つに一つしかないような極端な考えが、沙羅を追い詰めていく。
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翌朝、学校に行くと蓮真がすぐに沙羅の体調を気遣ってくれた。
見るからに顔色が悪いと言われ、無理矢理笑顔を作るが誤魔化しきれない。
放課後、二人は人目の少ない校舎裏で再び話し合った。
「昨日は、霊の浄化を何度も行いすぎたんだと思う。君はまだ力が目覚めたばかりで、そういう負の感情を受け止める体制が整ってない。だから、無理しちゃだめだ。」
「でも、あの少年を救った時、すごく嬉しかったし、自分の役目なんだって思えたの。なのに夜になると、今度はまるで怨念が逆流してくるみたいで……私、どうすればいいか分からない。」
沙羅の声は震えていた。救いたい気持ちと、自分の心が壊れそうな恐怖。
その二つの間で揺れ動いている。
「じゃあ、少しずつ慣れていこう。無理にたくさんの魂を救おうとするんじゃなくて、一つ一つ丁寧に、君のキャパシティに合わせて進める。俺も祓いの技術を少しは身につけてるから、もし悪い霊の気配が強くなってきたら俺がフォローする。」
「……ありがとう、蓮真。」
蓮真の言葉は、暗闇に一筋の光が差し込むように沙羅の心を静めてくれた。これから先、どんな試練が待ち受けているかは分からないが、自分一人で抱え込まなくてもいいのだと思えるだけで、少し息がしやすくなる。
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5. 新たなる一歩
週末、沙羅と蓮真はもう一度祇園精舎跡地を訪れることにした。
前回ほど多くの霊には触れず、まずは一つの魂とじっくり向き合う。
それが今回の目標だ。前世での記憶をまだ断片的にしか思い出せない沙羅にとっては、そのほうが安全だろうという蓮真の判断だった。
早朝の光が古都の町並みを淡く照らし始めたころ、石碑の前に立つと、再びあの白い霧が薄くたなびいているのが分かる。
沙羅は目を閉じ、一度ゆっくりと深呼吸をした。怯える気持ちを抑え込み、自分の心を穏やかに保とうとする。すると、頭の中に何かかすかな声が聞こえてきた。
> 「私は、討ち死にした夫を探しています。せめて魂だけでも共にありたい…」
声の主は中年の女性のようだ。おそらく戦乱で夫を失い、必死に探し続けたまま行き場を失った魂なのだろう。
沙羅は霧の中に微かな人影を見る気がした。
蓮真が隣でそっと沙羅の肩に手を置く。
かつての記憶がまた沙羅の頭に流れ込み、女性の生前の様子が浮かび上がる。
戦に巻き込まれる前、彼女は農村か町家のようなところで夫と暮らしていた。日常では何かと口うるさく、夫と小さな言い争いを繰り返しては、二人してへそを曲げることも多かったようだ。
「またお酒ばっかり飲んで!」「うるさいな、ちょっとくらいいいだろう」「洗濯もの手伝ってって言ってるでしょ」「ああ、わかったわかった!」――そんな喧嘩が、日常茶飯事。
周囲からは「仲がいいのか悪いのか分からない夫婦だ」とからかわれるほどだった。
しかし、女性の胸の内には誰にも言えない思いがあった。夫と喧嘩ばかりしてはいても、実は心底旦那を愛していたのだ。相手も同じように感じてくれているはず。だけど、なぜか素直になれず、つい文句や嫌味を言ってしまう。
「だって、放っておくとあの人はだらしないから……」――表向きはそう嘆きつつも、常に旦那の世話を焼き、口やかましいながら気にかけているのが日常だったのだ。
そんなある日、戦が勃発。夫は出陣を余儀なくされ、女性の元へ戻ってくることはなかった。
「もうちょっと優しい言葉をかけてあげればよかった……。
どうして私、あんなにきつい言い方ばかりしてしまったんだろう。」
夫の死を知ったとき、彼女は激しく泣き崩れた。普段、喧嘩腰だったぶん「本当は好きだったんだ」と伝えられなかったことが、これほど辛いとは思わなかったのだ。
その後、街が焼け落ち、家も崩れてしまったのかもしれない。女性は自分の住む場所もわからなくなり、ただ夫を想う“喧嘩ばかりだった日々”の記憶に留まったまま、魂だけが祇園精舎の跡地へ留まってしまったようだ。
「…もう一度、あの人に会って……謝りたい……。大好きだったって、ちゃんと伝えたい……。」
女性の声はうつろで、その場を彷徨うようにさまよっている。胸元には古い手拭いを握っていて、ぼろぼろの生地に小さく書かれた夫の名前が見えるのが印象的だった。どうやら日常のささやかな書き付けか何かを保管していたのかもしれない。
沙羅はその女性を前に、そっと呼びかける。
「あなたは旦那さまに素直になれなかった。だけど、それは旦那さまに伝わっていたと思いますよ。きっと、口うるさかったのも全部“愛”があったからですよね。」
女性は微かに肩を震わせて顔を伏せる。
まるで彼女の心を見透かされたようで、言葉が出ないのだろう。しかし、女性が隠しきれなかった“好き”という気持ちが、この場に溢れているように沙羅には感じられた。
「喧嘩ばかりしていたって聞いたけど、旦那さまはそれを疎ましく思っていなかったかもしれません。むしろ、あなたが隣にいてくれるのが嬉しくて仕方なかったはず。だから、自分を責めないで。あなたが思う『ごめんね』と『大好き』は、今伝えても遅くないと思います。」
沙羅が伝え終えるころ、蓮真がそっと巻物の真言を唱え、辺りの気配を浄化するように読経を始める。
女性は手拭いをぎゅっと抱きしめ、涙のようなものをぽたぽたと落としながら呟く。
「ありがとう……そう、伝わっていたのかな……。あの人がいないと、寂しくて仕方なかったのに……。もっと、甘えたかったのに……。」
その瞬間、女性の身体を取り巻いていた霧がふわりと光を帯びる。まるで何かの封印が解けたかのように、風に溶け込み、薄れていく。
彼女はどこか遠くを見つめるように視線をやわらかくし、消え入る間際に最後の力を振り絞るように言った。
「あの人に……『大好き』って……ありがとうって……」
消えゆく声は、優しい海風のように沙羅の周囲を撫で、やがて静かに消滅する。夫婦喧嘩を繰り返しながらも、本当は深い愛情を持ち合っていた二人。その未練がようやく和らいだのだろう。
沙羅は涙を流しそうになるのを堪えながら、心から「よかった……」と胸をなで下ろす。愛していたからこそ、素直になれなかった――そんな切なさがいま解き放たれたように感じた。
蓮真がその様子を見守っていた。
沙羅も小さく息をつき、さらに深く胸を撫で下ろす。
まだ多少の疲労感はあるが、前回ほどの激しい頭痛や幻視は感じない。
ゆっくりと一つ一つ、焦らずに積み重ねていくこと。沙羅はそう心に決めた。
> 私にとって、この“救済”はすぐには慣れない。でも、だからこそ一歩ずつ進んでいくしかないんだ。
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6. 平家物語との邂逅
帰り道、蓮真はふと呟くように言った。
「平家物語には、数多くの悲劇が描かれているけど、その裏には決して表に出ない人々の想いがある。歴史の表舞台には乗らない名もなき武士や、その家族たち。彼らの無念や後悔が、まだ現世に残っているのはある意味当然かもしれない。」
「祇園精舎の鐘の声…諸行無常の響きあり。無常って、文字通り“すべてが移ろいゆく”ってことだよね。」
沙羅は今初めて、その言葉の真の意味を考えている。
歴史の授業では“無常観”と言われてもピンとこなかったのに、今なら少し分かる気がした。
一族の栄華は一瞬で崩れ去り、人の命もまた儚く散っていく。
だが、想いだけは時空を越えて残り続けることがあるのだろう。
「そう。だからこそ、それを受け止める器が必要なんだ。君の前世は、それを受け止めるための巫女としての力を持っていた。でも、その力を使い果たすことなく、時代の波に飲まれたらしい。今回はその続きを果たすチャンスでもあるんだよ。」
蓮真の言葉は、決して軽いものではない。沙羅もそれを感じ取っていた。
「でも、正直言うと、まだ怖い。自分の心がどこまで耐えられるか分からないから。」
「それは誰だって怖いよ。俺も…実は昔から霊に触れる力があって、それで苦しんだ時期がある。親にも理解されず、孤独だった。でも今はこうして君を導く役割を果たしている。つまり、お互い補い合えるんだよ。」
「補い合える…か。そうだね。」
沙羅は小さく笑みを漏らした。自分一人では抱えきれなかった不安も、蓮真がいることで少しずつ和らいでいる。きっと前世でも、こうして共に歩んでいたのかもしれない。それが実感できるようになってきた。
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7. 学校での日常と変化
それから平日の学校生活では、沙羅が突然体調を崩して倒れたりしないよう、蓮真が常に気を配ってくれるようになった。
クラスメイトからは「めっちゃ仲いいね」と冷やかされることもあるが、沙羅は曖昧に笑って誤魔化している。
亜美だけは少し心配そうに「本当に大丈夫?」と声をかけてくることがあるが、沙羅は詳しい事情を話すことができない。
> こんな非日常的なこと、普通に話したらみんなドン引きだろうし…。
実際、自分でもまだ整理がついていないことを、他人に理解してもらうのは難しい。だからこそ、この秘密を共有できるのは蓮真だけだった。
そうした特別な関係が、沙羅の心に小さな灯をともしていた。
教師が板書している英語の例文も、同級生の他愛ない恋バナも、サッカー部の大会の話題も、今の沙羅にとってはどこか遠い世界の出来事のように感じられている。それくらい、自分の日常は大きく変わってしまった。けれど、沙羅は後悔していない。むしろ、“自分は何のために生まれてきたのか”を考えるきっかけを得たことに、深い意味を感じ始めていた。
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8. 未来への決意
放課後、蓮真と二人で校門を出ると、夕暮れの赤い空が街を染めていた。秋も深まりかけ、吹く風は少し冷たい。京都の街並みは修学旅行で訪れたときとはまた違う、地元の人々の生活が染み込んだ穏やかな顔を見せてくれる。
「これからも、続けていくんだよね。平家の魂を救済すること。」
沙羅は夕焼けに向かって小さく呟く。蓮真は頷き、そっと沙羅の肩に手を置く。
「ああ、でも無理はしないようにね。徐々にでいいんだ。」
「うん。私、もう逃げないよ。怖いけど、今は自分がやるべきことだって思うから。」
そこには、あの修学旅行の夜に覚えた漠然とした不安に揺れる沙羅の姿はなかった。胸の奥に生まれた新たな責任感と、まだ見ぬ過去や未来への期待が、彼女の瞳に確かな光を宿している。
「祇園精舎の鐘の声が、私を呼んでいるんだと思う。だから、その声を聞き逃さないように、ちゃんと向き合いたい。」
その言葉に蓮真は微笑んだ。かつての歴史に生き、未だ成仏できずにいる平家の魂。彼らを救い、真の安息へと導くことが、沙羅に課せられた役目。第一歩を踏み出したばかりの彼女は、まだ頼りないかもしれない。だが、確実に何かが変わり始めているのを、二人は感じていた。
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そうして、沙羅が平家の魂たちと対峙し“救済”を始めた最初の一歩は、彼女にとって大きな転機となった。人は自分の力だけではどうにもならない運命に導かれることがある。けれど、その運命を受け入れるか否かは、自分自身で選び取ることができる。沙羅はまだ戸惑いながらも、まっすぐにその道を歩み始めようとしていた。
平家の物語は終わってはいない――その言葉の重みを胸に刻みながら、沙羅は自宅へと帰路を急ぐ。夕闇に染まる街灯の下、彼女の影は細く長く伸びていたが、その足取りには確かさが宿っていた。
> ――私は、もっと多くの魂を救えるのだろうか?
小さな疑問が心をかすめる。それでも、沙羅の中には「きっとできる」という静かな確信が芽生えていた。なぜなら、その道は過去の自分――平家に寄り添った巫女としての自分が既に一度は踏みしめた道なのだから。
> そう。私は、かつてそこにいた。今度こそ、最後までやり遂げる。
沈む夕陽を見上げた沙羅の瞳は、少しずつ薄闇の中でも輝き続ける意志を帯びていた。
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つづく
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