第10話 過去からの使者
このマンションに越してくる前は、いくつかのSM系バーやハッテン場で熟練のS紳士としてプレイをしていました。健康でしたいことがある時にはやっておかねば、そう切実に感じるようになった時、私は男としての良い時期であっただろう30代40代を全く楽しめず見送ってしまったことを悔やんだからです。黒岩さんが最初の相手でなかったら、私はセックスに奔放な青年時代を送れただろうか。選べなかった人生など幻に過ぎないのだから、そんな自問には全く意味がないのに、老いを感じる年齢になってやっと行動的になれた自分に、腹立たしさともどかしさがあったのです。
時代というのは、あっという間に変わると感じますが、実は少しずつ動いているのだと思います。その流れについて行っているうちは分からないのに、そこから外れた時に、あぁもう時代が変わったのだと実感するのでしょう。
スマホのマッチングアプリが出始めた時、これは昔の文通コーナーと同じだなと感心した覚えがあります。人間の欲は普遍で、昔からほとんど変わっていないと思いますが、それを満たす手段が変化しているのでしょう。欲を満たす相手に出会いたい時、近くにいる候補者が瞬時に分かるなんて、文通の時代に比べれば信じられない便利さです。年寄りの偏見だと思っていただいて構いませんが、情報が多すぎて何が本当か分かりにくい世の中で、こんなに簡単に性行為の相手が見つかるがゆえに、性病が蔓延するのですよ。
少し前、マッチングアプリに信じられないような男の画像を見つけ、私の胸は高鳴りました。黒岩さんにとてもよく似た男です。年齢は34歳、私が黒岩さんに初めてお会いした時の年齢に近いのですが、今の34歳は非常に若く見えるせいか、まるで私が知らない若い時の黒岩さんのように思えます。目の輝き、眉毛の凛々しさ、鼻筋から唇にかけての精悍さ、顎の屈強な感じ、そして髭の濃さを伺わせる頬の翳り、着ているシャツの首元に僅かに覗いている夥しい胸毛。黒岩さんと同じでした。そして私はといえば、目を細めた老眼鏡でその小さな画像を見ているのです。
プロフィールの欄にはこんなことが記載されています。・ONE 175cm/82kg/34歳 ほぼ経験がありませんが、年上の人にSM的なことをされたいです。ずっとラグビーをやっていたので、ガッチリしています。出張でいろんなところへ行くので、よろしくお願いします。
私は一瞬どうしていいか分からず、そのアプリの男に「いいね」を送ることも忘れて画像を眺め続けました。公開されている画像はその一枚のみで、リクエストをして承認されれば見ることができるアルバム写真も設定されていません。世の中には自分と同じ容姿の人間が数人はいると聞きますし、他人なのに瓜二つという二人を報じるニュースなども見た記憶があります。小さな画像なのでたまたまそっくりに見えるのか、いやむしろ私が記憶の中で勝手にアレンジした黒岩さんをいいように重ねているだけなのかもしれないと散々逡巡しました。私はそれまで設定していたアカウントを一旦削除し、新たなSマスターというアカウントで登録し直し、しばらく待った上で、ONEという登録名の男に いいねを送りました。すぐにONEからいいねが返ってきた時、私は運命を感じずにはいられませんでした。そんなはずはないのに、黒岩さんが長い時を飛び越えてこの時代に戻って来てくれた、そう考えたほどです。
あの当時、黒岩さんが何者なのか調べる術はほぼありませんでした。何かを知りたい時は図書館や書店で書物を探すか、興信所のようなところにお金を払うか、自分の足で訪問し直接尋ねるか、だったのです。それが今ではインターネットで検索すれば、関連するであろう情報が瞬時に提示されます。そして皮肉なことに、昔とは比べ物にならないくらいの情報が無限にネット上に存在していて、真偽のほどもわからないものが山ほどあるせいで、もはや今の私たちは検索で欲しい情報に辿り着くことが困難になっています。そのうち人は検索することにすら疲弊し、向こうから勧めてくる情報だけを流し読みするようになっていくのかもしれませんね。SNSを通じ親しくなった後に、儲け話を持ちかける詐欺被害もその流れだと思います。マッチングアプリに掲示されている画像とて、本人のものとは限らず、また架空の人物になりすまし、恋愛関係を構築した後に詐欺を仕掛けてくる者も少なくないと聞きます。私から見れば、会ったこともない相手にアプリ上の文字のやり取りだけで何百万円、何千万円もの金銭を送ってしまうこと自体が考えられないなどと言ってしまいがちですが、人は何かに心を奪われている時は、平静さを保つことなど出来ていないはずなのに、いや自分は正しく理解できていると錯覚してしまうのです。その錯覚は、「こうあってほしい、こうあるはずだ」という切なる願いから紡がれる幻影なのに。
その、黒岩さんにそっくりのONEの画像を見れば見るほど、他人の空似とは思えなくなっていた私は、プロフィール画像を検索にかけてみました。私とて、そうあって欲しいと言う願望に動かされていました。画像検索は全く同じ画像がネット上にあればそれがどこに掲示されているかも分かりますが、類似画像になると、構図が似ているもの、単に男の顔写真のものなども膨大にヒットします。私は検索結果を順番にチェックしていきました。その
社会人ラグビーチームの選手紹介の画像でした。正方形のフレームの中で、ユニフォームを着て正面を向いている男の顔は、黒岩さんかと
生まれた年や状況から彼は黒岩さんのご長男違いないと感じました。私に「しばらく会えないかも」と告げ、その後会えなくなった時期に、ご長男の彼が生まれています。同じ頃、宝石の会社を辞めアクセサリーの卸事業で独立していましたから、おそらくお子さんが誕生するのを機に、全国への出張が大半の仕事を辞めて、人生設計を描こうとされたのかもしれません。私には彼の真意は分かりませんが、女性と結婚して生殖行為をして、子孫を残すことができる男は、やはり「家を守る」と言う本能が備わっているのだと思います。そのインタビューを読み進み『僕が高校の時に父が病死し、ラグビーを諦めかけた時・・・』の行を目にした時、私は息が止まるような胸の苦しさを覚えました。ありきたりな比喩だった「胸が痛い」、まさにそれでした。計算すると50代での逝去。黒岩さんは厳しくも優しい父親として息子に尊敬されており、彼は支援を得て大学へ進み、ラグビー選手として大学時代にリーグ上位の活躍をしていました。インタビュー記事はその時のものでした。記事の終わりの方で、父親の大切にしていたダイアモンドのネックレスをお守りのように携帯して試合に臨んでいる。などと書かれたところまで来た時、涙が込み上げてきました。あれほど恋焦がれた男がもうこの世にいない事実と、黒岩さんがダイアモンドのネックレスを大事にしていたことに、後悔と愛しさと感謝と憎さとが全部一体となって、溢れてきたのです。なぜ死んだ、なぜダイアモンドを大事にしていた、という泣き言のような自問が何度も襲ってきました。息子に残した一粒が私を歓喜させたあの石であって欲しい。それは惨めで甘美な願いであったろうと思います。私は自分の首にかかったネックレスを握りしめて長い時間嗚咽しました。それは最後の夜の行為の後、あのダイアモンドを1粒使って、黒岩さんがその場でチェーンにセットし献呈してくれたものでした。
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