祖父が亡くなった日

ほしのしずく

第1話 祖父が亡くなった日

 私には、自慢の祖父がいました。


 夏は決まって麦わら帽子にランニングシャツ虫取り網を持ち歩き。


 泳ぐのが得意で、何時間でも浮いていられると豪語し。


 冬は肌色の股引きを着て、その上にセーター姿で、クリスマスが来るとサンタのコスプレをする。


 子供より、遊びを楽しむ、遊びの達人と呼べる祖父が。


 歯が三本しかない、その特徴から『歯のじいちゃん』と呼んでいた祖父です。


 それではお付き合い下さい。


 私の家庭は特殊でした。


 教育熱心な母が居て、もう覚えていませんが、普通に働いていた父もいた幼少期だったと思います。


 ですが、ある時。

 父が家庭を離れ、母は三人の子供を抱え奮闘することになりました。


 その中で私は、母に本音を言えず気を遣うことが増え、次第に内向的になっていきました。


 そんな私を寄り添ってくれたのが祖父でした。


 何気ない話を、全力で興味を持ち、耳を傾け。


「凄いなー! 何でも知ってるなー! 将来が楽しみや!」


 と言うのです。


 入れ歯をカパカパさせながら。


 もちろん、母も逞しく、素晴らしい人です。


 ですが、当時はまだ生活に必死な時期。


 子供三人を見ながら、全てを知るなんてことは難しく。


 いえ、もしかすると私が気を遣い過ぎただけかも知れませんね。


 当時の自分が今の自分のように、意思表示ができる子であれば回避できる問題ばかりだったかも知れません。


 でも、それはタラレバであって、あの過去がなければ私という存在はできなかったわけで――。


 すみません。

 話が逸れました。


 とにかく、幼少期から大人になるまで、祖父の存在が支えでした。


 休みの度、一人で電車に揺られ、祖父の家に訪れたことを思い出します。


 今日は何の話をしよう。

 漫画かな。アニメかな。それとも歌の話。

 色んなワクワクを抱いて通っていました。



 ☆☆☆



 時が進み、大人になった時。


 私が二十三歳の年。


 祖父が倒れました。


 知らせてくれたのは、地元の町内会の方。


 新聞紙がたまっていたから、何事かと思い、大家さんに連絡をし鍵を開けてもらうと、玄関先で倒れていたようです。


 まだその時は微かに意識があったらしく、救急隊員の方と町内会の方に「お風呂で転けた」と言っていたらしいです。


 ちなみ、それが年明けで。


 その三日前に祖父から銭湯に行こうと言う誘いが来ていました。


 でも、私は断りました。


 大人になったことで、予定がつかなくなったこと。


 他にも新たな出会いがあったり、興味を持つ物が出てきたからです。


 倒れた話を聞いた時は、自らの対応を心から悔いました。

 あの時、断らず一緒に行っていれば。

 助けられたのではないかと。


 今まで助けてくれた。

 寄り添ってくれた。


 それなのに。

 自分の都合ばかりで。

 肝心な時にいない。

  

 当時は本当に胸が張り裂けそうでした。

 ですが、同時にまだ何処か現実と思えなくて。


 手術をすれば、すぐ元気になり「将棋を差したい」や「銭湯に行こう」と言ってくれるのではないか。


 そう漠然と思っていました。


 でも、そう簡単ではありませんでした。


 奇跡的に意識を取り戻しましたが右半身不随となってしまったのです。


 それでも祖父は諦めず、リハビリを繰り返すことで立てるようになりました。

 当時の年齢が八十三。

 驚異的といっていい回復でした。


 今思えば、幼少期を除くとあの時が一番、祖父の元に通った日々だったかも知れません。


 

 ☆☆☆

 


 入院から半年後。

 その驚異的な回復もあって病院を変えることになりました。


 ですが、そこで様態が急変してしまいます。


 危篤には至りませんでしたが、意識不明となり。

 駆け付けた時には、寝たきりとなっていました。


 通い続け、手を握り続けても応答はなく。

 虚しくさみしい日々が続きました。


 そこから三ヶ月後。


 ふと目を覚まします。

 でも、私の顔を思い出せないのか、首を傾げます。

 ですので、大きな声で名前を口にし。


「私はじいちゃんの孫! 忘れないで!」と言いました。


 すると、泣きながら、声にならない声で「そうやな」と頷いてくれました。


 それが最後の会話でした。


 次に連絡が来た時は、危篤の電話でした。


 駆け付けた時には黄疸が広がり、全部の機器が取り外された状態。


 かなしいさみしい気持ちももちろんでしたが。


 同時にお疲れ様という気持ちも抱いていました。


 亡くなる間際はたんが絡まり、鼻に通されたチューブも痛そうで。

 見ていられなかったからです。


 これは意識のあった時ですが、排泄なども、面倒をみてもらうことが嫌だったようで、その時間帯に訪れると機嫌がとても悪かったです。


 きっと最後まで、頼れる祖父で居たかったのではないかと今になって思います。


 危篤の確認を終えた私たちは、病院が手配してくれた霊柩車と共に祖父の家に帰りました。


 そこから葬儀屋に連絡し話が始まります。


 内容は式の日程に、霊柩車の種類や喪主を誰が務めるのか、そして花の種類や形式などでした。


 霊柩車は、祖父が生前好きだった車種、ベンツの霊柩車を選び。


 喪主については母の姉の旦那さん、私にとって叔父にあたる方が務めてくれることになりました。


 そして問題はお金。


 入院費と、葬式代諸々を含めたら三百万円。


 母子家庭であった私の家庭には、そんな大金すぐ出てくるわけもなく、ありがたいことにその場は叔父が肩代わりしくれることになりました。

 


 ☆☆☆

 


 そこからまた時が進み、葬式当日。


 町内会や、親族には連絡を入れていましたが、何処から聞きつけたのか、生前、祖父と交流のあった方々が駆け付けてくれました。


 当初は三十人くらいがきてくれるだろうと見越していましたが。


 抑えた式場には、数十人ではきかない人たちが外まで列を成していました。


 そこであることを思い出しました。


 生前、祖父が語っていたことです。


「大工、そして、蕎麦屋、天ぷら屋、トラックの運転手など、色んな職業を立ち上げてきたんだ」と。


 大工も、トラックの運転手も経験してきたことは知っていました。


 実際に仕事を見たりしていたので。


 ですが、蕎麦屋や天ぷら屋などは大きく言っているのかなと子供ながらに思っていました。


 けれど、ここに来て、あの時言ったことはあながち嘘ではないということを知ったのです。


 あ、ちなみにですが、飲食業に関しては全く成功せず、すぐ畳んだようです。※のちに当時を知る親族から聞きました。


 その人が亡くなる時に、素晴らしさがわかるなんて言ったりしますが、祖父に起きたことがまさにそれでした。


 親族だというのに、訪れた人数に顔を見合わせて驚いていたのを思い出します。


 そこから、葬儀は順当に進み、出棺の時。


 親族を乗せたバスと祖父を乗せた霊柩車は火葬場に向かいます。


 私は、バス運転席の隣、遺影を抱えて座りました。


 この時の感情までは、なかなか思い出せなくなっていますが、やっぱりさみしいが大半を占めていたと思います。


 今でも、話をしたくなっちゃいますからね。


 そして、火葬場についた私たちは、係の方から注意事項と焼却時間などの説明を受けて、その時間を控え室などでお菓子を食べて過ごしました。


 ここで不思議な雰囲気になります。


 先程まで亡くなったことを惜みかなしんでいたのに、気が付いたら、祖父の思い出話に華を咲かせていたのです。


 もちろん、私自身も。


 それはきっと祖父の人柄もあったのかも知れませんし、それなりに生を全うできたからこそなのかも知れません。


 今でも不思議だったなーと思い出すことがあります。

 

 また、時間が進み、係の方から声が掛けられました。


「ご準備ができましたので、宜しくお願い致します」


 いつの間にか談笑し、売店で買ったお菓子をバリバリ音を立てて食べていた私たちは、慌てて残っていたお菓子を口に放り込み、係の方が案内する方に向かいました。


 

 ☆☆☆

 


 火葬炉前に着くと、骨受け皿に乗った骨がありました。


 そう、骨となった祖父です。


 当時は、祖父の骨になった姿を目にしても、祖父なのに祖父でない不思議な感覚に陥っていました。


 そこからまた、係の方から骨上げの作法や、喉仏の由来であったり、日常生活では見聞きしない話を耳にします。


 かなしいのに、誰もがその話を傾聴していました。

 

 そして、骨上げのタイミング。


 ここで母があることに気付きます。


「あれ、歯が三本ある!」


 その一言を聞いた親族は、顔のあった場所に目をやります。

 するとどうでしょう。


 入れ歯は完全に消え去っているのに、自前の歯が三本だけ残っていたのです。


 それを目にした親族が泣いているのに、笑っている状態になりました。


 そこからも、なんというかちょっと不謹慎かも知れませんが「全部入れたらんと可哀想やし、困るやろ」などと言い始めた年配の親族を皮切りに、全員が骨壺にバリバリと音を立て、焼骨を入れまくりました。


 そうして、無事、お葬式から骨上げまで終えることができました。



 ☆☆☆

 


 そこから数年間。


 いえ、今でもふと語らい合いたくなったりしますが。


 終わりよければ全て良しを体現した祖父のおかげで、かなしい日々を思い出すよりも、楽しかった日々を思い出す頻度が多い気がします。


 後悔をしていないか? と問われると後悔ばかりです。でも、祖父のように、自分の人生を走れるだけ走り抜けて。


 いつか骨になった時、残された人が楽しい思い出を思い出してくれるような存在になりたいです。


 そういう思いの方、強いかもです。


 さてこのエッセイで伝えたかったことは、祖父の生き様と、別れは突然訪れるということです。


 こればっかりはどうしようもありませんが、偶然放った攻撃的な言葉や、他人を貶める言葉。


 それが誰かにとって最後の言葉とならないように、して欲しいなというそんな感じです。


 はてさて、この話にはまだ少し続きがあります。


 下世話ですが、お金です。


 叔父が肩代わりしてくれましたが、そんなひょいひょい肩代わりできる金額ではありません。


 一般人にとって三百万なんて大金ですからね。


 ですが、それも杞憂でした。


 後日、祖父の家を引き払う時、タンスからぴったり三百万が発見されました。


 自分の祖父ながら、最後の最後まで、誰にも迷惑をかけない祖父だったと思います。


 思えば、奥さんを四十代で亡くし、男手1人で母と叔母を育てあげ、私たち孫の面倒を疎むことなく、一緒に楽しんで見てくれました。


 本当にスーパーな祖父だったと思います。


 ここで、祖父の逸話を1つ紹介させて下さい。


 なんと七十代から八十代まで、イベント毎がある度、必ずといっていいほど、私たちの住まう借家に訪れていました。


 しかも片道、二十キロ以上な上、車ではなく自転車でした。


 果たしてその歳になった時に同じことができるのか、想像しただけで無理なのがわかってしまいます。


 本当に何から何まで、スーパーで素敵な祖父でした。


 では、これで祖父のお話を終わりとします。


 読んで頂きありがとうございました。


 このエッセイを読んだ方に何か届けることができていたら、とても嬉しいです🌟


 ほしのしずく🌟

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祖父が亡くなった日 ほしのしずく @hosinosizuku0723

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