月を描く作家
黒本聖南
作家、人狼を拾う
一人暮らしの部屋は静かなものだ。窓を締め切ってカーテンも閉じている為に、外の喧騒は僅かにしか耳に届かない。
急かす者がいないので、この部屋の主であるマイロは眠たそうに服をゆっくり着替えていく。そうして、昨日買っておいた大きなクロワッサンを三個、ココアと一緒に胃袋の中へと仕舞っていき、朝食を終えたらそのまま部屋で仕事を始めた。
マイロ・アッシュベリーの職業は作家である。
窓際に置いた仕事机の上に、淡い黄色の書き心地の良いお気に入りの紙を用意し、珍しいものを集めた市場で昔買った紫色のガラスペンを手に持って、いつも昼過ぎまで物語を紡いでいく。
ペンを動かすたびに揺れる、艶やかな彼の灰色の髪。耳に掛けられるほどの長さの髪は、今は紐で縛られ小さな尻尾となっている。
一心に紙を見つめる瞳は葡萄色。アーモンド型の瞳は常に楽しげであり、好奇心に輝いてもいた。
他人の洗濯を請け負う近所の者に、日頃から洗濯を頼んでおり、身に纏う黒いシャツと同色のスラックスにシワは少なく、清潔感があった。
インクで汚さぬよう袖を肘まで捲っているものの、マイロの手はダークブルーのインクでいくらか汚れてしまっている。気を付けようとしてもつい汚してしまうのだ。それに苦笑いしながら、仕事に集中していく。
マイロが紡ぐ物語は恋愛に関するものが多い。彼の端正な顔は生まれた時から人目を惹き、二十数年と生きてきた人生の中で、何人もの人間が彼に自分を刻んできた。そうしたものを下敷きに、彼は物語を書く。ネタはまだ尽きそうにない。
ひたすらにペンを動かした末に、腹の鳴く音で指を止める。壁掛け時計に目を向ければ、昼をとっくに過ぎていた。ひとまずこの辺でと身体を伸ばし、彼は財布を持って部屋を出る。
道行く人に声を掛けられ、明るく返事をし、弾む足取りで向かう先はお気に入りのカフェ。そこの目玉商品である大きなチョコレート味のワッフルを、甘いココアと一緒に食べるのが大好きなのだ。今日もそれを頼むつもりだった。
「こんにちわ」
店に入るなり、軽やかで甘みのある声で挨拶をする。いつもならすぐに返事があるものだが、今日はない。はて、と店内を見渡せば、やけに人の数が少ない。
手前のテーブル席に一人だけ客が座り、あとは奥のカウンター席に人が集中している。数人の客は身動ぎもせずに静かに背を向けて、カウンター内の店員達は戸惑いを顔に浮かべていた。
テーブル席の唯一の客はテーブルに突っ伏しているのだが、様子がなんともおかしい。
鴉の濡れ羽を思わせる、マイロよりは若干短い黒髪の上に、とんがった獣耳が二つくっついている。おそらく飾りではない、ひくひくとしきりに震えていた。
そしてその客が腰掛ける、背もたれのない丸椅子の足元では、ふさふさの尻尾が揺れている。その根本は客の臀部だ。
「……っ」
マイロの葡萄色の瞳が、好奇心に輝きを増す。本能の命じるままに、客がいるテーブル席に向かい、正面に腰掛けた。
「この街は初めてかな?」
客は答えない。答えないがゆっくりと顔を上げ、呆けた顔でマイロを見つめる。
雄々しく整った客の顔は、サファイアのような青い瞳とは反対に、酒でも飲んだように赤い。このカフェは酒の提供をしていないはずだが。
「僕はマイロ・アッシュベリー。しがない物書きさ」
客は答えない。静かに首を傾げてマイロを見つめる。視線は目の前の客だけでなく、カウンターからも感じていた。マイロの行動の意味を計りかねているようだ。
マイロの顔は、いつになく楽しそうで、弧を描いた口は歌うように言葉を溢す。
「──見たところ、君は人狼ではないかな?」
人狼。
人の姿を持ちながら、狼でもある者。
彼らは総じて青い目をし、人の姿にも、狼の姿にも、そして今の客のような獣耳と尻尾を生やした人の姿にも、自在に姿を変えることができると、マイロは時折、その存在を話に聞いていた。
誰かの与太話だと本気にしない者もいたが、本当にいたら面白いと、マイロは密かに気になっていた。
そんな存在が今、目の前に。
放っておけるマイロではない。
「この街には観光で来たのかい? とても良い街だよ。治安は悪くないし、食べ物はどれも頬が落ちるほどに美味しくて、図書館は付近の街に比べると一番大きくて蔵書も多い。墓地には有名な聖人の墓もある。立ち入りは自由だから一度参るといいよ。なんなら、案内してもいい」
「……」
「どうやら酒をひっかけたみたいだが、ここのワッフルは是非とも素面で食べてほしかったね。僕の人生でこんなに美味しいお菓子は食べたことがないってくらいに、絶品なんだよ」
人狼の手元の皿には、半分ほど食べられたワッフルがあった。残りの半分も胃袋の中に入れてほしいと思いながら、マイロは身を乗り出す。
「今夜の寝床は決まっているかい? もしまだなら、うちに来ないか? 狭い部屋だが君一人くらいなら泊められる。なんなら、滞在中に掛かる費用は全て出させてほしい。ここの支払いも僕がしよう」
「……」
「だから、どうか──君を書かせてくれ」
とびきりの甘い声で、マイロは乞い願う。
「一目見た時から君を書きたくて仕方なかった。今書いているやつは今日中に終わらせる。どうか、どうか君を」
がくん、と、人狼が再びテーブルに突っ伏した。やがて、小さな寝息がマイロの耳に届く。
「……頷いたね」
頷いてはいないと思うが、マイロの中ではそれは、頷きだ。
彼はカウンターに目を向け、店員を呼び寄せる。恐る恐るという足取りで近寄ってくる店員に、マイロは告げた。
「ワッフルを六つ用意してくれないかな。プレーンとチョコレートをそれぞれ三つずつ。支払いは彼の飲み食いした分も合わせてほしい」
「か、かしこまりました」
「それから人を何人か呼んでくれないかな。僕の細腕じゃ彼を運ぶのは大変だから」
「は、はいっ!」
去っていく店員の背中から目を逸らし、突っ伏して眠る人狼を見つめる。起きる気配はない。部屋まで運ぶのは骨が折れそうだと思いながら、柔らかな笑みを人狼に向けた。
「楽しくなるね」
作家と人狼の物語は、人狼の記憶に残らないままに始まる。
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