五章Ⅲ 『還る』

 ぼんやりとした光が、目蓋の裏を透かして、意識が覚醒する。

 俺は、横になっていた。


 ゆっくりと首を右に向けると、メルルの顔があった。

 整った、美しい顔立ちだ。瞳には、玲瓏たる碧。


 ――改めて思うけど、俺って面食いなのかもな。

 そんな馬鹿げたことを考えている間も、彼女はじっと俺の顔を見ていたようだった。

 すらりとした鼻筋に、長くなった銀髪がかかる。


「起こしちゃった?」

「いや、そんなことないよ。その……ありがとう」

「気にするなよ。お互い様だし、私たちの仲でしょ? ……ううん、もう、私だけになったのか」


 メルルは右腕を伸ばし、サイドテーブルに置かれていたモノをつまんだ。

 バルムンクの『結束の紐飾り』だ。

 一瞬、戦姫の姿が脳裏に浮かぶ。かつて俺たちと共に戦った彼女を。

 そして、竜魔王となった彼女の姿を。


「まだ――」


 続く言葉が、出てこない。

 俺は、彼女をどう見ている? 仲間か? それとも――?


「……バルムンクは、死んだんだね。自らの生命を火種に、魂を焚べた。自分自身を鍛造するために」


 俺は、壁に立てかけている聖剣と――その隣に並ぶ魔剣を見る。


「……ああ。俺が、バルムンクを見殺しにしたんだ」

「…………」


 メルルの動きが止まる。彼女は目を伏せ、言葉を紡いだ。


「イサム。彼は絶対に、見殺しにしたなんて思ってない。アイツとの付き合いは短いけど、イサムに対しては、真摯だったよ」


 俺はようやく、メルルの眼を見ることができた。

 碧の瞳は、大空を思い起こさせる。

 上体を起こした彼女は背筋を伸ばす。長い銀髪が胸元と背中に落ちていく。

 両腕をおもむろに、頭の後ろでまっすぐ上げた。

 透き通るように美しく、真っ白で、おそるべき乳房が重く揺れる。


 不思議なことに、劣情は沸かなかった。ただ、幸福感だけが俺を包み込む。

 だけど、聞かなくちゃいけないことがある。


「メルル……今まで何をしてたんだ?」


 彼女は唐突に、俺に覆い被さるように身を寄せて、二つの胸を顔に押しつけてきた。

 どくどくどく。

 彼女の心音が鼓膜を震わせる。その音は大きくて、俺の心臓の鼓動と共鳴するみたいだった。


「ある研究をね。風の噂で聞いたんだけど、王国は私を国賊として手配していたんでしょ? 酷い話だよな」


 おどけるように、メルルは肩を竦めてみせた。


「あ、でも。行方をくらました理由の一つに、私がイサムのことを好きなのが、彼女にバレてたからってのはあるかな。多分、すぐに狙われるでしょ?」


 そう笑って、俺をそっと離した。名残惜しい。

 自然と、顔と顔の距離が近づく。

 どちらからともなく、唇が重なった。


「ああ……」


 ああ――綺麗だ。


「なんだよ。もう顔を赤くして、ドキドキはしてくれないの?」


 目を細めて笑う彼女は、指先で俺の髪を撫でた。


「――うん」

「大人になったんだ?」


 メルルのふっと吐き出された息が、前髪に触れる。


「どうだろうな。なったつもりでいたんだ、きっと。現代からこっちに来て、二年が経過して、それで帰還して、時が過ぎていって――」


 ――こんな話、面白くないだろ? 話し下手だからさ。

 ううん、と。メルルは応える。


「かつて、一緒に過ごして来た友人たちは、離れていった。その時に感じた孤独を――ああ、そうだ。その孤独を俺は、大人になった証だと勘違いしたんだ」


 俺は思い返す。

『なんか、前より読むのが遅くなっちゃったんだよな、俺』


 友人が貸してくれた漫画を読み進めるのが遅かった理由。

 それは、俺が大人になったからじゃない。

 環境の変化に、心が付いていけなかっただけなのだ。


 ……何が、責任は果たさなきゃ、だよ。

 一番大人になれていないのは、俺じゃないか。



□ □

「パイプ、やめたんだ?」

「うん。嗜好品はもう手に入らないから。でも、吸わないのに慣れちゃったよ? あっても、もう吸わないかもね」


 彼女と、取り留めの無い話を続けたかった。


「イサムが元々居た世界って、平和だった?」


 どうだろうか。日本は比較的平和だ。銃の携帯なんかは許されていないから、なかなか人が死ぬこともない。だけど、虐め問題だとか、スキャンダルとか、ハラスメントだとか、テロとか……性犯罪だとか――ニュースになるのはいつも暗い話だ。


「うーん……どうだろう。俺の国はまだ、平和な方だとは思うけど。メルルは、記憶が読めるだろ? 俺の記憶を読んでみなよ」

「……今は、イサムの声で聞きたい」


 俺はゆっくりと、日本の話をした。


 しばらく二人で話し続けて、話し疲れて、裸のまま抱き合った。


「行ってみたいな、イサムが居た場所に」

「……だな」


 それは、叶わない。お互い分かっていることだ。


 ――ふと、思い付いたことがあった。


「そういえばさ……記憶を読むことができるのなら、渡すこともできるの?」


 彼女が少し笑って、

「できるよ」

 と答えた。


「じゃあ、メルルの記憶を俺に見せて。……君の苦しみを、共有させてくれ」


 彼女の髪に、顔を埋める。

 ふと、メルルの腕に力がこもった。


「……やだ」

「なんで?」

「…………見られたく、ないんだ。私は、征伐戦の後、一行から離れた。予言者である私は、未来を読めていたのに。ゴンザレスとバルムンクが死ぬことも、分かっていたのに。彼女が、魔王となるのも分かっていたのに。……そうだとも、私は、大人になれなかった。イサム、私も彼女と何ら変わりはしないんだ。キミが欲しかった。だから、この未来を回避させるなんて、思いもしなかったんだよ」


 それは、メルルの懺悔だった。


「……それは」


 彼女の頬を、俺は撫でようとする。

 今にも壊れそうな、その白い肌に触れるのは、怖い。

 俺はバルムンクを見捨てたから。ゴンの意思だけを、都合良く継いだから。アイツの気持ちを、分かってやれなかったから。

 だけど、メルルの表情はいつの間にか、暗いモノに変わっていた。その身体が震えていることに気がつく。

 彼女は、自分を罪人だと思っている。確かに、未来を回避させられたかもしれない。

 ――でもさ。少しくらい願ったことが罪だなんて、俺にそんな資格があるだろうか?

 俺はそっと、その肌に触れる。ガラスのヒビに指を沿わせるみたいに。


「大丈夫。彼らも、メルルを信じていたよ」

「そう……それなら、良かった」


 メルルは、静かに涙を流す。

 俺も、自然と涙が出た。



□ □

 俺たちは、産まれ落ちた姿から、普段の装いに戻っていた。

 地下から地上に上がるために、階段を一歩ずつ上る。


「メルルは、さ。あいつが竜魔王になった理由を、知っているのか?」

「……うん、知っているよ」

「それって、なんで?」

「キミのことを愛していたからだ」

「……彼女もそう言っていた。でも、俺は、愛されるようなことをしていない。だって、俺が愛しているのは、メルルだ!」


 彼女は、寂しそうに笑った。


「私、結構察しの良いほうなんだけどな。イサムが私を好きだなんて、さっき知ったもん」

「そうなんだ……」

「うん。……イサムはね、私たち一行を、平等に助けてくれたんだよ。私を、ゴンザレスを、バルムンクを、リリスを」

「……それがなんで、愛って話に……」

「愛の形は違うけれど、みんな、キミを愛していたんだ。キミがいなければ、一行が立ち行かなくなるほどに」


 よく、分からない。俺は、全力で取り組んだだけだ。


「……」

「……それぞれ、何かを抱えていた。共通していたことは、私たちには青春というモノが無かった。イサムが来て、みんなに青春が来たんだ」

「分からないよ、意味が分からない」

「勿論、『魔器』の影響もあった。あの武器を持つと、感情が肥大化される。――イサムは、私たちと関わり過ぎた。全部、イサムがなんとかしてくれた」


 彼女は一度俯いて、迷うように、顔を上げた。


「――私たちを突き放してほしかった。成長の機会を奪ったんだ。だからみんな、キミに寄りかかっちゃった。イサムが居ない世界に耐えられなくなった。イサムが、私たちの光になっちゃったんだ。……ごめんね、全部、イサムの所為みたいに言っちゃって」


 つまり、こうかよ。

 みんなの青春コンプレックスを、俺が解決した。

 俺で、解決してしまった。

 だから、彼らは思春期を卒業できなかった。大人に、成れなかった。


「だから、戦姫――リリスは、俺を求めた……」

「うん。誰しも、『あの頃』に還りたい瞬間がある。でも、還れない。――彼女だけは、還れたんだ。竜魔王になることで、勇者をこの世界に引っ張り出せた。たとえ、私たちと敵対しても、魔物が復活して、王国が滅びたとしても。彼女にとっては、些事だった。もっと大事なモノが、あったから」


 全部、俺の所為だった。



□ □

 俺たちは、静かにバルムンクを弔った。

 土に眠るのは、彼の『結束の紐飾り』。


 彼女が呟く声は、どこか寂しげで。


「こんな村に埋めるのは忍びないけどね。ごめんね、騎士団長殿」

「全てが終わったら、王国に移すよ。だからそれまで――」


 俺は、左手に持つ魔剣に触れた。その冷たい感触が、俺の決意を固めてくれる。

 ――もう少し、俺と共に戦ってくれ。


 そして、意を決してメルルに問いかける。


「……お前がやってた研究ってさ。この現状を打破できるモノなんだろ?」


 メルルはふと、天を仰いだ。

 夜空に浮かぶ煌めきが、彼女の碧空に反射する。


「うん――禁忌の魔術の再現を」

「禁忌の魔術?」


 聞いたこともない。

 禁忌というと、世界を滅亡させるとか、そんな類いの?


「神の権能の再現。時を巻き戻す魔術――時魔術という」


 その言葉が、身体に稲妻を走らせた。

 時を戻せる。なら――!


「それなら――」

「そう。この現状を打破できる――というより、無かったことに出来るんじゃないかな。竜魔王を元に戻す方法は恐らく、無い。そして、私の予言も、ここで途絶えている」


 喉が詰まった。

 既に、被害は出ている。

 彼女を元に戻すという発想さえ、いつの間にか俺の頭から消え去っていた。


「――完成したのか?」

「……紛い物がね。時魔術『仮称・超転移』は、一度きりの魔術だ。当然だけど、実験はできてない。魔杖から抽出した魔力を使用した。いま、この世で一番、神の権能に近いだろう」


 重要なことをひとつ、聞きたかった。


「それ、いつまで戻れる?」


 俺は、メルルが幼少期だった頃に戻りたい。

 この村を燃やし尽くして、それでも残ったら、残ったモノも燃やすよ。


 考えが見透かされたのか、彼女は寂しそうに笑う。


「……気持ちは嬉しいけれど、戻れるのは三年前、イサムがこの世界にやってきた瞬間だ。でも、ありがとう。……肩を落とすなよ。そんなことより、独りで魔器を見つけたことを褒めて?」


 ――魔杖エイハ。征伐戦では見つけられなかった魔器。彼女はそれを見つけ出して、独りでやりきったんだ。

 責任を、果たしたのだ。


「次は、俺が頑張る番だ」


 考える前に、口が動く。

 だが、気にすることはない。どうせ考えても、この結論に辿り着く。

 還るんだ。


 メルルはじっと、俺を見つめる。

 その碧い瞳に宿る想いが、痛いほど伝わってくる。


「本当は、イサムを行かせたくない。ずっと、私と一緒に居て欲しい……世界が終わる瞬間まで!! ……だけど、勇者。キミでなければならないんだろうな。神が選んだのは、イサムだ」


 その声には、微かな震えが混じっていた。強がるように言った言葉が、胸を締め付ける。


 メルルが言ってくれた『一緒に居て欲しい』という言葉を、そっと心にしまい込む。

 気恥ずかしさを誤魔化すみたいに、俺は話を逸らした。


「はは、あの神様なら案外、適当に決めそうなものだけどな」


 俺たちは、地下聖堂に戻るため、バルムンクに背を向けた。


 こんな放談が、俺たちには合っているんだ。

 懐かしい気分になった。五人での旅を想い出す。

 最後になるかもしれないから、長く話していたい。


「そういえば、イサムは神に会ったんだよな。どんな御方だった?」

「う~ん、すげー適当で、適当にギフトをくれて、適当に送り出してきた人? だよ。言葉遣いは、俺たちと大して変わらなかったしな」


 地下への階段を降りる俺たち。

 先を歩くメルルは、笑いながら振り向いて、俺を見つめた。

 なんて無邪気な笑顔。

 彼女の笑顔は、誰よりも可愛らしい。

 その身を燃え上がらせる蝋の光が、彼女の銀髪を輝かせる。


「せっかくなら、言語を教えて貰えれば良かったのに!」

「だよな!? 俺、最初めちゃくちゃ苦労したぜ?」


 メルルは、たった一つの真実を、俺に告げる。


「ひひひ! イサムがこの世界に来た時、一切言葉を話せなかったもんね!」

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