NTR・THE・ループ

埴輪庭(はにわば)

夢の世

 ◆


 僕──中野 良太は、相沢 瀬奈という子と付き合っている。


 彼女の全てが好きなのだ。


 彼女が少しだけ恥ずかしそうに目を伏せるしぐさも、僕の冗談にくすりと笑って「変なの」と肩をすくめるところも、本当に愛おしくて仕方がなかった。


 逆に僕は昔からどこか打たれ弱くて、自分に自信が持てない人間だった。


 瀬奈はいつも笑い飛ばして「良太には良い所が沢山あるんだよ」なんて言ってくれたけれど、時々、「自分なんかで本当に大丈夫なのかな」と不安になることがあった。


 瀬奈ほど魅力的な人が、どうして僕みたいな男を好きでいてくれるんだろうか、と。


 でも付き合って1年経ち、2年経ち、同棲をする頃には瀬奈が僕を好いてくれているのは当然だと思うようになった。


 物事に絶対なんてものはないのに。


 ある日の朝、瀬奈はある男から執拗に誘いを受けている、といい出した。


 起きたばかりで頭のそこかしこに寝癖が跳ねている瀬奈を見ながら、僕はぼんやりと話を聞いていた。


 彼女の職場関係の飲み会で知り合った男らしい。


 僕は「そうなんだ、大変だね」くらいしか言わなかったのだけれど、瀬奈は不快そうだ。


「連絡するな」と伝えても、相手はまるで通じていないかのようにメッセージを送り続けてくるという。


 僕は「ブロックしちゃえば?」と言ったけれど、瀬奈は「職場関係の人だとなかなかね……」と困ったように笑う。


 たしかに相手が逆上でもしたらトラブルになるかもしれない。


 僕はそのとき、曖昧に「気をつけて」としか言えず、最後は瀬奈が「大丈夫だから」と僕の手を握り返して終わっていた。


 あのとき、もっと踏み込んでいればよかったのかもしれない。


 だけど僕は何もできなかった。


 瀬奈が困っていると口では言っても、結局どこか他人事のように捉えていた。


 その男——ここでは「間男」と呼ぶしかない。そいつはしつこく瀬奈を誘い続けて、ついに「一回だけ食事に付き合ってあげるから、それで諦めてください」と言質を引き出したらしい。


 瀬奈は後になって僕に告白してくれた。


「ほんとは最初から行きたくなんかなかったけど、一度だけ顔を出してきっぱり断ろうと思った」と。


 だがその結果は、瀬奈にとっても僕にとっても最悪の形となった。


 瀬奈はその日、「女友達と飲む約束がある」と言って深夜まで帰ってこなかった。


 携帯に連絡しても繋がらない。


 僕は胸騒ぎを覚えながら、自宅のソファでただひたすら瀬奈を待った。


 外では季節外れの冷たい雨が降っている。


 もしかしたら単に電車を逃しただけかもしれない。


 自分にそう言い聞かせて、僕はただ動悸のする胸を抱え込んでいた。


 午前2時を回った頃、瀬奈は帰ってきた。


 びしょ濡れで、目は赤く腫れている。


 決して僕とは視線を合わせようとしない。


 それだけでもただ事じゃないとわかった。


 僕は何が起きたのか問いただそうとしたけれど、瀬奈はそれを制するかのように僕の胸に顔を埋めて、細い声で「ごめんなさい、ごめんなさい……」と何度も繰り返した。


 その様子を見て、僕は嫌な予感が現実化したことを悟る。


「……抱かれたの? 女友達じゃなくて、あの、その……しつこかったっていう男と会っていたの?」


 自分で口にして、あまりの生々しさに吐き気がした。


 瀬奈は俯いたまま、項垂れるように小さく頷く。


 背中が震えていた。



「違うの……私は……私は良太が好きなのに……」


 何度も聞いたはずの瀬奈の愛の言葉が、今は耳に突き刺さる。


 胸に拭いきれない嫌悪感と自己嫌悪とが混じり合って、どうしようもない感情が渦を巻く。


 僕は言葉を出そうにも声が上手く出てこない。


 喉がひゅうひゅうとなり、まるで呼吸さえ忘れてしまったようだった。


「なにか、無理やり……やられたのか?」


 それならまだ救いがあると思った。


 彼女は悪くないと自分に言い聞かせられる。


 その考え自体も吐き気がする者だったが、この時の僕にはまだマシな結末に思えた。


 なぜなら無理やりならば、からだ。


 だけど瀬奈はまた弱々しく首を横に振る。


 どうやら合意しての事らしい。


「本当は嫌だった」と言い訳する彼女の姿は、僕にとって信じたくない現実を突きつけてくるだけだった。


 ◆


 瀬奈が好きだという気持ちは変わらなかったが、彼女と目を合わせるだけで心の中に鋭い痛みが走る。


 最初のうちこそ何とか二人の関係を元に戻そうと必死で笑顔を作ったり、瀬奈に「僕は気にしてない、大丈夫だよ」と声をかけたりもした。


 瀬奈も「もうあんな事は絶対にしない」と誓ってくれたし、繰り返し「ごめんなさい」と謝ってくれた。


 だけど僕の心には瀬奈を傷つけたくないという気持ちと同じくらい、裏切られた事実が根を張っていた。


 僕は弱い人間だ。


 瀬奈を見るたびに、あの間男と身体を重ねた事実が暗い残像となって蘇った。


 抱かれた、抱かれた、抱かれた! 


 瀬奈は、僕の知らない男に抱かれた!! 


 僕を裏切った! 


 何度か瀬奈を責め立てる衝動が湧いたが、同時に「そんなことをすれば瀬奈はさらに傷つく」という思いも働き、言葉に詰まる。


 苦しい。


 どうしてこんなにも苦しいのか。


 僕は何事もなかったかのように振る舞おうとした。


 でもダメだった。


 ある日帰宅途中に、あの間男と瀬奈が言い争うように立ち話しているのを目撃してしまった。


 瀬奈は彼にもう近づくなと繰り返していた。


 男はゆるい笑みを浮かべて「じゃあ、もう会わなきゃいいのか?」なんて気だるそうに返している。


 最初は胸を撫で下ろした。


 瀬奈は間男を拒絶してくれているんだと安堵した。


 けれど男の言葉を聞いたとき、僕は全身が凍りつくような感覚に襲われた。


「でもさあ、あんな風に甘えてきたのはお前だろ? あのときも『彼氏と別れようかな……』って言ってたじゃん」


 瀬奈が「そんなわけないでしょ!」と激しく否定する声が聞こえた。


「甘えてなんかいないわよ! ただ……ただ、良太は、私が何をしても『いいよ』って言って、それは嬉しいけど……でも、それって優しいんじゃなくて、実はどうでもいいって思ってるから、なのかなって……」


「それで嫉妬させようとして飲み会だけいったら、まんまと潰れて俺にお持ち帰りされちまったわけだ! でも俺に抱かれてる時のお前は随分と……」


「言わないで!!」


 胸が締め付けられ、僕の内側で何かが大きく崩れた。


 ああ、僕は、やっぱり彼女を満たせるほどの存在じゃなかったのだ。


 結局、瀬奈に声をかけられず、僕はそっと物陰から逃げるように帰宅した。


 家に帰って瀬奈を待って──それから怒鳴り散らしてやるべきか、問い詰めるべきか、いろいろ考えた。


 でも僕は臆病者だ。


 瀬奈に嫌われたくないという思いがある。


 結局その日は、瀬奈に何も言えなかった。


 そして僕らは初めて別々に寝た。


 ◆


 あの光景を見てしまってから、もう僕は瀬奈の顔をまともに見れなかった。


 一緒にいると息苦しいのだ。


 でも瀬奈は「ご飯作るね」とか、「週末はどこ行こうか」なんて無理に明るくしてくれている。


 僕はそんな瀬奈を嫌いになれない。


 じゃあこれまでと同じ様に好きで居られるかといわれれば──NOだった。


 自分の弱さが呪わしい。


 そのまま数日が過ぎ、瀬奈もどこか気を遣っているのか互いに腫れ物を触るような空気になった。


 何か一言でも言ったら、あるいは言われたら。


 それまで保っていた何かが崩れてしまいそうで、どちらからも決定的な言葉が出ない。


 煮え切らない苛立ちと、形容しがたい喪失感が入り混じり、僕は夜もほとんど眠れなかった。


 仕事も集中できず、上司に叱責され、休日も部屋に引きこもって塞ぎこんでいた。


 瀬奈といずれ元通りになる日が来ると信じる気持ちと、この苦痛から逃れたいという願望で気が狂いそうになる日々が続く。


 もし、すべてをリセットできるなら……そんな考えが頭をよぎる。


 心が壊れ始めていた。


 そしてある日の夜、僕はそっと家を出た。


 何となくコンビニに寄って、缶コーヒーを飲みながらコンビニの軒先に立ち尽くしていたら、どこへともなく消えてしまいたいという思いに駆られる。


 僕は情けなかった。


 まともに話し合うことすらできずに逃げ出した自分がいやでいやで堪らなくて、死にたくてどうしようもなかった。


 そのまま足を運ぶように線路沿いを歩いた僕は、いつしか高架下のフェンスを乗り越え、緩やかな土手を下りて橋脚の下へと向かった。


 冷たい風に晒されながら、気づけば両手が真っ青にかじかんでいる。


 色んなモノから逃げてきた僕は、ついに人生からも逃げる事になったのだ。


 そうして僕は橋から身を投げた。


 足元に感じる空虚な浮遊感と、頭上で風に煽られた服がばたつく音。


 それきり、僕の記憶は断ち切られた──はずだった。


 ◆


 だが、僕の意識は完全に消えることはなかった。


 死んだのに、死んでいない。


 そんな奇妙な感覚の中で、僕は自分がどこにいるのか、どうなっているのか、最初はさっぱりわからなかった。


 ただ、暗い闇の中に浮かんでいるような状態で、「瀬奈に会いたい」という思いだけがどうしようもなく強く渦巻いていた。


 気づいたときには、ぼんやりと霧がかかったような空間に居た。


 向かいには瀬奈の姿がある。


 瀬奈は僕の姿を見て一瞬息を呑み、「良太……」と呟いた。


 震える手を伸ばし、けれど触れることはできない。


 お互いの輪郭が淡く揺らめいている。


 なんとなく、これは夢なんだと直感した。


 ここでなら瀬奈に言葉を伝えられる──そう確信した。


 不思議なものだ。


 それまで言いたくても言えなかった事が、ここでなら、今なら言える。


「ごめんよ、瀬奈」


 それが最初の言葉だった。


 瀬奈を責める気持ちはなかった。


「僕さ、ずっと自分に自信がなくて、どうしても瀬奈を繋ぎ止められると思えなかった。瀬奈が好き、って言ってくれても、『そんなの嘘かもしれない』『いつか離れてしまうかもしれない』って、勝手に疑ったりしてた。……ほんとは、不安でたまらなかったんだ」


 瀬奈の顔がほんの少し強張ったように見えた。


 でも、僕は続ける。


「だから、瀬奈が男に誘われているって聞いたときも、本気でどうにかしようとしなかった。自分には守る力なんかないと思い込んで、最初から諦めてたんだよ。言い訳としては、『瀬奈が危険になるよりはマシ』とか、『波風を立てたくない』とか、いろいろあったけど……本当は責任を負うのが怖かっただけだ」


 瀬奈の顔は曇ったままだ。


 僕は彼女に「もう自分のことは気にしないで生きてほしい」と繰り返し伝えた。


 僕が死んだのは、決して瀬奈のせいじゃない。


 弱い自分が招いた結末だ、と。


 瀬奈は僕の言葉が聞こえているのか、それともいないのか。


 ただ僕を見つめているだけだった。


 そんな日々が続いていった。


 ◆


 翌日以降も僕は不思議と1日に一度だけ、瀬奈の夢に入り込むことができるようになった。


 瀬奈は日に日に憔悴していくようで、夢の中での姿も暗く沈んで見えた。


 僕が「大丈夫か」と声をかけても返事はない。


 僕は焦った。


 少しでも瀬奈の心を軽くしてやらなければいけないのに、なぜうまく伝わらないのか。


 僕が何を言っても瀬奈は自分を責めて、僕の死を受け入れられず苦しんでいる。


 僕は恨んでなんかいないのに……。


 どう伝えればいいのだろうか。


 ある夜、僕はいつものように瀬奈の夢へ向かう。


 霧の中で、瀬奈は僕を見つめている。


「瀬奈……僕は君を恨んでない。本当だ。信じてくれ」


 瀬奈は答えない。


 手を伸ばし、僕に触れようとするが──すり抜けてしまう。


「私には、良太に触れる資格なんてないよね」


 そう言って瀬奈は霧の向こうへと歩き去って行ってしまった。


 瀬奈は、それから間もなくして自ら命を断った。


 ある天気の良い朝、ふらりとマンションの屋上へ行って、そのまま飛び降りて死んだ。


 マンションは15階建てで、瀬奈は頭から落ちた。


 アスファルトに飛び散った肉片は瀬奈の脳漿か何かだろうか、良く分からない。


 僕は瀬奈の死体の傍らに立ち、ずっと彼女を見ていた。


 マンション住民の悲鳴。


 遠くから聞こえてくるサイレンの音。


 昼が過ぎ、夜になり。


 瀬奈の死体がどこかへ運び込まれていってしまっても、僕もそこへついていき、ずっと彼女の死体を眺めていた。


 ◇


 私──相沢 瀬奈は中野 良太と付き合っている。


 彼が何気なく掛けてくれる言葉のひとつひとつが、優しくて、柔らかくて大好きだった。


 良太は私の些細なしぐさや表情を見逃さず、「かわいい」と言ってくれたり、ふいに「今日も髪型似合ってるね」なんて気軽に褒めてくれる。


 正直、私はずっと自分に自信がなくて、だからこそそんな風に言ってもらえるたびに「この人を大事にしたい」って思えた。


 お互いに自然体でいられる関係を、これから先もずっと続けていけたらいい。


 そう願いながら、ありふれた毎日を重ねていくうちに、私たちは同棲するようになっていた。


 ところが同棲を始めてしばらくして、私は良太がどこか頼りなく見えてくるようになった。


 同僚の飲み会で会った男がしつこく言い寄ってくるという話を彼に打ち明けたときも、良太は「そっか、大変だね」程度で済ませてしまう。


 もちろん「気をつけてね」とは言ってくれるし、私が不安そうにしていれば「ブロックしちゃえば?」と提案はしてくれる。


 でも、それはあくまで“こうしてみたら? ”くらいの軽いアドバイスだった。


 私が本当に求めていたのは、もっと深い部分での寄り添いや、時には「そんな男、許さない」くらいの強い感情かもしれない。


 口に出さなかったけれど、内心、良太の優しいだけの態度に小さな物足りなさを抱いていた。


 同僚のしつこい男……佐伯 信二ははっきり言って苦手だったし、気持ち悪いとさえ感じていた。


 何度も「連絡してこないでください」と伝えても、まるで通じていないかのようにメッセージが届く。


 職場の同僚だからブロックもしづらいというのもあったが、私自身、どこかでその押しの強さに惹かれていったのかもしれない。


 もう少し強く言えば相手はあきらめたかもしれないのに。


 でも私は、はっきり拒絶しなかった。


 理由は良く分からない。


 良太が余り嫌そうにしていなかったからというのもあるのかもしれない。


 私が他の男にこうしてアプローチされているんだから、少しは嫌そうにしてよという思いがあったのかも。


 やがて佐伯にしつこく誘われ続けた結果、「一度だけ会って、きっぱり断ろう」という結論に至ったのは、今思えば愚かな考えだったと思う。


 私はその夜の出来事を思い返すたび、どうしてもっと早くすべてを断ち切らなかったのかと自分を責めずにはいられない。


 一度だけ、たった一度だけ食事をする──それだけのつもりだった。


 そこで「私はあなたを受け入れる気はない」ということを明確に伝えて、もう連絡しないようにきっぱり言おうと心に決めていた。


 だから帰りが少し遅くなることも良太に言えなくて、嘘をついて家を出てしまった。


「女友達と飲む約束があるから遅くなる」と。


 なぜ、そのとき良太に本当のことを言えなかったのか。


 駆け引きのつもりだったのか──考えれば考えるほど、私は自分の心の醜さに息が詰まる。


 佐伯との食事は最初こそ私が強い態度で断りを入れようとしたが、向こうは酒をしつこく勧めてきた。


 断れば面倒だという思いもあった。


 でも、飲まされるうちに頭がぼんやりしていって──お酒の勢いもあってか段々と口も軽くなってしまって、言いたくない事もいってしまった。


 そして店を出る頃にはしっかり酔いが回っていて、タクシーに乗せられ、そのままホテルへと連れていかれた。


 そんな事をするつもりはない──呂律の回らない口でそんな事を言ったけれど、佐伯は聞き入れてくれなかった。


 佐伯はこんな事を私に言った。


 ──「俺が何度も連絡しても彼氏さんは直接俺に連絡してこようともしなかった。あんた、本当に大切にされているのか? 俺だったら付き合っている女に粉をかけられたら絶対に許さないぜ」


 そうかも、と思ってしまったのはお酒のせいだろうか? 


 いや、私の本心だったのかもしれない。


 結局、私は押し切られる様に体を許してしまった。


 自宅に戻ったのは深夜を回った頃だった。


 季節外れの冷たい雨の中を、私は傘もささずに歩いていた。


 やがて家につき、ドアを開けると、リビングのソファに座り込んでいた良太の姿が目に飛び込んできた。


 心配してくれていたのだろう、良太の様子は明らかに憔悴している。


 それを見て私は 「ごめんなさい」としか言えなかった。


 良太の胸に顔を埋めて、何度も何度も繰り返した。


 そして、あの夜が来る。


 良太が「少し出かけてくる」とだけ言い残して、夜の街へ消えたまま戻ってこなかったあの夜。


 翌日になっても彼の姿はなく、連絡は一切繋がらない。


 焦燥感が胸を締めつけ、警察に連絡しようかとも思った。


 だが結局──警察に連絡するまでもなく、当の警察から連絡がきた。


 考え得る最悪の知らせだった。


 ◇


 それから私はしばらく何も手につかなくなった。


 職場にも行けず、食事も喉を通らない。


 ベッドに横たわっては、「もう一度だけ彼に会いたい」「ちゃんと謝りたい」と願うばかり。


 どんな言葉でもいいから、直接伝えたい。


 だけど死んだ人は帰ってこない。


 そんな私の願いを神さまか──悪魔が叶えてくれたのだろう。


 私はある晩を境に、夢の中で毎晩良太と逢う事ができた。


 でも、良太は私にこんな事を言うのだ。


 ──「いつかこうなると思っていた。僕は瀬奈をずっと疑っていたよ。いつか裏切るんじゃないかって。結局そうなったね」


 ──「裏切り者。僕を殺したのは瀬奈だ。でも君はきっと気にも留めないんだろうね。今頃あの男と毎晩楽しんでいるのかな?」


 ──「どうして泣いているの? 許して欲しいから? 僕は決して君を許さないよ。君は僕を殺したんだ」


 嗚呼、良太がとても怒っている。


 私は何度も許しを乞うたけれど、良太は許してくれない。


 でも、辛く苦しい反面、どこか安堵する気持ちもあった。


 私がしたことに対し、言葉一つで許して欲しくないからだ。


 夢の中の良太は私がしたこと、その事が良太をどれだけ傷つけたかを伝えてくる。


 それを聞く度、私は頭が狂いそうになる。


 頭がおかしくなる、おかしくなる、おかしくなる──でも良太が私に怒ってくれているという事が、どこか嬉しいと思う気持ちもあった。


 そんな日々が続いて──


 ──「どうしても許して欲しいなら、死ね。僕みたいに、飛び降りて死ね」


 と、夢の中の良太がそう言ってくれた。


 とても、とても嬉しい。


 時刻は午前7時半。


 ああ、でもそう言えば少し前から時計が壊れていたっけ。


 じゃあ時間は何時なんだろう。


 まあいいか。


 ・

 ・

 ・


 その日の朝はよく晴れていた。


 雲ひとつない青空が広がっていて、あの青の向こうで良太が待っていてくれるのだと思うと逸る心が抑えきれない。


 ビル風がごう、と髪を巻き上げる。


 見下ろす街並みは小さく、遠くに感じる。


 良太もこの光景を見たのだろうか? 


 私は柵を乗り越え、身を投げた。


 ◆◇


 朝の空気がまだ少しひんやりと冷たい時間帯、良太と瀬奈は同じタイミングで目を開いた。


 部屋のカーテンの隙間からうっすらと光が差しこんでいる。


 薄暗い寝室で、二人はそのまま息を詰めるように互いを見つめ合った。


 まるで幽霊でも見るかのような、驚きと安堵が混じった視線。


 どちらから口を開くわけでもなく、しばらくのあいだ二人は寝床の中で硬直していた。


 微かに聞こえるのは時計の秒針と、遠くの車のエンジン音くらい。


 瀬奈はおずおずとと言った風情で良太の体へ手を伸ばす。


 ──温かい


 確かに心臓は動いている。


 先に口を開いたのは瀬奈だった。


「……今、何日? えっと……時間は……」


 枕元に置きっぱなしのスマートフォンに手を伸ばそうとするが、まだ目の焦点が合わないのか、瀬奈は少し探るような手つきになる。


 良太が自分のほうのスマートフォンを取って、点いた画面を覗き込んだ。


「6月2日……時間は、7時半前かな」


 良太の声は寝起きで掠れている。


 瀬奈はそれを聞いてかすかにうなずき、再び枕に顔を埋めた。


 頭がぼうっとする。


 夢から抜け出し切れないような、身体の芯がぐにゃりとした感覚が続いていた。


 良太もまた、頭がすっきりしない。


 しばらく黙り込んだまま天井を見上げ、何やら考え込んでいる。


 ほんの数秒、あるいは数分の沈黙が過ぎて、ようやく良太は横向きになり瀬奈を見て言った。


「なんだか、凄く嫌な夢を見たよ」


 すると瀬奈も「私も」と答える。


 二人はベッドの中でしばらく動かなかった。


 そうしているうちに、瀬奈がようやくむくりと身体を起こす。


 寝癖があちこちに跳ねているのが、朝の日差しで照らし出されていた。


 それを見て良太はデジャヴに襲われる。


 瀬奈は小さく伸びをすると、卓上に置いたスマートフォンをちらっと見やった。


 チカチカと点灯し、なにかしらの着信なりがあったことが分かる。


 瀬奈が画面を確認すると、その顔が微妙に歪められた。


 良太はわずかに眉をひそめる。「どうした?」と尋ねれば、瀬奈は画面を閉じるように手で隠してから、ほんの短いため息をついて言う。


「この前会社の飲み会があってね、プロジェクトの皆で連絡先を交換したんだけど……そのうちの一人が、ちょっとしつこいんだよね」


「しつこいって……どういう?」


「しょっちゅうメッセージを送ってくるの。『食事しない?』とか『休みの日会えない?』とか……最初は社交辞令かなと思って返信してたんだけど、あまりにしつこいからちょっと気味悪いんだ」


 瀬奈が手元のスマホを良太のほうへ向ける。


 ロックを解除すると、そこには名前が「佐伯 信二」と記されたトーク画面が表示されていた。


 内容を見ると、明らかに個人的な好意を前提としたアプローチが連投されている。


 優しい文面を装っているが、しきりにデートを勧めてくるニュアンスがありありと伝わった。


 良太は思わず口をへの字に曲げる。


「うわ……こいつ──瀬奈のこと、がっつり狙ってる感じだな」


 嫌悪が混ざった口調に、瀬奈はほんの少しだけ驚いた様子で顔を見返す。


 瀬奈の知る良太という男は、余り負の感情を露わにしない。


 だから少し意外だった。


 良太はなおも言う。


「あんまりしつこいなら、ブロックしちゃいなよ。というか、ブロックしてほしい。……でも会社の人だと、いきなりはまずいのかな?」


 良太は苛立ち混じりにそう言いながら画面をスクロールする。


 途切れることなく続く文面に、表情がさらに険しくなる。


「……人の恋人にモーションかけるやつって最悪だよな」


 瀬奈は「うん……」とため息まじりに頷いた。


 会社の同僚というだけでも鬱陶しいのに、何度も断っているのに通じないのが余計に厄介だ。


 画面を下まで見た良太が、さらに不機嫌そうに唸る。


「ほんと気分悪い。コンプライアンス違反じゃないの、こういうのは。普通に上司に相談してもいいんじゃない?」


「そうだね、明日出社したら相談してみる。っていうか、嫉妬してくれてるんだ? なんか珍しいねそういうの」


 瀬奈が言うと良太は腕を組み、何やらウーンと唸って──


「いい人ぶるのは辞めることにしたんだ」


 などと言う。


 瀬奈は一瞬ぎくりとしたものの、やがて「そっかぁ~」と気の抜けたような相槌を返し、良太に抱きついた。


 そうして「私も……」と呟くと、おもむろに件の男に対して返信を打ち込む。


 ──『私には恋人がいるから、と何度も断っているにも関わらず、こうしてしつこく誘いをかけてきたことについて、トーク画面のスクリーンショットも沿えて私の上司及びあなたの会社のコンプライアンス担当者へ相談させていただきます。またそれでも行動が改まらない場合は、最寄りの警察署へストーカー被害の相談もさせていただきます』


 職場の関係に向けてのメッセージとしてはこれは相当に強い文言だ。


 良太は一瞬ぎょっとしたが、瀬奈が自分との関係をそれだけ大切に考えてくれているのだと思うと嬉しくなった。


「……大丈夫なの?」


 良太が問うと、瀬奈は言う。


「うん、まあなんかちょっとメッセージ来たくらいで過剰な、みたいな感じで言われるかもしれないけど、嫌なものは嫌なんだもん。後はこうしてはっきり言った方が良太も安心できるでしょ? 私がちゃんと良太が好きだって分かって」


 瀬奈がにやっとした風に笑うと、良太は苦笑いする。


 それに、と瀬奈は続けた。


「まあ、私も……良太の事、す、好きだし。結局私にとってはそれが一番大事なんじゃないかなっておもって。勿論良太が私を好きでいてくれていることは嬉しいけどね」


 試したりして、それで安心しようなんてろくな事にならない、と瀬奈は思う。


 世の中にははっきりさせた方がいい事と、そうじゃない事があるのだ、と。


 真実がどうこうというより、自分がそうと信じる方が良いこともあるのではないか、と。


 ──あれが夢で良かった


 ふと時計を見る。


 時刻は7時半だった。

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NTR・THE・ループ 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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