第4話【暁の獅子の日々】
夜明けは乳白の靄をまとって降りてきた。
野営地の竈は吐息のように白い湯気を上げ、幕の継ぎ目を縫う風が、塩と革と獣脂と、昨夜の笑いの残り香を一緒くたに運び去っていく。
金具が触れ合う乾いた音は霜の粒を踏むみたいに小さく弾け、馬の鼻息は低く、地面の下の温度まで揺らした。
百の音、千の匂い、わずかな光――それらがひとつの鼓動になって大地を叩く。ここは動いている。生きている。
桶を抱えたルカは、その生の中に自分の身体を差し入れるように歩いた。
水の重みが腕に食い込み、冷たさが骨へ喰い下がる。
泥は足首を掴み、離すとき名残を引く。
たびたびつまずくたび、胸の奥の鼓動が水面に落ちた石みたいにさざめいた。
「おい、新入り!」
鍋の列から飛んだ声で、身体がひとりでに跳ね上がった。
湯気の幕の向こうで、腕まくりの大男――料理番オルセンが木杓子を振っている。
眉は凶悪だが、湯気のせいか、目の縁はやけに丸い。
「そんなに身構えんな。食うのは肉と野菜で足りてる」
からりとした声に、胸の強ばりがわずかにほどける。
けれど桶を持ち直した瞬間、縁が脇腹を噛んで、水が跳ねて裾を濡らした。
「ほら見ろ、泥水の洗礼だ。腹を壊すなよ。壊したら仕事が増える」
言いながら、オルセンは鍋の火加減を、子をあやすみたいに優しく撫でた。
火は舌のように鍋の底を舐め、脂の光が表面でほどける。
湯気に混じるのは塩と香草だけではない。穀粉の甘い匂い、鉄のにおい、皮を焙る匂い、そして空腹が自分の体内から発している獣じみた匂い。
ルカはそれらの匂いに、世界の輪郭が少しだけ太くなるのを覚えた。
「桶は腰で受けろ。腕で持つと腕が泣く。腰は文句を言わん」
言うとおりに重さを腰に乗せると、足底に通った一本の芯が、自分の体を支え直した。
ふいに、身体が自分より大きな仕組みに組み込まれた気がした。
痛みは消えないが、痛みが居場所を得た。
***
昼は荷車につけ、と言われた。
塩と干し肉のうず高い積み荷。
車軸は油を含み、車輪は泥に歌を教えられて軋む。
「黙って歩け。音は敵を呼ぶ」
年嵩の団員の短い言葉は棍棒より重い。
泥の吸い口が靴底を引き、背の芯が前に傾く。
不意に、野盗の笑い声が耳の奥で薄く反響し、喉が乾き、舌に砂が張りついた。
「おい、顔が灰みたいだぞ」
隣からの声に反射的に肩が跳ねる。
栗色の髪、厚い肩、片方の口角だけが癖で上がる青年――グレッグが、荷の縁に軽く触れたまま、距離をそのままにして声量だけを近づける。
「あー、悪い。驚かせちまったか。吐くなら荷から離れてくれ。肉に風味は要らん」
言って自分で笑い、しかし近寄ってはこない。
彼の靴が泥を踏む音は、ルカの歩幅よりわずかに短い。
追い抜かず、追い立てない。
「歩幅を半分に落とせ。息が先に尽きる」
言葉は刃ではなく、滑車の油だった。
ルカは言われた通りに歩幅を刻む。
肺の内側に張っていた薄い膜が、少しだけ弛む。
泥の下に硬い地がある。
その見えない硬さを足で探り当てる要領を、靴が覚え始めた。
「俺はグレッグ。お前はたしかルカだったな。よろしくやろう、泥の味を分け合う仲として」
軽口の底に石が沈んでいる。
その重さはからかわず、見下ろさず、ただ一緒に持つ手の形をしていた。
ルカは頷いた。
頷くという動作が、こんなにも楽にできたのはいつ以来だろう。
***
夕刻。
野営地は湯気で霞み、煮立つ音が腹の皮を内からつまんだ。
木椀を差し出すと、オルセンが肉を叩きつけるように盛る。
「働いた分だけ食え。働かん分は俺が食う。つまりどっちにしろ無駄は出ない」
どや顔で言うと、周りから「知恵者ぶるな」と笑いが飛んだ。
ルカは椀を抱え、ふちの熱に指を炙られながら、口に塩気を運ぶ。
肉は筋が強く、噛むたびに口の中で小さな戦が起きる。
勝利は唾液にあり、敗北は涙腺に迫る。
喉を通る重さが、生の方向を指し示す。
喉が痛いが、それは生き物の痛みだ。
焚き火の向こうでは、黒が揺れた。
【影】は火の縁で人の形を真似、裂けた口のような部分が、音のない呻きを吐く。
それは耳に届かず、胸の内層でだけ響いた。
『……温かい……』
温かい、と言いながら凍えている声。
矛盾は、いつも【影】の側にあった。
「よぉ新入り」
赤い外套の男が立つ。
獅子の肩章、浅黒い頬に古傷、目は散らず、焚き火の火花だけが散る。
団長レオン。
名乗らずとも、周囲の空気が彼の名を名乗っている。
「初日、どうだった?」
ルカは緊張で椀を落としそうになり、慌てて両手で抱え直した。
小さく、嘘のない声が出た。
「……何も、できなかった」
「できない日をやり過ごすのが、最初の仕事だ」
それだけ言って、レオンはルカの手を見た。
水でふやけ、桶の縁で擦れて赤い。
男は酒を一口あおり、酒の匂いを言葉の前に置く。
「明日は今日より一つ覚えろ。桶の持ち方でも、礼の言い方でも、数字の読みでもいい。積み重ねは獅子より強い」
言葉は短い。
だが短い言葉ほど、長く内に残る。
***
幾日かが重なった。
朝――水面は薄い雲を映し、桶の縁はもう脇腹を割らない。
オルセンは怒鳴り、すぐ笑い、笑いながら塩の匙を秤に載せる。
「二つまみ? 三だ。汗は想像よりしょっぱい。お前の失敗の味もな」
「それは……苦い、かも」
思わず口から零れた言葉に、オルセンが一拍置いてニヤリとする。
「よし、味の語彙が増えたな。成長だ」
余った端肉を、彼はわざと外して焚き火際に落とす。
ルカが拾うと、彼は鼻を鳴らし、世界でいちばん不器用な恩着せがましさを装った。
「誰が落とした? 俺は知らんぞ。地面から生えたんだろ」
昼は荷運び。
泥に車輪が沈むたび、グレッグの肩がまず入り、ルカが続く。
泥は抵抗であり、足場でもある。
足裏に広がる地図は、沈むことで道筋を教えた。
「いい、押せ……違う、足は前じゃない。沈めろ。泥の下に硬い地がある。そこに自分の重さを預けろ」
重さを預ける――それは、誰かに預けることの練習にも似ていた。
前に、一度もできなかったこと。
帰り道、グレッグがポンと自分の肩を叩きそうになって、空中で手を止めた。
手は空中で木の葉のように揺れ、彼は自分の手に小さく舌打ちをする。
「悪い、癖でな。……声で行く。よくやった」
彼のその優しさが嬉しくもあり、そして苦しくもあった。
どちらにしろ、目に沁みる。
***
帳場――
銀髪を低く束ねた少女、セレナは、数字を唱えるように指を動かす。
羽根ペンの先が紙の繊維に小さな山を立て、墨の匂いが鼻に刺さる。
「干し肉、四十。麦粉、三袋。――声が消えた。数字は途中で消えると死ぬのよ」
ルカは一度喉の奥を湿らせ、もう一度読み上げる。
セレナは一歩近づきかけて、ルカの肩の微かな強張りを見てとどまった。
代わりに、机の向こうから指示を飛ばす。
「ここに印を。字は……読めない?」
ルカが頷くと、彼女は新しい紙を取り出し、簡素な字を一つずつ書いた。
筆圧は軽いのに、線は意志を持っていた。
「覚えなさい。あなたが覚えれば、私が楽をできる」
「楽を……」
「そう。最高の動機でしょ?」
唇の端だけが、ほんのわずかに上がっていた。
彼女の冷たさは刃物の冷たさではない。
水面の冷たさだ。
触れ方を知れば、喉を潤す。
ルカが字形を間違えると、セレナは机をコツンと指で叩く。
音は小さいけれど合図として十分だった。
「『契約』。ここ、払いが足りない。――そう。よくできました」
言葉は、氷に差した光のように淡く温かかった。
セレナがルカに短い紙片を差し出す。
そこには不恰好な線で、しかし確かにルカの名が記されていた。
自分の手で書いたもの。
拙いが、逃げない線。
「契約書に、同じ字でここに署名。――間違えたら」
「煮込まれる?」
「煮込むのはオルセン。私は塩加減を監督する」
やり取りの端が、焚き火の火花みたいに小さく弾けて、すぐ暗がりで見えなくなる。
でも、その火花は衣のどこかに焦げ跡を残し、そこだけ温い。
***
ある日、水場。
見知らぬ傭兵が気安く背に手を置いた。
触れた瞬間、身体は自分のものではなくなり、桶は空に放り出され、水が陽の光に砕けた。
ルカは地に丸まり、肺が小さな窓になってしまったみたいに、空気が入らない。
「おい、何だ――」
「バカ野郎! 後ろから触るなと言っただろ!」
グレッグが駆け寄る。
だが彼は距離を取り、空気だけを寄越した。
名前は、こちら側へ人を連れ戻す縄だということを、彼は知っている。
「ルカ。俺だ。グレッグだ。大丈夫だ。――大丈夫だ」
ゆっくりと、肺の窓が手のひら一枚ぶんだけ広がる。
世界が再び空気を思い出す。
しばらくして、ルカは小さく首を振った。
「ごめん……」
「お前が謝ることじゃない」
その日の夕方、レオンは短く告げた。
「ルカには急に近づいて触れるな。必ず声をかけて正面から話せ。理由は――聞くな。ただ、守れ」
理由を説明しない命令は時に反発を生む。
だがこの男が言うと、命令は説明を必要としない形で、皆の胸に沈んだ。
沈むものは、やがて根になる。
それから、野営地の空気は一段柔らかくなった。
背後から声はかからず、手は空中で一度止まり、視線は必ず正面から差し込む。
気遣いは、意外なほど音がする――木のように、風のように。
ルカはその音を、日に何度も聞いた。
「気にすんな」
グレッグは言った。
手に持った干し肉を犬に見せびらかすみたいに振り、しかし犬はどこにもいなかった。
「家族ってのは、面倒を均すためにある」
「均す?」
「お前の面倒で俺の腕が太くなる。俺の面倒でオルセンの腹がさらに出る。セレナの面倒で団長の眉間の皺が深くなる。完璧な循環だ」
「……どこが完璧な循環なの」
「見た目が面白い」
くだらなさに、胸の緊張が少し笑いに似た動きに変わる。
笑いはひび割れた器の欠け目に入り込む樹脂みたいに、かすかに補修を始める。
***
日々は薄紙のように、しかし確かに重なった。
朝の手は冷たさを学び、昼の足は泥の下の硬さを覚え、夜の眼は火の縁の明暗を見分けた。
ルカは小さく息を吐いた。
吐いた息は白くなり、火に吸われ、夜に解けた。
膝を抱え、外套の端を肩にかける。
まぶたの裏で、銀の光が、以前より少しゆっくりと脈を打つ。
痛みは消えない。
だが痛みには位置ができ、位置には名前がつく。
名を持てば、呼びかけられる。
呼びかけられれば、返事ができる。
「明日も、前へ」
誰にも聞こえない声で言う。
夜は長い。
けれど火は絶えない。
火の端で、彼はようやく浅い眠りに落ちた。
明日の痛みに、手を伸ばすみたいに。
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