第3話【彷徨う先】
森は深く沈み、風の筋が木々の間でうなりを上げる。
ルカは枯れ枝を杖にして歩いた。
靴底は剝がれ、泥は冷たく踝に貼りつく。
喉は乾き、唇は血で固まり、空腹は刃を鈍く研ぎ直すように腹の内側をなぞっていた。
昼は陽に焼かれ、夜は雨に打たれ、眠りは恐怖の縁でちぎれた。
背後で村人の罵声と礫の音が、いまだ耳の底で響き続けている。
背負い袋の中には、両親の形見が入っていた。
父の革細工の道具と、母の薬草入れの小袋。
それだけが、失われた家族との繋がりを証明する唯一のものだった。
だが、その大切な荷物も長くは持たなかった。
三日目の昼下がり、森の道で野盗に襲われた。
三人の男が馬に跨って現れた時、ルカは逃げることもできなかった。
栄養失調で弱った体では、馬に敵うはずもない。
「へぇ、こんなところに迷子がいるじゃないか」
髭面の男がニヤニヤと笑いながら荷物を奪い取る。
袋から父の革細工道具が出てきた時、男の目が輝いた。
「やめて! それは…… 父さんと母さんの……形見だ!」
「死人に金は要らないだろうが」
母の薬草袋も取り上げられ、中の銀貨を見つけた男が舌なめずりをした。
「おお、これは当たりだ! よかったなガキ、銀に免じて命は勘弁してやるよ」
次の瞬間、ルカは背を蹴られて泥に顔を押しつけられた。
冷えた土の匂いが鼻腔を満たし、頬に湿り気が貼りつく。
「動くなよ、小僧」
野盗の一人が馬乗りになり、背に重みがのしかかる。
呼吸が浅くなり、肺が軋む。
頭上で金属の擦れる音が鳴り、刃が抜かれた気配がした。
冷たい気配が首筋をかすめ、背骨が凍りつく。
下卑た笑い声が耳を打つ。
泥の中で歯を食いしばるしかない。
視界は暗く、鼓動ばかりが響き、時間が引き延ばされたように遅くなる。
──何をされても抗えない。
ただ、時が過ぎ去るのを待つしかなかった。
ルカは地面に這いつくばって泣いた。
両親の最後の思い出まで奪われてしまった。
もう何も残っていない。本当に、何も。
***
野盗が去った後、ルカは丘の鞍部で崩れた廃屋を見つけた。
雨の筋で黒く斑になった壁、梁には焼け焦げが残り、床板はところどころ抜け落ちている。
壁際には、かつての暮らしの欠片――歪んだ鍋、割れた皿、煤で黒くなった祈祷札。
もうクタクタだった。
ここで夜をやり過ごすしかない、とルカは思った。
外は風が強い。
森の向こうで獣が吠え、遠雷の腹がくぐもっている。
廃屋の隅に身を縮めると、壁の割れ目から雨の滴が一滴ずつ落ち、泥の斑点を増やしていく。
板と板の隙間を抜ける風が、骨の内側まで探るように冷たい。
腕で身体を抱き、息を浅く重ねる。
眠ればまた襲われるかもしれない。
起き続けても、明日は来る。
どちらに転んでも、夜は長い。
差し込むように胃が痙攣した。
指先で泥を掬うと、舌の上に鉄の味が広がって、吐き気がせり上がってくる。
喉に戻った酸が鼻を刺し、目が滲む。
足を引きずりながら、ルカは近くの草むらを探った。
葉の裏に白い幼虫がいた。
指でつまむと柔らかく、怯えたように身を捩る。
その虫を、見ないように口に入れ、歯で噛み潰す。
苦い液が、腐葉土の匂いと一緒に広がって喉を上がり、涙が勝手に零れた。
(どうしてこんな惨めなことをしてまで、生きなきゃいけないんだ……)
声にならない問いが、胸の奥を突く。
けれど、身体はまだ生を欲しがっている。
不意に父と母、そしてミーナの笑顔が浮かんだ。
胃袋は収まり、脚は次の一歩を思い出す。
惨めさは剝き出しのまま、しかしそれだけが、生きてる証にも思えた。
夜半、雨音が少し遠のいた。
そのとき、廃屋の柱の影から、黒が立ち上がった。
人の輪郭をなぞった【影】。
かつては霞の塊にしか見えなかったものが、いまは腕の線、裂けた口許、衣のひだに似た陰影までが見える。
冷たい息が、耳ではなく胸の内側でささやいた。
『……寒い……』
別の影が現れて膝を抱え、『母さん……』と口の動きだけで泣いた。
耳を塞いでも無駄だ。
声は外からではなく、骨の内側に響く。
内側の見えない部分を、凍えるような感触が満たしていく。
彼は壁に額を押しつけ、歯を食いしばった。
「やめろ。黙れ。僕に縋るな。僕は……」
言葉が脳裏で崩れ、代わりに胸の奥で光が脈を打つ。
銀色の、薄い刃のような光。
恐怖と孤独が、その輝きを強く研ぎ澄ましていく。
影は彼の視線に触れた瞬間、びくりと痙攣し、霧のように薄まって床に染み込んだ。
泣き声だけが僅かに遅れて、雨の粒と一緒に消えていく。
翌朝、彼は廃屋を出て道なき野に足を踏み入れ、小さな祠に行き当たった。
石は苔に覆われ、角が風雨で丸くなっている。
白い冠を象った浮彫が、わずかに光の縁を保っていた。
「白冠会の印だ……」
ルカは文字を読めないが、祈りの形は理解できる。
冠の下に刻まれた手の図像、掌の上に描かれた滴――
救済を示す符だ。
供え物はない。
祈祷札は雨に貼りついて文字が溶け、祠の周りには足跡すら消えている。
「祈っても、腹は膨らまない」
呟きは風に攫われた。
祈って救われるのなら、なぜ自分はこんなにも、孤独で惨めで苦しいのだろうか。
それでも彼は掌を祠の縁に置いた。
冷たさが皮膚を通って骨に触れる。
不思議と、体の芯が一度だけ静かになった。
祈りは糧にならずとも、もう一歩を踏み出すための支えにはなるようだ。
日々は、薄紙を重ねるように過ぎた。
空はいつも重く、風はいつも匂いを運ぶ。
腐敗の匂い、煙の匂い、油脂と鉄と、獣の諦めた息。
道端で見つけた桑の実は酸っぱく、苔は口の中で土に戻る。
雨水は冷たく清いときもあり、黒く濁って喉を焼くときもある。
腹は泣き、脚は震え、背骨は夜の風で固まる。
夜ごとに【影】は近づき、輪郭を増やしていった。
老人、女、子ども。
名も知らぬ誰かの残滓が、彼の近くに寄っては薄れ、また寄ってくる。
彼の力は伸びている。
望んだわけではない。
孤独が感覚を研ぎ澄まし、飢えが視界の余白を削っていくと、【影】の濃度が上がる。
「生きる意味はどこにある……」
問いは夜になると肥大化し、胸郭を内側から押し広げる。
答えはない。
けれど、足は止まらない。
止めた瞬間、彼は【影】と同じ重さになってしまう気がした。
重さのないものになって、風の隙間に消える。
それが、いまの彼には怖かった。
***
丘の向こうに、煙が二本立っていた。
風向きが変わり、獣脂と香草と、人の汗の匂いが鼻に入る。
草むらを割って視界が開けると、野営地が見えた。
赤茶の幕が列をなし、獅子の紋章を掲げた旗が風に鳴る。
中央では大鍋が湯気を吐き、鍛冶場の火床が昼の光をまき散らしている。
槍の穂先が揺れ、盾が鈍く応える。
弓手は糸の毛羽を指で撫で、斥候は泥の付き方で路面を読む。
厩舎では馬が鼻息を鳴らし、医務幕からは煎じ薬の苦い蒸気が漏れてくる。
帳場には契約台が据えられ、書吏が羽根ペンを走らせていた。
数字の列が読み上げられ、銅貨が乾いた音で皿に落ちる。
料理番は塩の匙を秤に載せ、若い連中が賭け札で小さく喧嘩を始めて、年長者に耳を引っ張られている。
千の手が、ひとつの夜を持ち上げている――
ルカにはそう見えた。
「止まれ」
槍を持つ歩哨が二人、ルカの前に立った。
片方は鷲鼻の瘦せた男、もう片方は頬に古傷のある女。
視線は警戒に濁り、手は槍の中程に緩みなく添えられている。
「誰だお前」
「……道を、探している」
自分でも頼りないと分かる答え。
男が鼻で笑い、女は顎をしゃくった。
「ここは施しの場じゃない。迷子は森へ戻れ」
そのとき、奥で人の流れがほどけた。
赤い外套に獅子の肩章をつけた男が歩いてくる。
浅黒い顔に古傷、視線は寒いが散らない。
周囲の空気がわずかに張り、作業の手が半拍遅れた。
「何事だ」
「流れ者ですよ、団長」
歩哨が答えると、幾つかの視線が男に吸い寄せられる。
男はルカを一瞥し、短く名乗った。
「俺はレオン。《暁の獅子》を率いている」
「……ルカ」
名を返すと、喉が砂をこする音を立てた。
レオンは言葉より先に、乾いたパンを差し出す。
「食え。話はそれからだ」
外皮は硬く、内部にわずかな温さが残る。
麦と塩の匂いだけで膝が少し柔らかくなり、彼はちぎって口に押し込んだ。
噛めば粉が喉に貼りつく。
水がほしい、と胸が叫ぶが、声にはならない。
久々の人間らしい食事に、ルカの口元は自然と笑みを浮かべていた。
「行くあては?」
「……ない」
「そうか」
レオンの声は平板で、情けでも裁きでもない。
ただ事実を置く音。
「なら、ここで使えるかどうか試されるだけだ。居場所は言葉では作れん。手で作れ」
背後で鍛冶の男が腕を組み、料理番が眉をひそめ、若い歩哨が鼻で笑った。
「また厄介なのが来たな」と誰かが囁く。
ルカはパンの欠片を握りしめ、視線を落とした。
【影】が足元に滲み、やがて陽の端に押しやられた。
その夜、焚き火の端にルカの席が与えられた。
熱が頬を撫で、火の粉が星のように跳ねる。
酒の匂い、油の匂い、革の新しい匂い。
賭け事の笑いと祈りの鼻歌が交じり合い、夜を押し戻していた。
医務幕の方角からは、咳の合間に匙が器に当たる音がする。
帳場では銅貨が皿に落ち、紙の端がめくられる気配がした。
遠く、厩舎で鈴が一度だけ鳴り、馬が短く鼻を鳴らした。
人がいる。多すぎるほどいる。
それでも、彼の膝の上には、ただ自分の両手しかない。
炎の向こうで、黒が揺れた。
【影】は誰にも気づかれないまま、火の光の端で、誰かの形を模して立ち上がる。
『まだ……ここに……』
『痛い……』
囁きが胸の内側を擦っていく。
喧騒の中でさえ、ルカはただ孤独と苦しみの中にいた。
「こんなふうに苦しんでまで、生きる意味はあるのかな……」
何度も生まれた問いの答えは見つからない。
焚き火に掌をかざすと、皮膚がひりついて、痛みが少し安心に似た感覚を呼んだ。
痛い、というのは、まだ切れていないということだ。
「寝ろ。明日からは働け」
団長の声が背後から短く落ちる。
救いでも拒絶でもない。
ただ、歩を明日に繋ぐための言葉。
ルカは頷いた。
頷く以外のことが、今はできなかった。
胸が氷で埋め尽くされていく。
団長が去った後、静かに呼吸を噛み締めた。
空を見上げると、旗の縁が風に鳴る。
獅子の紋は焚き火の光で歪み、夜の獣のように見えた。
ルカは真新しい外套の端を肩にかけ、膝を抱えて目を閉じる。
まぶたの裏で、銀の光が微かに脈を打った。
【影】は近づき、また薄れ、やがて火に追い払われる。
泣きそうになるたび、彼は歯を噛んだ。
胸の奥で、問いがまだ燻っている。
それでも、足は明日も前へ出るだろう。
止めれば【影】になる。
動けば痛い。
なら、痛いほうを選ぶ。
夜は長いけれど、火は絶えない。
その火の端で、彼はようやく浅い眠りに落ちた。
明日の痛みに、手を伸ばすみたいに。
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