第2話 水園家という鳥籠

 そんな小夜の元に運命の出逢いが訪れる少し前のこと──。


 「いつまでそんな姿でいるつもりだ。早く人間へ変化せんか、この愚図が」


 「……申し訳ありません。お父さま」


 額に青筋を立てながら睨みつけている男の視線の先には一匹の狐が板張りの廊下に伏していた。


 雪色の毛並みをもつ小さな身体は小刻みに震えていて、人間が狐を見下すという、そこには異様な光景が広がっていた。


 まるで凶暴な狼が野生の狐を喰らおうとしているようにも見える。


 「一体どうしたというのか。まさか、この私に逆らおうとしているのか? 良い御身分だな。お前はすでにゴミも同然だというのに」


 「そんな、滅相もございません……!ただいま人間の姿になります」


 「ふん。私の貴重な時間を無駄にさせよって。このお前に構っている時間がなければ、どれだけの金が稼げると思うか分からないのか!」


 「……っ」


 腕組みをした男は苛立ちをぶつけるように自身の片足を狐の顔の真横に思い切り叩きつけた。


 急に耳元で鳴り響く大きな音に驚いて前足で耳を塞ぎたくなったが、目の前にいる父親が、その場に流れる空気がそれを許さなかった。


 仮にもしそのような反応を示せば、親に反抗しているとみなされて、必ず手を出されてしまう。


 以前にも暴力を振るわれたことはあるけれど、その痛みに慣れることはないし、慣れたくもない。


 それを回避するためには今出来る最善の方法を見つけなければいけない。


 一番は父親の指示を完璧にやり遂げるのが良いことは分かっている。


 分かっているのだけれど、身体が、霊力がいうことを聞かないのだ。


 しかし小夜は、ずっとずっと昔から知っている。


 そう、元を辿れば他者を不愉快にさせる自分が一番悪いことを。


 いっそのこといなくなればいいのだけれど、それは怖くて悲しくて、その選択肢を選べずに今までを過ごしてきた。


 (お父さまの機嫌をこれ以上損なうわけにはいかないわ。でも何か一つでも行動を間違えれば、ただではいられない)


 それに許可なく顔を上げてしまえば父親の怒りを買ってしまうと知っている狐──水園小夜は微動だにしなかった。


 いや、動きたくても恐怖で身体が硬直してしまったのだ。


 しかし父親の命令は直ちに術を行使して人間に変化をすること。


 霊力を身体中に込めて集中するが姿が変わる気配が一向にしない。


 (どうして……。早く人間の姿にならないといけないのに)


 そう、彼女の本当の正体はただの狐ではなく、天帝に力を与えられている特別な存在である空狐だ。


 文明開化が目覚ましい今のこの時代。


 より良い国づくりに尽力しているのは人間だけではない。


 人間には有さない特別な霊力で古来から陰で国を支えているのは狐である。


 全国各地に数多いた狐はいつしか帝都に移り住み、町を築き上げた。


 和洋入り混じる華やかな帝都から離れた山手に集うのは由緒正しい狐たちの名家。


 中でも一際目を引くのは荘厳な門構えの広大な木造平屋の屋敷。


 そこが小夜が住まう場所、水園家だ。


 狐たちには天帝より位が与えられている。


 下から野狐、気狐、空狐、そして天狐。


 他の追随を許さないほどの圧倒的な力を宿す天狐は生を受けた瞬間から最高位に君臨してきた。


 天狐以外の狐も普通の人間から見れば神秘的な雰囲気を纏っている。


 しかし彼らはそれをはるかに上回る優美さを放っている。


 現在、父親に蔑まれている小夜も二番目に位の高い空狐の一族。


 本来ならば、このような扱いを受けることは絶対にありえない。


 「まさか外でも狐になっていないだろうな?」


 「そ、れは」


 どもり、濁らせる小夜に父親である高志郎は再度、片足を思い切り床に叩きつけた。


 ばんっと大きな音が鼓膜を響かせ、小さな身体は振動で揺れる。


 心臓も、ばくばくと鳴って壊れてしまいそうになる。


 この怒り方は、きっと手を出されてしまう。


 そう覚悟して固く目を閉じた瞬間、それが現実になった。


 「人前で変化を解いてはならぬと何度言えば分かる!この恥さらしめ!」


 「ぐっ、うぅ……」


 首根っこを乱暴に掴まれ、強引に上を向かせられる。


 暴力を受けるのは今日がはじめてではなく、小夜にとって日常茶飯事だ。


 (どうして、わたしだけ変化が出来ないの)


 小夜は空狐の一族に生まれながらも、人間へ化けることが不得意。


 いわゆる落ちこぼれである。


 この国に住む狐は学校を卒業したあと、当主や彼らの秘書、側近など特別な職務に就く者以外、町を出て働くのがしきたり。


 人間に紛れながら暮らし、己に秘める霊力を行使してこの国を安寧へと導く、それが天帝より課せられた命令でもある。


 狐は人間に化けられてこそ一人前。


 位が高ければ高いほど霊力が高く、才能の開花も早い。


 天狐ならば、ほとんどの者が赤子の頃には可能らしい。


 空狐でも物心がつく歳には大半が術を取得するのだが、小夜だけは違った。


 驚いたり恐怖心を感じたりすると変化が解けて狐へと戻ってしまうのだ。


 それに、体内に宿る霊力も極端に少なくて歴史ある水園家に生まれた稀有な子だった。


 徐々に首に伝わる強い力に耐えられなくなって懇願するように父親を見た。


 「も、申し訳ありま、せん……!申し訳ありません!」


 「ふん。どうせお前のことだ、謝れば許してもらえるという、生ぬるい思考なのだろう。残念だったな、謝罪など聞き飽きたわ。謝って上達すれば、どれだけ良いことか」


 「それは違います、お父さま!誤解です、わたしは本当にそう思って……」


 「間違い? 誤解? 私の考えが違っていたことなど過去に一度もない!恥をかかせるのか!」


 (く、苦しい……!)


 何度も謝罪の言葉を口にしようとする小夜に嫌気が差したのか、高志郎は苛立ったように鼻を鳴らした。


 そこで、ようやく首から手が離れる。


 ぼとりと音を立てながら、その場に倒れ込む。


 ごほごほと吐きそうなほどむせ、目から一筋の涙がこぼれ落ちた。


 何度も深呼吸をして荒い息を整えていく。


 こんなにも苦しく、つらい体験をしたのはかなり久しぶりかもしれない。


 (水園家に生まれたからには、わたしは、わたしだけの役目を果たしたいのに。周りの方たちの存在は、あっという間に遠くなっていく……)


 家族や同級生だけではない。


 小夜よりも年下の子は皆、すでに自由に術が行使出来ている。


 しかし十六歳にもなってこの調子では、希望も皆無になり諦めに、いや絶望へと変わる。


 家族は全員、優秀で社交性もあって、それぞれきちんと務めを果たしている。


 落ちこぼれだからといって何もしないわけにはいかないし、自分も家族もそれを許さなかった。


 たとえ空っぽの存在だとしても価値を見出したいと休日は家事をするが、ほとんど現在のような結果になる。


 使用人たちの陰口を耳にしたことがある。


 ドジという言葉では済まない、とろすぎて最悪な娘だと。


 「まったく、これから大事な客人が来るというのに手前をかけさせよって」


 呼吸が落ち着いても、憤怒を露わにしている父の顔を見るに見られない。


 まるで殺されてしまうのではないかと錯覚するほどの声。


 それが呪いのように脳裏に焼きついていく。


 今日は朝から水園家に来客の予定があったため、忙しくしている使用人たちの代わりに花瓶の水を取り替えようとした。


 しかし、その最中に誤って手を滑らせて床に落としてしまったのだ。


 美しく絵付けされた花瓶が無惨にも割れ、辺りは水浸しになっている。


 破片で出血などの怪我はしていないが、こうなるのであれば怪我の一つや二つをしてでも防げば良かったと後悔してしまう。


 別に怪我をしたところで誰も心配しないし、小夜自身も迷惑をかけずに屋敷内が上手く回るのであれば心底安堵する。


 いつまで寝ている、起き上がらんかと罵声を浴びて、ようやくふらつきながらも立つ。


 ぽたり、ぽたりと雫が滴り落ち、雪色の毛並みが水を吸って重たい。


 季節は春、まだまだ暖気よりも冷気の方が感じやすい。


 窓と窓の僅かな隙間から入り込む冷たい空気が体温を下げていく。


 ただでさえ寝不足や貧血で体調が思わしくないのに、このままではさらに悪化してしまうだろう。


 高志郎はあたたかそうな上等な羽織を着ているので、こちらの凍えそうな身体など、まったく知らないだろう。


 知ったところで彼は小夜の濡れた身体を拭いてくれたり火鉢や暖炉の近くへ連れてってくれる優しさなど持ち合わせていないので期待はしていないが。


 憂いを帯びた表情が水面に写るが、ギシギシと板張りの廊下を歩く音で、はっと顔を上げる。


 思わず小夜は一度、唾をごくりと呑んだ。


 (お母さま、お姉さま……)


 奥から表れた二人は散らばる破片、水に濡れた狐、腕を組んでそれを睨みつける高志郎の様子を見て、すぐに状況を理解したようだった。


 細く長い指を口の前に運んできては、笑いを湛えている。


 その姿はまるで貴婦人のようで、たいそう美しく、そして恐ろしかった。


 「ねぇ、小夜。自分が見向きもされないからって、どれだけ私たち家族に構ってほしいの?」


 「本当に。貴方が私の娘だなんて信じられない。水園家に生まれてくるのは冬真と一華だけで十分だったわ」


 空虚に満ちた目に映るのは二つ歳が離れた姉の一華、そして母の華織。


 一華は小夜と違って見目が正反対。


 ずっと大人びていて名前の通り華やかで存在感を放つ。


 背中まで伸びた長い髪は真っ直ぐで艶やか、肌は透明感があり、小さな唇はほんのりとほどよい紅色。


 そして、宝石のような紫紺色の瞳がきらりと輝く。


 (お姉さまの格好が普段と違う……。ああ、確か昨晩に最近新しくできたパーラーの話題に興じていたわね)


 これから母とその場所へ行くのだろう。


 女学院用ではない、白椿の柄に瑠璃色の振り袖を纏っている。


 気高く美しい彼女のために仕立てられた振り袖は、きっと周囲の人々の目を引くに違いない。


 母もそこまで派手ではないが、何とも上品で落ち着いた小花柄の振り袖を纏っていて、美しい彼女にたいそう似合っている。


 小夜はそのような高価な振り袖など持っていない。


 人間の姿のときは使用人たちから譲り受けたお仕着せ服。


 おさがりの為、ほつれたり軽い衝撃で破けたりしやすい。


 両親に新品のお仕着せ服をねだる勇気などないので、頻繁に自分で修繕しているのだ。


 端から見れば、とても血が繋がった家族には見えないだろう。


 平民と貴族といったところか。


 愛嬌があり、器量良しの姉と愛する母親のみ父から贈られたのだ。


 まあ羨む感情など、とうの昔に忘れたのだが。


 はあっと、わざとらしく大きなため息を吐くと両腕を組んで小夜を睨みつける。


 「一華は女学院で優秀な成績を修めているというのに、お前はいつまでも阿呆だ。水園家の唯一の汚点め」


 「我が家の輝かしい功績に傷と泥をつけるなんて。なんてひどい醜女なの」


 平然と暴言を吐き捨てる両親をとても見られなくて俯いた。


 涙は流れなかった。


 もう涸れ果ててしまったのか。


 それとも彼らが言っていることは正論だからか。


 小夜はすぐには分からなかった。


 (お父さまたちがおっしゃっていることは、わたしが一番よく知っているわ)


 家でも女学院でも姉と比較され、陰で生きてきた小夜に今さら説教だなんて必要ないし意味もない。


 最初はまともに変化出来ない自分をここまで育て、学ばせてくれたことには感謝していた。


 けれどそれは、別に小夜を大切に思っているからではない。


 娘を女学院にも通わせないケチな男だと世間から見られたくなかったからだ。


 要するに世間体を気にして。


 そのおかげで表向きの水園家はとても評判がよく、長きに渡って権勢を振るえているのだ。


 だから、使用人同然のこの扱いは慣れている。


 今さら、これくらいで口答えをする気も起きない。


 しかし、黙り込む様子が逆に三人を苛立たせたようだった。


 「貴女、本当に目障りなのよ!才能も無い、仕事もろくに出来ないなんて生きる価値はないわ!」


 「お前は本来ならば即刻、斬り捨てられるはずなのだぞ」


 「周囲の目もあるから、最低限の暮らしを与えてあげているのよ。感謝しなさい」


 「は、い」


 たった二文字を発するのが限界だった。


 三人の目を見ないで返事をしてしまえば、再び怒りを買うのは知っている。


 ただ、心が疲弊していた彼女は叩かれても暴言を吐かれても、どれでも良かったのだ。


 「お前……!」


 小夜の態度を見て、予想していた通りに父が怒鳴ろうとした瞬間に「あ!」と一華が発して遮る。


 「お母さま、もうそろそろ屋敷を出た方が良いのでは? 開店時間に間に合わなくなっちゃう。食べたいもの、数量が限られているんですって。売り切れたら大変よ」


 「あら、もうそんな時間? いけない、こんな娘に構っている暇はないわね」


 「私がよく叱っておくから二人は出掛けてきなさい」


 「はい、お父さま」


 「それでは行ってまいります。この娘に厳しく躾けておいてくださいね。遠慮など無用ですわよ、貴方」


 「ああ」


 彼女たちはまだ小夜を逃がす気はないようだ。


 寒気、疲労、恐怖。


 色々なことが重なって呼吸が荒くなってゆく。


 (そんな、まだ続くというの……?)


 「ねえ、お母さま。パーラーへ行ったあと、百貨店で雑貨を見たいわ。西洋から輸入された綺麗で珍しいものが置かれているらしいの」


 「もちろんいいわよ。たくさんお買い物しましょうね」


 高く弾んだ声が頭上で交差する。


 姉の一華と母親の華織は小夜と打って変わって物欲がかなり強い。


 彼女たちが話していた食べたいものというのは、おそらく雑誌に掲載されていた品だろう。


 小夜は女性向けの雑誌などはしっかりと読んだことはない。


 同級生たちが教室で開いていたのを偶然見てしまったので少しだけ知識があったくらいだ。


 どうやら帝都のモガの流行をいち早く取り入れるのが女学院の中では必須らしい。


 とにかく目立ち、その上何をしても優秀。


 それもあって一華は女学院のマドンナだ。


 大輪の牡丹が咲いたような笑みを浮かべ、返事をすると二人は軽い足取りで玄関へ向かって行った。


 何やら楽しげに会話をしている彼女たちの後ろ姿は誰もが憧れるような理想の親子の光景だ。


 小夜だって正真正銘、華織のお腹から生まれた娘だ。


 共に食卓を囲み、あのように横に並んで買い物へ行く権利もある。


 それは叶わぬことだと頭では理解しているつもりなのに、胸が切なく締めつけて前足でそっと抑えた。


 (……駄目よ、水園小夜。もう夢を見ない、何も望まないと決めたじゃない。想いを巡らせるだけ虚しいもの)


 この感情は無駄なんだと何度も言い聞かせて振り払っていく。


 カラカラと戸を開ける音が聞こえて、視線をその方向へ向ける。


 遠くには、玄関で草履に履き替えて、明るい外へと出て行く二人。


 光に満ちた外と暗く閉ざされた屋敷。


 まるで最初から住む世界が違っているよう。


 ぴしゃりと戸が閉められて辺りは静寂に包まれる。


 二人に向けられていた父の穏やかな視線が鋭いものへと変わり、こちらに移された。


 「私の知人の娘は天狐の一族の子息に見初められて来年に結婚するのだぞ。お前のような落ちこぼれなんぞ、存在するだけで恥ずかしくてかなわん。少しは見習ったらどうだ」


 「はい。精進いたします……」


 「それに空狐の娘が人間に殺されたとなれば、我が水園家の名に泥を塗ることになる。まあ、これ以上無様な姿を世間に見せるのであれば、私とて考えがある。この意味が分かるな?」


 「……っ」


 脅迫にも感じ取れる問いかけに、ひゅっと息を吸い込んだ。


 分かっている、誰からも愛されていないことなど。


 けれど、想像していたよりもずっと自分の命を軽く見られていたのだと改めて思い知らされる。


 つまり。


 成果を示さなければ殺す──。


 高志郎はそう言っているのだ。


 (仮に女学院を卒業出来たとしても、この調子では町の外で暮らしていける自信はないわ。嘘をつきながら毎日を過ごすだなんて、わたしなんかに務まるはずがない)


 狐が化けて人間たちに紛れながら生きているのは当然、秘匿。


 小夜らが通う女学院があるように町を離れる者は、しっかりと訓練を受ける義務がある。


 厳しいものだが、それほど狐の霊力が、この国にとっていかに必要不可欠であることを示している。


 (もし人間に正体がばれてしまったら)


 最悪の場合、殺される。


 帝都で暮らす狐は年に一度、町に帰り成果などを報告する義務がある。


 それに反すれば罰が下るとあって、ほとんどが義務を果たしているのだ。


 そう、ほとんどということは全員ではない。


 身分を偽ったまま人間と恋に落ちて駆け落ちする者、自らに背負った重責から逃れようと仕事を放棄し、帝都からいなくなった者……。


 毎年少なからず、そういった事案が確認されている。


 たとえ逃亡したとしても、狐の霊力があれば居場所など特定出来るので無駄だというのに己の欲望にはどうやら勝てないらしい。


 違反者は直ちに捕らえられ、罰として幽閉される。


 それだけ狐の霊力は、この国にとってなくてはならない大切なものなのだ。


 しかし、探し出せる力はあったとしても稀に居場所を突き止められない場合もある。


 すなわち、その者の死を示す。


 人間の姿のまま事件や事故に巻き込まれる場合、誤って狐の姿を見られ、殺される場合など多種多様だ。


 優秀な狐でも選択を一度でも間違えれば、恐ろしく悲しい結末を迎える。


 それなのに狐の中で一番と言い切って良いほどの落ちこぼれが仕事を全う出来るはずがない。


 「お前が死ぬか否かは卒業試験にかかっている。卒業も出来ない娘など、この家にいらんわ。それが嫌なら完璧な変化を習得するんだな」


 (きっとお父さまなら、わたしを殺して、あたかも自害したかのように見せることも可能。……ああ、でもいっそそれも良いかもしれない。生きていても幸せな未来など待っていないもの)


 俯いたまま、輝きを失った目でぼんやりと、濡れた廊下の床を見つめる。


 身体を濡らして一方的に叱られても水園家には誰ひとりとして小夜を助ける者はいない。


 それは家族だけではなく、屋敷で働く使用人たちも。


 幼い頃は両親や兄姉に理不尽に暴言を吐かれ、使用人たちに助けを求めた。


 全員じゃなくても良い、ひとりだけでも味方になってほしかったのだ。


 しかし、使用人たちは小夜に優しくすれば両親たちの怒りを買い、解雇になることを恐れたため、無視をし始めた。


 最初は物音や怒号に一度はこちらの様子を伺うように見ていた使用人たちも今は何事もなかったように仕事を再開していた。


 もう何年もつらさや悲しさを他人に伝えたことはない。


 すべての感情は外に流れることなく、心に溜まっていく。


 きっと他の家の娘は、友人と恋愛の話に花を咲かせて、休日にはパーラーや観劇に行き、夜には温かい布団で眠りにつく。


 世間にとっては当たり前のことでも小夜には夢のよう。


 「旦那さま。間もなく、お客さまがいらっしゃる時間でございます」


 白髪を綺麗に結った使用人頭が廊下の奥から姿を現し、報告をしたところで、はっと我に返る。


 色々なことが重なって、すっかり忘れてしまっていた。


 今日はこのあと、父の大事な客人が訪問する予定があるのだ。


 玄関に近い廊下は小夜が手を滑らせて割ってしまった花瓶の破片がまだ散らばっている。


 それに加え、水で廊下を濡らしているので早く片づけをしないと予定時刻を迎えてしまう。


 しかも小夜はまだ狐の姿のままである。


 この姿では時間までに片づけを済ますなど限りなく不可能だ。


 しかし、この状況を招いてしまった責任がある。


 早く人間の姿に化けて、散乱した破片を集めないとと思えば思うほど焦りが募る。


 身体に霊力を集中させることを意識しながら、慌てて口を開く。


 「あっ。ではわたし、ここの片付けを──」


 片付けの申し出をした瞬間、高志郎はさらに眉をつり上げてぎろりと睨みつけた。


 危機を察知した小夜は咄嗟に口を噤む。


 「余計な手出しはするな!鈍いお前にやらせたら、日が暮れて間に合わん。片付けは使用人たちに任せる。お前は客人が来ている間は部屋から一歩も出るな」


 「……はい。かしこまりました」


 ここで下がらなければ、また苛つかせるのは目に見えている。


 素直に従った方が良いとすぐに察して大人しく待つ。


 頷く小夜を見て、父はまだ何か言いたそうにしていたが、フンッと鼻を鳴らして背を向けた。


 こんな娘にいつまでも構っているほど、当主は暇ではない。


 少しでも約束の時間に遅れれば、信頼も損なってしまう。


 どちらを優先するべきか、誰でも分かる簡単なことだ。


 傍に控えていた使用人頭にちらりと視線をやり、ここはお前たちに任せた、と言い残すと廊下の奥へ消えて行った。


 「かしこまりました」


 「あの。わたしのせいで、ごめんな──」


 「貴方たち!手が空いている者は今すぐこちらへ!」


 小夜の謝罪の声も使用人頭の屋敷中に響き渡るような呼びかけの声に掻き消される。


 すると数名の使用人が箒や雑巾などを手にして足早にこちらへ来ると、片付けを始める。


 まるで、小夜がいないかのように辺りを動くので、これ以上邪魔をせず、迷惑をかけないよう、そっとその場を離れるのだった。


         ◆


 自室へ戻ってきた小夜は前足で襖を開けて中へと入る。


 ここは水園家の屋敷の、奥まった場所にある。


 文机と箪笥、籠しか置いてない殺風景さは、他人から見れば令嬢の部屋とは思えないだろう。


 障子には数ヶ所、穴が空いていて、風が吹き込んでかたかたと音がしている。


 小夜は部屋の隅に置いてある籠から一枚の手ぬぐいを取り出す。


 人の手のように綺麗には拭けないが、このままでは風邪をひいてしまう。


 (体調を崩して女学院を休んだら、またお父さまたちに叱られるわ。ただでさえ身体が弱いのに、こんなにも濡れてしまったら確実に倒れてしまう)


 小夜は生まれつき病弱で定期的に女学院を休んでしまう。


 症状が軽ければ無理をしてでも登校するが、どうしても起き上がらない日もある。


 その場合は両親にこっぴどく叱られて、しぶしぶ欠席の連絡を入れてもらう。


 両親としては小夜を学校へ行かせたいようだが、やはり世間体を気にして休むことを認めているようだ。


 体調不良の娘を女学院に行かせるのかと思われないように。


 (二週間前もお休みしてしまったし、また身体を壊したら何をされるか分からないわ)


 ある程度、水気を拭いたところで、文机の前に敷いてある座布団の上に座る。


 (実技は苦手だけれど、筆記は頑張らないと。だけど、この姿だと勉強も出来ないわ)          


 今はただの文机でも身体より大きく見えて、教科書さえも開いて見られない。

 

 仮に届いたとしても、この手では雑記帳も開けず、筆記用具も握れない。


 (わたしは本当に情けないわ。ひとりでは何も出来やしない)


 今は父は客人をもてなしていて、姉と母は買い物中。


 静かに勉強が出来る良い機会なのに、自分の不甲斐なさで時間を無駄にしていると自覚してしまう。


 小夜は町の一角に門を構える五年制高等女学校──鈴風女学院に通っている。


 狐のみが通えることができ、周辺には霊力が込められている特別な結界が張られており、人間にはその目で確認することは不可能だ。


 まだ昼前だが、連日の寝不足のせいで、ドッと疲労感と眠気が小夜を襲う。


 (いけない、休んでいる暇はないわ。早く人間の姿に変化しないと。皆の用事が終わって尚、このままだったら、次は何をされるか──)


 変化が苦手な分、筆記は頑張っているのだが、知識だけでは一人前になれない。


 小夜は霊力が少ないうえ、臆病だ。


 人間の姿のままで順調に過ごせていても、苦手な虫や雷が原因で変化が解けてしまう。


 しまいには、自分自身の影が幽霊に見えてしまい、驚いたはずみに狐に戻ったことも。


 このままではいけないとわかっている。


 空狐の一族の長の家である水園家に生まれたからには娘としての役目を果たしたい。


 女学院を卒業した者は、帝都に赴くという選択肢の他に、狐の一族の当主や側近の花嫁になれる場合もある。


 過去に抱いた「いつかは華やかな帝都で働いてみたい」「花嫁となって幸せな家庭を築きたい」といった夢は叶わなくても良いし、見てもいない。


 ふと、鳥のさえずりが聞こえ、外へ視線を向ける。


 空には青空が広がり、白い雲がゆったりと流れている。


 小夜の心情とは正反対のような輝きを放った光景。


 (今頃、お姉さまたちはお買い物を楽しんでいるかしら。わたしが幼い頃は買い物に行ったこともあるようだけれど、ほとんど覚えていないわ)


 小夜は女学院へ登校する以外は、自由な外出は認められていない。


 ほとんど、水園家という鳥籠に囚われているような状態だ。


 (将来、この家を継ぐのはお兄さま。お姉さまは花嫁になる。そうしたら、わたしの居場所が完全に無くなってしまうわ)


 小夜と一華には歳の離れた兄、冬真がいる。


 現在は、洋行していて仕事をしながら様々な勉強をしているらしい。


 伝統を重んじつつ、革新を取り入れ、この町をさらに発展させるのが狙いのようだ。


 数年前から洋行している兄は、多忙を極めているため、年に一度、帰国出来るかどうか否かというぐらいだ。


 兄も他の家族と同様に小夜を嫌っている。


 先ほどの三人のように、直接虐めるのではなく、完全に無視をするのだ。


 まるで、小夜が存在しないかのように。


 霊力に恵まれなかった妹を受け入れなかったのだ。


 逆に、優秀で愛嬌をたっぷり振りまく一華のことは溺愛している。


 愛するあまり将来、彼女が帝都で働くことに頑固として反対している。


 まあ、一華も嫁ぐことを望んでいるので問題はないのだが、兄は相手を慎重に選びたいようだ。


 妹を一生かけて守り抜き、幸せにすると誓える者ではなければ、絶対認めないと言うほど。


 前回、兄が帰国した際に屋敷で小夜を除いた四人が、広間でたいそう賑やかに話をしているのを耳にした。


 一華は過保護で溺愛してくる兄に少し困ったような素振りを見せていたが、それくらい大切に思ってくれているのだと嬉しそうにもしていた。


 実際、彼女は女学生の身でありながら、いくつか縁談の話は届いていた。


 しかし、時期当主である兄から慎重に選ぶよう頼まれている父は、定めた基準を越えなければ、すべて断っていた。


 女学院のマドンナでもある一華に、その魅力に惹きつけられるように男性は近づいてくるが、ある一族のみ、姿を現したことはなかった。


 狐たちの最高位に君臨する、気高き一族──。


 (天狐さま。あの御方はまだお姉さまに縁談を申し込んでいない。何故かしら……)


 天狐の一族の当主、七条時雨。


 二十五歳という若さで当主の座に就いた彼は、絶世の美男。


 狐たちは全員が眉目秀麗だが、時雨は群を抜いており、代々受け継いだ神にも等しい霊力をその身体に宿している。


 限られた者しか会うことは出来ず、情報も噂で聞くのがほとんど。


 「今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏った御方」だとか「背筋が震えるほどの冷酷無慈悲な御方」などと耳にするので、本当に実在するのかと疑ってしまう。


 落ちこぼれである小夜は当然、会ったことはない。


 (今までも、そしてこれからもお会いすることなんてないけれど。もし七条さまとお姉さまが結婚するとなっても、わたしはきっと屋敷で留守番ね)


 結婚式を欠席する理由なんて、父たちならいくらでも作ってしまう。


 家柄も霊力も問題がなく、魅力溢れる彼と女学院一のマドンナである姉なら、きっと誰もが羨む夫婦になれる。


 実際、姉の一華も七条家からの縁談を待って、他の男からの誘いを断っている様子。


 そこで、「縁談」という言葉に、小夜はふと同級生たちの会話を思い出す。


 (でも、名家の令嬢が七条家から縁談を申し込まれても即日、破談になっているみたい)


 一見、引く手あまたのように見える時雨でも、何故かなかなか順調に婚約者が決まらないらしい。


 欠点すら見当たらないような完璧な淑女でも、時雨の方から断っているという噂が女学院内で持ちきりだ。


 つい先日も、一人の令嬢との縁談が破談になったそうなので、時期に水園家に話が持ちかけられるだろう。


 もちろん、一華宛てに。


 (破談になるのはとても不思議だけれど、きっと七条さまにも理由やお考えがあるのよね)


 一切関係のない小夜がいくら考え、悩んでも意味はない。


 天地がひっくり返ったとしても、落ちこぼれ宛てに縁談なんてこないのだから。


 俯いていた視線を上げ、身体中に僅かな霊力を巡らせる。


 いつまでも、こんな姿のわけにはいかない。


 姉と母が帰ってくれば、仕事を押しつけられる可能性もある。


 二人はいつも「貴方はどんなに頑張っても、どうせ落ちこぼれのままなのだから、勉強なんてしても無駄よ」などと言って、掃除や洗濯をさせる。


 使用人もいるのだが、小夜にやらせるために、わざと仕事を残しているのだ。


 貴重な一人の時間をこれ以上失いたくはない。


 (人間の姿になって──)


 強く祈りながら、爪の先まで霊力を行き届かせる。


 身体を小刻みに震わせて、一筋の汗が流れたとき、ぽんっという軽い音が鳴る。


 ふわりとした煙が小夜を包んで、数秒でゆっくりと消えていく。


 「出来た、かしら……?」


 おそるおそる目を開けると近くに置いてある姿見へと視線を向ける。


 「……はぁ」


 姿見に写った自分を見て、心底残念がるため息が漏れた。


 長い雪色の髪に白い肌、細い指はどう見ても人間だが、落ち込む原因は二つある。


 「耳と尻尾が残ったままだわ……」


 頭にはぴくりと動く耳とお尻からはふわりと揺れる尻尾。


 つまり、変化には失敗したということだ。


 この状況を誰にも見られていないのが不幸中の幸いである。


 父たちに見られれば、こっぴどく叱られ、女学院の試験でこの姿ならば即、落第だ。 


 複雑な感情になりながら、人差し指と中指で耳を二回目ほど触る。


 (耳と尻尾が残っているのが気になるけれど、勉強が出来ないわけではないから)


 もう一度、変化に挑戦しようかと思ったが、霊力も少なく、身体も弱い小夜にとって、かなり気力も体力も消耗するので、断念する。


 生まれつき病弱な上、食事もろくに与えられていないので、変化の練習に励んでも長時間は保たないのが現状だ。


 首許や手首が痩せ細っているのを見て、これ以上周囲に怪しまれないように、調理場にある残り物を集めて食べている日々。


 一日に一食でも食べられれば良い方。


 何も口に出来ない日が圧倒的に多いのだ。


 もし、まともに食べられていれば、他の娘と大差ない身体になっただろう。


 (少しでも口にして太らないとお父さまに怒られるから)


 以前、帝都で働く父の友人が町に帰り、小夜を見かけた際、明らかに細すぎる彼女を心配して連絡をしてきたのだ。


 もちろん、父は「食事を与えていない」とは絶対に言わない。


 (筆記試験がどれだけ良い成績でもお父さまは認めてくださらない。でも今、わたしに出来ることを頑張らないと。区切りがついたら、また変化の練習をしなくちゃ)


 外は晴天に恵まれているというのに、日があまり当たらない部屋のせいで、室内は薄暗い。


 沈みそうな気持ちを振り払いながら、小夜は教科書と雑記帳を開くのだった。

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