幕間:水鏡の中で

 夕暮れ時、神崎は里の奥にある湯壺を訪れていた。稽古で疲れた体を癒やすため、そして何より、まだ完全には慣れない自分の体と向き合うためだった。


「やはり、まだ少し違和感があるな……」


 湯気の立ち込める中、神崎は静かに湯に身を沈めた。水面に映る自分の姿を見つめる。長い黒髪、しなやかな肢体。かつての自分とは、まるで別人のような姿だ。


 神崎は、ゆっくりと手を動かしてみた。水しぶきが、月明かりに輝く。現代での記憶が、鮮明に蘇る。格闘技の試合で、パンチを繰り出す瞬間の感覚。握り締めた拳に込められた、爆発的な力。


「今は、あの力は出せない」


 神崎は両手を見つめた。細く、しかし筋肉の付き方は無駄がない。くノ一として鍛え上げられた体は、確かな強さを秘めている。それは、かつての自分とは異なる種類の強さだった。


 立ち上がり、ゆっくりと動いてみる。水しぶきを上げながら、基本的な型を確認していく。パンチ、キック、そして投げの形。


「重心が、全然違う」


 体の使い方が、根本的に変わっていることを実感する。かつての自分なら、上半身の力を中心に技を組み立てていた。しかし今の体では、それは効率が悪い。


 代わりに、腰の回転を中心とした動きの方が自然だった。細い手足は、むしろ相手の力を利用するのに適している。しなやかさを活かした投げ技や関節技が、驚くほど効果的に決まる。


「ここを……こう」


 水中で腰を回転させながら、神崎は新しい技の可能性を探っていく。かつての格闘技の知識と、くノ一としての体の特性。その両方を活かせる動きを、一つ一つ確認していった。


 ふと、胸に触れた手が止まる。柔らかな大きな膨らみ。それは、神崎が最も違和感を覚える部分の一つだった。


「まだ、完全には慣れない」


 しかし、それは単なる違和感ではなかった。この体には、この体なりの強さがある。むしろ、これまでとは異なる感覚が、新たな可能性を開いてくれる。


 神崎は、水面に映る自分の姿をじっと見つめた。月光に照らされた肢体は、確かな美しさを持っている。しかし、それは単なる外見的な美しさではない。武の道を極めようとする者としての、凛とした気品が宿っている。


「そうか……これが、私なのだ」


 その瞬間、神崎の中で何かが腑に落ちた。これまで感じていた違和感が、静かに溶けていく。


 水中で、ゆっくりと体を動かしてみる。肩から腰、そして足首まで。すべての関節が、まるで一本の糸で繋がれているかのように、しなやかに動く。


「力ずくでねじ伏せるのではなく、相手の力を受け流し、それを利用する」


 それは、まさにこの体に最適な戦い方だった。女性の体が持つ特性を、最大限に活かす術。現代格闘技の理論と、くノ一の技の融合。


 水滴が、月光に輝きながら舞い散る。その一つ一つが、新たな技の可能性を示しているかのようだった。


 神崎は、もう一度水に手を浸してみた。指先から伝わる水の感触が、以前よりもずっと繊細に感じられる。この体は、より細やかな感覚を持っている。それは、戦いにおいても大きな利点となるはずだ。


「相手の動きを、より早く、より正確に読み取れる」


 実際、稽古の中でもそれを実感していた。相手の気配や、微細な筋肉の動きまでもが、以前より鮮明に感じ取れる。それは、くノ一として生まれ持った才能なのか、それとも女性特有の感覚なのか。


 立ち上がり、水を払う。滴る水が、月光に煌めきながら落ちていく。その一つ一つが、宝石のように美しく見える。


「美しさの中にある強さ。強さの中にある美しさ」


 それは、この体になって初めて理解できた感覚だった。強さは、必ずしも荒々しいものである必要はない。しなやかで優美な動きの中にこそ、真の強さが宿ることもある。


 髪を絞りながら、神崎は空を見上げた。満月が、静かに輝いている。


「明日からの修行は、もっと違った形になるだろう」


 これまでの自分の経験を、この体の特性に合わせて再構築する。それは、単なる適応ではない。新たな境地を切り開くための、積極的な挑戦となるはずだ。


 湯壺を後にしながら、神崎は静かに微笑んだ。かつての自分が追い求めた極限の強さ。それは、この体でも必ず到達できる。いや、むしろ――より高みにまで至れるかもしれない。


 夜風が、神崎の長い黒髪を揺らす。その感触が、心地よく感じられた。もはやそれは、違和感ではない。自分自身の一部として、確かな実感を伴って受け止められる感覚。


 里の明かりが、遠くに見える。神崎は、その光に向かって歩き始めた。明日からの修行。そして、その先にある戦い。すべてが、新しい挑戦として、神崎の心を躍らせていた。

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