第一章:くノ一、目覚める
「……っ」
意識が戻った時、最初に感じたのは畳の香りだった。懐かしい、しかし同時に新鮮な匂い。
「どこだ、ここは……?」
神崎は目を開けた。
見慣れない天井。
茅葺き屋根の梁が、薄暗い空間に浮かび上がっている。
「体が……軽い?」
違和感を覚えて手を動かすと、そこにあったのは細く白い、しなやかな腕だった。慌てて体を起こし、全身を確認する。長い黒髪、すらりとした手足、しなやかな筋肉を持つ女性の身体。
「これは……夢なのか?」
「楓様、お目覚めになられましたか?」
障子の向こうから、若い男性の声が聞こえた。
「楓……様?」
「失礼いたします」
そう言って入ってきたのは、十四、五歳ほどの少年だった。短く刈り込まれた髪、引き締まった体つき、そして腰には短刀を差している。
「私です。月影でございます。まだ意識がはっきりしておられないのですか? 楓様の従者として仕えさせていただいております」
少年は深々と頭を下げた。その仕草には、武家の作法が滲み出ている。
「ちょっと待ってくれ。私は……いや、俺は……」
「楓様? やはり、まだ体調が優れないのでしょうか?」
月影と名乗る少年の顔に、心配の色が浮かぶ。
「任務中の事故で意識を失われてから、もう三日が経ちました。長老様も心配なさっておられます」
「長老……? ここは一体?」
「はい、ここは伊賀の里、忍びの里でございます」
その言葉に、神崎は息を呑んだ。忍びの里。伊賀。そして自分は「楓」という女性として扱われている。これは夢ではない。現実だ。
「月影、少し話を聞かせてほしい」
神崎は冷静さを取り戻そうと深く息を吐いた。
「楓様のような方が、そのようなご口調で……」
月影は少し戸惑いの表情を見せたが、すぐに真剣な面持ちで話し始めた。
それによると、「楓」は伊賀忍者の中でも特に優れたくノ一として知られる存在だった。幼い頃から類まれな才能を見せ、十六歳にして既に数々の重要な任務をこなしてきたという。しかし、三日前の任務中に不慮の事故で意識を失い、それ以来、様子が少しおかしいと皆が噂していたのだ。
「西暦ではなんと言う年だ?」
「西暦……? 申し訳ございません。そのような言葉は……」
「ああ、いや、今は天正何年だ?」
「天正十年でございます」
1582年。信長の時代末期。神崎は歴史の知識を総動員して時代を把握しようとした。
「楓様、そろそろ長老様がお呼びです。体調は……」
「大丈夫だ。案内してくれ」
神崎は立ち上がった。女性の体は確かに違和感があったが、不思議なことに体の動かし方は本能的に理解できた。まるで、この体で生まれた時から過ごしてきたかのように。あるいは武術を極めた神崎としての本能かもしれない。
「参ります」
月影の案内で、神崎は長老の間へと向かった。廊下を歩きながら、窓の外に広がる景色を眺める。茅葺き屋根の民家が立ち並び、遠くには山々が連なっている。まさに、戦国時代の山里の風景だった。
「これが現実なら……俺は本当に、戦国時代に転生したということか」
その考えは、荒唐無稽なものに思えた。しかし、目の前の光景は紛れもない現実だ。そして、この体に宿る感覚も、あまりにも生々しい。
月影が障子の前で立ち止まる。
「長老様、楓が参りました」
「入れ」
低く落ち着いた声が響いた。神崎は深く息を吸い、新たな運命に向き合う決意を固めた。
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