第3話 密室の幻影

 嵐の音は絶え間なく館を包み込み、まるで外界とのつながりを完全に断ち切ろうとしているかのようだった。

 九条悠也は、図書室から戻る途中で千里眼を働かせ、遠くの大広間に集うゲストたちの様子を覗き見た。

 何人かは明らかに疲労し、怯えている。それでも、誰もが何かを隠している顔をしていた。


「疑惑の館、疑惑の人々……こんな夜には愛すべき皮肉があるものだな。」


 九条は独り言のように呟き、廊下の奥で待つ三上涼介のもとに戻った。



 二人だけの秘密


 三上は冷たい石壁にもたれかかり、腕を組みながら静かに待っていた。

 その姿は表面的には余裕に満ちているように見えたが、九条だけはその背中に潜む微かな緊張を感じ取っていた。

 ランタンの灯りが彼の横顔を優しく照らし、わずかな影がその表情をさらに繊細に映し出している。


「涼介。」


 九条は軽く微笑みながら、少しだけ足を速めて彼に近づいた。

 声は柔らかいが、ほんの少しの躊躇がその中に含まれていた。


「こんな館に閉じ込められるなんて、ロマンチックとは言えないな。」


 三上はその言葉にクスリと笑みを漏らし、体の角度を少し変えた。


「お前と一緒ならどこだってロマンチックだと思ってたけどな。ただ……殺人事件が起きなければ、もっと楽しめたかもしれないけど。」


 その一言に、九条の胸がわずかに締め付けられる。

 彼は顔を背けようとしたが、その動きを抑え、少し赤らんだ頬を隠さずに答えた。


「次の事件を防ぐには、君がもっと役に立ってくれることを期待してるよ。」


 三上は、まるで九条の照れた表情を面白がるかのように、片眉を上げて言った。


「おいおい、そんな冷たいこと言うなよ。俺がいつもお前に振り回されてるの、知ってるだろ?」


 九条は冗談を軽く流そうとしたが、三上の目が真剣に自分を見つめていることに気づいた。

 少し動揺したように唇を開いたが、すぐに言葉を飲み込む。

 その仕草が、三上に一層の自信を与える。


「お前、さっき図書室で一瞬だけ俺を見たよな。」


 三上は壁を離れ、九条に少し近づいた。

 声には冗談めいた調子が残っているが、その目にはわずかな不安と期待が混じっていた。


「俺に何かを考えてた顔してたぞ。」


 九条は一瞬、言葉を詰まらせた。

 図書室での自分の視線が三上に見透かされていたことに気づいていなかったのだ。

 彼は表情を崩さないよう努めながらも、視線をほんの少しだけ下げた。


「……考えてたのは、俺たちがここを出た後の話さ。」


 九条は、できるだけ軽い調子で言った。

 その言葉を聞いた三上の顔には、一瞬の驚きと、次いで何とも言えない安堵の色が浮かんだ。

 彼は微かに笑い、九条の肩に軽く手を置いた。その手の温もりが、九条の全身に伝わる。


「だったら、もっと話してくれよ。」


 三上の声は低く、優しかった。


「お前が俺のことをどう思ってるのか、言葉で聞きたいんだ。」


 九条は一瞬だけ息を止めた。

 その瞬間、彼の胸の奥にある何かが弾けるような感覚があった。

 だが、彼はその感情を表に出さないように、小さく笑みを浮かべただけだった。


「こんな状況で話すのは、あまりに場違いだと思わないか?」


 九条は冗談めかして言ったが、その声にはわずかな震えが混じっていた。

 二人の間に流れる空気は、それまでの重い館の雰囲気とは対照的に、穏やかで温かなものだった。

 まるで嵐の中に一瞬だけ訪れる静寂のように、二人だけの時間が生まれていた。


 三上は少し離れ、冗談めかした口調に戻った。


「まあ、どこか安全な場所に着いたら、ゆっくり話を聞かせてもらうよ。それまで、俺が役に立つことを証明してみせる。」


 九条は微笑みながらも、心の中でわずかな焦りを感じていた。

 それは事件に対するものではなく、自分が三上に抱く感情がこれ以上隠しきれないのではないかという恐れだった。


「期待してるよ、涼介。」


 九条は小さな声でそう言い、再び前を向いた。

 彼の視線は廊下の暗闇へ向けられていたが、心の中では三上の手の温もりが、まだ残っていた。



 密室の悲劇


 その夜、九条と三上が大広間に戻った後、さらに衝撃的な事件が発生した。

 ゲストの一人、田宮真知子が自室で絶命しているのが発見されたのだ。

 彼女の部屋は内側から鍵がかけられており、窓は完全に閉じられていた。


「密室か。」


 九条は現場に入るなり、腕を組んでつぶやいた。

 田宮の身体はベッドの脇に崩れるように倒れており、その手には何かを掴むような形跡が残っていた。

 指先には黒い粉のようなものが付着している。床には倒れたランプが転がり、灯りの焦げ跡が奇妙な模様を描いていた。


「これは……どういうことだ?」


 三上が首をかしげた。

 九条は部屋の中を注意深く観察しながら答えた。


「犯人はこの密室を作るために、ごく初歩的なトリックを仕掛けている。」



 手垢のついたトリックと未知の毒


 九条は田宮の部屋のドアノブを調べ、その根元に小さな針金が絡みついているのを見つけた。

 そして、その針金は部屋の外側に繋がっていた。九条は針金を引っ張り、ため息をついた。


「犯人は、ドアノブに針金を仕掛けて外から鍵をかけたんだ。非常に古典的でチープな手法だが、それがかえって見落とされやすい。」


 三上は苦笑した。


「まさか、そんなベタな方法で密室を作っていたとはな。」


 九条は床に落ちていた黒い粉を指で触り、軽く匂いを嗅いだ。

 その瞬間、彼の眉がぴくりと動いた。匂いに混じるかすかな刺激が、九条の記憶の中で一つの仮説を形作る。


「これは……ただの焦げたランプの芯じゃないな。」


 九条は粉を慎重に紙に包みながら言った。


「どうやら、この粉はクルサリオキシン(Crusariotoxin, 化学式: C₁₂H₁₈O₄NCl)を含んでいるようだ。」

「クルサリオキシン?」


 三上が首をかしげた。


「聞いたこともないな。」


 九条は頷き、説明を続けた。


「これは特殊な有機化合物で、燃焼するときに微量の神経毒性ガスを発生させる。直接摂取するだけでなく、煙として吸い込むだけで短時間で意識を奪う効果があるんだ。そして、吸引量が一定を超えると心臓が停止する。」


 三上は驚きを隠せない様子で九条を見つめた。


「そんなもの、一体どこで手に入れたんだ……いや、それを作った奴がいるってことか?」

「それが問題だ。」


 九条は紙に包んだ粉をポケットにしまいながら、険しい表情を浮かべた。


「クルサリオキシンは市販されているものではなく、非常に限られた研究施設でしか合成できない。犯人はそれにアクセスできる立場にいるか、精密な化学知識を持っている可能性が高い。」


 三上は額を押さえながら呟いた。「つまり、毒で殺し、その後で密室に見せかけたわけか。」

「そうだ。」


 九条は静かに頷いた。


「犯人がこれを選んだ理由も興味深い。古典的な手法を採用しつつ、現代の化学を取り入れることで、捜査をさらに混乱させる狙いがあったのかもしれない。」


 三上は一歩後退し、深く息を吸った。


「古典的な密室トリックに最新の毒物……犯人はかなり計算高い奴だな。」


 九条はランタンの灯りに照らされる粉の跡をもう一度見つめ、低く呟いた


 。「犯人はこの毒物を扱えるだけの知識を持ち、しかもそれを隠すための手段にも長けている。普通の人物じゃないことは間違いない。」



 幽霊の目撃談


 その時、大広間に戻った橘遥香が、顔面蒼白の状態で駆け込んできた。


「幽霊よ! 久瀬さんが幽霊になって出てきたの!」

「幽霊?」


 九条は冷静に聞き返した。


「何を見たんだ?」

「白い影が私を追いかけてきたの……声も聞いたのよ!」


 遥香は震えながら話した。

 九条は千里眼を使い、その場で何が起きたかを探ろうとした。

 彼の視界に浮かび上がったのは、廊下の奥で誰かがランタンを揺らしながら走る姿だった。

 そのシルエットは幽霊のように白く見えたが、それが単なる光の反射であることに九条はすぐ気づいた。


「落ち着け。」


 九条は遥香に向かって言った。


「お前が見たのは、誰かが廊下を走っているだけだ。光と影がそう見せただけだろう。」


 だが、他のゲストたちも同様に「幽霊」を目撃したと言い始め、不安はさらに広がった。



 再び浮かび上がる謎


 その夜、九条と三上は再び館内を調査し、隠された部屋で久瀬の書いた日記を見つけた。

 そこにはこう記されていた。


『迷宮館は、罪人を裁くための場所である。真実を求める者は、自らの罪を認める覚悟を持て。』


「罪人を裁く……か。」


 九条は日記を閉じ、静かに呟いた。


「俺たちも、その中に含まれてるのかもな。」


 三上が小さく笑った。

 九条は何も答えず、ただ前を見据えた。その背後で、不気味な笑い声が一瞬だけ響いたことに気づく者は、まだいなかった――。

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